夢燈籠第31回

二十

 しばらくすると車が止まった。慶一がドアを開けたので、留吉は目が覚めた。
「兄さん、ここは――」
「ここが春山のアジトさ」
 そこはかつてロシア人が所有していたのか、ロシアの大農場主が住むような豪壮な邸宅だった。
「さあ、行こう」
 慶一の先導で中に入ると、ヴィクトリアン調の家具が飾られた居間に案内された。留吉が郭子明のことを聞くと、慶一が別室に通すよう命じたという。
「まずは春山さんに助けてもらった礼を言うのだ」
「もちろんです」
 やがて付き人を従えた白髪の老人が現れた。その顎鬚は胸のあたりまで伸び、南画に描かれるような深山の仙人を思わせた。
 慶一は春山に心服しているのか、座っていたソファーから立ち上がると、大きな声で「ありがとうございました。無事、弟を救出できました」と日本語で言った。そういえば春山は阿片特売人をやるくらいなので、日本語に精通しているに違いない。
 慌てて留吉も立ち上がり、礼を言った。
「礼はよい。こちらが弟さんか」
「はい、末弟の留吉と申します」
「そうか。危ういところだったな」
「そうなんです」と答えると、慶一が留吉たちを救った経緯を説明した。
「では、禄山一味は泡を食って逃げ散ったということか」
ソファーに座った春山が、二人にも座すよう手振りで示したので、二人も座った。
「はい。でも奴らのことです。またどこかで日本人を誘拐するでしょう」
 どうやら禄山一味というのは、阿片の栽培だけでなく人質交換も飯の種としているようだ。
「奴らの阿片畑も焼いたのか」
「はい、焼き払いました」
「いい気味だ。質の悪い阿片を高く売りつけていた罰だ」
 どうやら阿片もピンからキリまであり、栽培に手を抜いたものは質が悪くなるらしい。とくに満州では水の供給が問題なので、乾期が続くと阿片の実が小さくなり、質も悪くなる。そうした阿片は効きが悪いので処分せねばならないが、禄山一味は平気で売りさばいていたという。
「これからどうする」
 春山が留吉に問う。
「兄を連れて、ひとまず大連に戻ります」
「大連にか――」
 春山が慶一の方を何かを促すように見る。
「留吉」と、慶一が改まった様子で言う。
「俺は帰れない」
「何を言うのです」
 全く予想もしなかった慶一の一言に、留吉は戸惑った。
「何を言っているんですか。一緒に帰りましょう」
「俺は関東軍ににらまれている」
「それは分かっています。だから、まずは大連に行き、満州日報の庇護下に入り、その間に父さんに手を回してもらい、日本に帰国できるよう取り計らいます」
 春山が口を挟む。
「大連までも行けないだろう」
「それまでに殺されるというのですか」
 慶一がうなずく。
「そうだ。俺が殺されるのは仕方がない。だが日本を裏切った俺が、日本でどうやって生きていくというのだ」
「張作霖爆殺事件の証拠文書のことですね」
「そうだ。俺は日本軍の文書を持ち出し、春山さんに渡した」
 春山が再び口を挟む。
「それで私は大金を手にした。関東軍としては、慶一と私に恨み骨髄だろうな」
「では、兄さんはこの地に残るというのですか」
 慶一が眦を決する。
「それ以外に選択肢はない」
「待って下さい。少し考えさせて下さい」
 ――どうしたらよいのだ。 
留吉は混乱していた。
「考えたところで答えは出ない。俺は春山さんの許を出たら殺されるだけだ」
「では、ずっとここにいるというのですか」
「日本に軍隊がある限り、そうするしかない」
「そんな短絡的な――」
「短絡的ではない。じっくりと考えて出した結論だ。だが考えようによっては、この広い大陸で生きていくのも悪くはない」
 留吉に言葉はなかった。
 春山が結論を出すかのように言う。
「私も慶一の今後については考えた。だがこの地に関東軍がある限り、慶一は常に命を狙われることになる。だが唯一、私の手下になっていれば、身の安全だけは保障できる。しかも慶一は優秀だ。私の代わりに各地を飛び回り、様々なビジネスを切り開いてくれる」
 春山が慶一の方を見てうなずくと、慶一も笑みを浮かべた。
「ということだ。それ以外に道はない」
「家のことはどうするのです。父さんや母さんを悲しませるのですか」
 慶一の顔が曇る。
「それを言われると辛い」
「二人はもとより、正治兄さんや登紀子姉さんも、慶一兄さんの帰りを待ちわびています。ですから私と一緒に帰りましょう」
 春山がぽつりと言う。
「君は兄さんが殺されてもよいのか」
「ああ――」
 その可能性を完全に否定することはできない。慶一を帰国させてしまえば、関東軍の悪事がばれる。すでに河本は失脚しているが、後任の石原がそれを許すはずがない。だいいち留吉は、慶一を連れてくる約束までしているのだ。
「留吉、これは致し方ないことなのだ。俺は満州の大地に骨を埋めることになる。みんなには――」
 慶一が嗚咽を漏らしつつ言う。
「申し訳ないが、こちらで元気にやっていると伝えてくれ」
 ――万事休すだ。
 留吉は、軍部という乗り越えられないほどの大きな壁に直面したと覚った。
「分かりました」
「分かってくれたか」
「しかし情勢が変われば帰ってきてくれますよね」
「情勢がどう変わるというのだ」
 留吉が唇を嚙みつつ言う。
「例えば関東軍がなくなれば――」
「関東軍がロシアに敗れ、日本が満州を放棄せねばならなくなったら、それもあるだろう。だが日本に帰国すれば、軍部に命を狙われる」
「日本に軍がなくなればどうです」
「そんなことはない」
 慶一が笑う。
「せめて希望だけでも持たせて下さい」
「分かった。父さんと母さんには、『情勢が変われば帰国する』と伝えてくれ。いや、手紙を書こう」
「そうして下さい。正治兄さんと登紀子姉さんにも」
「正治の具合はよくないのか」
 留吉が黙ってうなずく。
「そうか。正治、すまない」
 慶一が東の空に向かって呟く。
 ――もう会えないと分かっているのだ。
 慶一の辛さが胸に迫る。
「慶一兄さん、いつかまた皆で食卓を囲みましょう。そして満州での冒険を語って下さい」
「そうだな。それができたらどれほどよいか」
 慶一が俯くと肩を落とした。

 翌朝、車で長春まで送ってもらった留吉は、大連行きの列車に乗ることにした。すでに板垣征四郎高級参謀と石原莞爾作戦参謀も長春を後にしていたので、もうこの地に用はなかった。郭子明はショックで口もきけなかったので、寝台車のベッドに横たえると、出発までのしばしの間、慶一との時間を過ごした。
 慶一はルビ・クインを取り出すと、留吉にも勧めた。
「ありがとうございます」
 これが慶一から何かをもらう最後かもしれないと思うと、胸底から寂しさが込み上げてくる。知らぬ間に、留吉は嗚咽を漏らしていた。
「泣くな、留吉」
「兄さんは、あの時もそう言ってくれましたね」
「お前が溺れた時か」
「そうです。僕を浜に引き揚げ、水を吐かせながら、号泣する僕に『泣くな』と言ってくれました」
「ああ、そうだった」
「あの海は兄さんの海でしたね」
 慶一が苦笑を浮かべながらルビ・クインを吸う。
「あの海に帰りたいな」
「そうですよ。兄さん、また一緒に泳ぎましょう」
「次は、お前に助けてもらうか」
 二人が笑った時、出発を告げるアナウンスが聞こえてきた。
「どうやら時間のようだな」
「そうですね。いつかまた会いましょう」
「ああ、そうありたい。皆のことをよろしく頼む」
 留吉が汽車に乗ると、慶一が分厚い手を差し出してきた。留吉が握ると、慶一が力強く握り返してきた。
「兄さん、これが最後じゃないですよね」
 留吉の瞳から涙がこぼれる。
「分からん。もうお前を助けてやることはできないかもしれない。だが留吉――」
 汽笛を高らかに鳴らすと、汽車がゆっくりと動き出した。慶一の手に力が入る。
「人生は白い画布(キャンパス)と同じだ。そこに何を描くかはお前次第だ」
「は、はい。立派な絵を描いてみせます」
「よし、満州の大地からお前のことをしっかり見守っているぞ」
「ありがとうございます」
 慶一が早歩きから駆け足になる。もはや握手しているのは限界だった。
「留吉、達者でな!」
「兄さんこそ!」
「家族を――、江ノ島の家族をよろしく頼む!」
「分かりました。満州の大地で思う存分生きて下さい!」
 遂に慶一の手が離れた。ホームの端に佇みつつ、慶一が大きく手を振る。
「兄さん!」
 留吉も汽車から身を乗り出し、思いきり手を振った。むろんこれが、今生の別れになると分かっていたからだ。
 やがてホームは黒煙に包まれ、慶一の姿は見えなくなった。
 留吉は大きなため息をつくと、その場に膝をついた。

夢燈籠

Synopsisあらすじ

江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!

Profile著者紹介

1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。

Newest issue最新話

Backnumberバックナンバー