夢燈籠 第24回


十三

 大連とは異なり、奉天は内陸部にある。それゆえ大連で見られたような港町特有の賑やかさはなく、郊外の静かな城郭都市という雰囲気を漂わせていた。しかしかつてのロシア占領下時代に、ロシアが都市計画を推し進めた点は変わらず、町の雰囲気は大連に近いものがある。
 奉天の特徴は重厚な城壁に囲まれている点にある。この城壁の外周は六キロメートル、そして高さは二十メートル前後もあり、町がこの城壁に守られているのがよく分かる。

 田中隆吉が奉天に滞在している限り、留吉も奉天にいられる。その間に兄の足跡を追わねばならない。
 留吉は郭子明(かくしめい)という青年を通訳に雇い、空いている時間を利用して慶一の行方を追った。だが行き当たりばったりでは、見つかるはずがない。そこで、事件前に逃げ出した阿片中毒者を捜すことにした。
 まず名前が分からなければ話にならない。だが関東軍が教えてくれるはずがないので、奉天軍の本拠である大帥府(だいすいふ)に尋ねてみようとした。だがそこでも、日本人に教えてくれる可能性は低い。
 そこで一計を案じた留吉は、郭子明を守衛所に行かせて守衛に賄賂(わいろ)を渡し、その阿片中毒者が大帥府に駆け込んだ六月三日の「出入名簿」を書き写させた。
この名簿は大帥府に勤めている者以外で、大帥府内に入った者に記入させるもので、名前と住所を書かねばならない。
 むろん一日に五十人から百人の出入りがあるので、それらすべてを書き写させる暇はない。それゆえ住所がないか隠したい者は書かないと、留吉は推定した。つまり住所欄が空白ないしは「なし」になっている者だけを書き写させたのだ。
 それで三人に絞られた。
 続いて郭子明を奉天郵便局に行かせ、三人の名から住所を調べさせた。こちらも賄賂で簡単に教えてくれた。
 かくして三人の名と住所が分かったので、それぞれが住む場所に行ってみた。
 一人目は大帥府に弁当を届けている商人で、大帥府の名簿に住所を書かなかったのは、毎日のように来ているからだった。
 二人目は洗濯屋だった。こちらも一人目と同じ理由で住所を書かなかったようだ。
 残るは三人目の王谷生(おうこうせい)という男だった。その男の住所は、奉天四平街南二条通七十五番地となっている。
 四平街は奉天一の繁華街で、飲食店も多いが質屋も多い。その一事を取っても、この町が庶民の金融センターの役割を担っていると分かる。
「當(たん)」という看板を掲げた質屋は、厳重な跳ね戸で防犯対策を取っているが、郭子明によると、それでも盗賊に押し入られることが、しばしばあるという。
 さらに「哈徳門(ハアタアメン)」という看板を掛けた煙草屋、日本から輸入したと思しき「老篤(ロート)眼薬」や「銀粒仁丹」という広告で彩られた薬屋も目立つ。店頭に湯気が立ち込めているのは焼豚屋(餃子屋)だ。物売りも道を行き来しており、立派な髭を蓄えた白系ロシア人と思しき紳士が、両肩に箱をつるして「ロシア、パン」と繰り返しながら歩いている。ロシア人が満州を放棄した後も、この地に残ったロシア人は多いようだ。
 広い道の両側に立ち並ぶ雑然とした店舗を横目で見ながら雑踏を行くと、「こっちです」と言いながら、郭子明が脇道に入った。脇道には店舗がなく住居ばかりで、どれもみすぼらしい。
一歩、脇道に入るだけで腐った臭いが鼻をつき、舗装されていない路面は水たまりだらけだ。赤ん坊の泣き声が絶えず聞こえ、あばら骨をあらわな野良犬が、何かを咥えて駆け去っていく。
表通りでさえ雑然としているので、脇道に入ると危険を感じるほどだ。
「今は昼。心配ないね」と郭子明は言うが、目つきの悪い男たちが、そこかしこにたむろし、会話もせずに茫然と座っている。誰もが阿片中毒者特有の無表情をしている。
以前は路上でも堂々と阿片が吸われていたらしいが、今は日本の官憲の取り締まりが厳しく、阿片窟でないと吸えないが、いったん路地に入ってしまえば、官憲の目などないも同然なのだ。
「ここです」と言って郭子明が指差したのは、崩れかかった一軒家だった。
 その家の小さな庭では、一人の痩せた男が土をこねていた。おそらく家庭菜園なのだろう。
 目配せすると、郭子明が「こんにちは」と声を掛けた。
 顔を上げた男の顔は黒ずみ、目の下の隈(くま)が垂れ下がっている。若いと聞いていたが、五十歳前後にしか見えない。
 驚いたように男が立ち上がる。そのシャツから見える体には、あばらが浮き出ていた。
「こちらは日本の新聞社の方です」
 郭子明の言葉を聞いた男が一歩、二歩と後ずさる。おそらく身の危険を察知し、逃げ出そうとしているのだろう。逃げ出されてしまっては見つけるのは困難だ。留吉は咄嗟(とっさ)にポケットから札束を取り出すと、男に示した。
「少し話を聞きたいだけです」
 郭子明が笑みを浮かべて言う。男は逃げるかどうか考えているようだ。しかし留吉は、男が逃げないと知っていた。阿片中毒者は阿片と金に目がないからだ。
「入れ」と言うと、男があばら家の中に二人を招き入れた。
 男は椅子を勧めると、まず言った。
「金を出せ」
 留吉が数枚の紙幣をテーブルに置く。
「すべてだ」
 郭子明がすかさず口を挟む。
「残りは話を聞いてからだ」
 男が渋々紙幣を受け取る。それだけでも、かなりの量の阿片が吸えるはずだ。
「質問なら早くしろ。俺は忙しい」
「分かっています。では――」
 ここからは、留吉の質問を郭子明が翻訳することになる。
「あなたは王谷生ですね」
「そうだ」
「張作霖爆殺犯に仕立てられそうになり、逃げだした方ですね」
 王谷生がうなずく。
「どうして逃げたのです」
「阿片窟で阿片を吸っていたら、そこの主人がやってきて、日本人の家で仕事があるので来ないかという」
「つまり指名されたのですね」
「そうだ。主(あるじ)とは長い付き合いだから、うまい話を回してくれたのだと思っていた」
「ほかの二人は――」
「全く知らない者たちだ。彼らどうしも知り合いではないようだ。一人は北京訛(なま)り、もう一人は広東訛りがあったので流れ者だろう」
 王谷生によると、裏口に行くと、日本人の商人が待っていて、その車で商人の家まで行き、風呂に入れられ、散髪させられたという。
 やがて日本人将校がやってきて、明朝に迎えに来ると言い、前金を払ってくれた。仕事内容を聞くと、関東軍将校の家の庭を造る肉体労働だという。そのために身だしなみを整えさせられるのもおかしいと思ったが、言われるままにしていると、酒食が出された。
 その席に将校も同席し、彼らのことを根掘り葉掘り聞いたという。
「どうしてですか」
「今思えば、この町に係累がいないかどうかを確かめていたのだろう。実は、通報されるとめんどうなので、俺は阿片窟の主人には流れ者だと言っていた。だが日本の軍人に嘘を言えば、後でひどい目に遭わされる。それで、この町の出身で一族もこの町にいると、正直に告げた。その時に住所も聞かれたので、ここを教えた」
「それでどうなったのです」
「その夜、商人の家の寝室で寝ていると、その軍人がやってきて『お前は帰っていい』と言われた。俺が『仕事をしないと食べていけない』と告げると、その軍人は紙幣をくれた。それは一日分の労賃くらいはあった。それで喜んで俺は帰った」
「二人は、そのままそこに残ったのですね」
「そのようだ。それで二人は殺されて犯人に仕立てられた。それを知ったのは、遺骸の写真が奉天の中国語新聞に掲載されていたからだ。それで驚いた俺は大帥府に逃げ込み、保護してもらったのだ」
「なるほど、話はよく分かりました」
「では、さっさと金をくれ」
「待って下さい。その将校というのは、この人ですか」
 留吉が差し出した慶一の写真を見ると、男が言った。
「そうだ。間違いない。実はその後、この将校は軍を逃げ出したと言って、ここに来た」
「そ、それは本当ですか」
「うむ。軍から命を狙われているという。最初は『ざまあみろ』と思ったのだが、話を聞くと、そいつも事件に巻き込まれたということが分かった。それでどこか隠れ場所を探してくれるなら金をやるというので、別の阿片窟に連れていった」
「なんで阿片窟などに連れていったのですか」
 そうなれば、どうなるかは明らかだ。
「それ以外、俺にどうしろというのだ。阿片窟は恰好の隠れ場所だ」
「それはどこですか」
「その前に金だ」
 一瞬、油断した隙に、留吉が札入れから出した紙幣を王谷生に奪われた。
「何をする!」
 取り返そうとする郭子明を抑え、留吉が言った。
「金はこれでいいでしょう。その阿片窟はどこですか」
「さあてね。もっと金をくれたら教えてやる」
「汚いぞ!」
 郭子明は怒ったが、王谷生はどこ吹く風だ。
「この世は金だ。俺も危ない橋を渡っている。だから金が要るんだ」
「それがすべてです」
 それは本当だった。
「嘘をつくな」
 留吉が札入れの中を示す。
「何てこった」
 王谷生は舌打ちすると、吐き捨てるように言った。
「日本人は駆け引きを知らない。だから騙される」
「もう持ち合わせがないのです。教えて下さい」
 王谷生が煙草を指差したので、留吉は箱ごと渡してやった。
「お前は、あの将校の何にあたる」
「弟です」
「あいつを捜すために、日本から来たのか」
「そうです」
 ため息をつくと、王谷生が言った。
「仕方ない。満州人は義に厚い。奴が俺を救ってくれたから、俺も奴を救った。それで義理を果たしたつもりだったが――」
 うまそうに煙草を吸うと、王谷生が言った。
「もう一つ善行を施そう。教えてやる」
 王谷生が言った場所を郭子明がメモに書き取った。
「嘘ではないな」
 郭子明が確かめたので、王谷生が不機嫌そうに言った。
「俺だって恩義は忘れない。兄を思う弟の気持ちに免じて教えてやったのさ」
「ありがとう。このご恩は忘れない」
「せいぜい、騙されないようにしろよ。ここには餓狼(がろう)しかいないからな」
 王谷生のくぐもった笑い声が、狭い室内に響き渡った。

夢燈籠

Synopsisあらすじ

江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!

Profile著者紹介

1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。

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