夢燈籠第51回
二
そもそも石油とは、藻類やプランクトンの遺骸が泥と共に堆積してできた油母(ケロジェン)と呼ばれる物質となり、それが地熱の作用によって分解してできたもので、どこにでもあるものではない。この油母は、地殻変動で地層がたわむことでできる背斜と呼ばれる現象により、地層の突き上げ部分に溜まるものと考えられていた。
要は、石油はかつて海だった第三紀層背斜構造の地層にしか存在せず、海ではなかった中国大陸には存在しないというのが、世界的定説となっていた。すなわち「石油は海成堆積物からできるもの」という先入観が、大陸での石油採掘の阻害要因となり、それが日本の技術者たちのやる気を削(そ)いでしまっていた。
新京駅に着くと、石原が迎えに出した車が待っていた。それに乗って関東軍本部に着くと、石原が「昼時なので満州料理でも食べに行こう」と言うので、報告は後にして、石原が好む満州料理の店に向かうことにした。
この頃、石原は参謀本部の作戦課長の座に就いていたが、比較的自由な立場なので、満州に来て、こちらの情勢の把握に努めていた。
石原は酒を飲めないためか、健啖家(けんたんか)で料理にうるさいと聞いたことがある。それゆえ留吉も酒なしで付き合うことにした。
テーブルに着くと、早速、石原が蘊蓄(うんちく)を述べる。
「そもそも満州料理などというものは存在しない。強いて言えば山東(さんとん)料理の分派だ。最も名高いのは水餃子で清朝華やかなりし頃、北京に伝えられ、中国全土に広がっていった」
「それは知りませんでした」
「知らなくてもよい。満州の産物と言えば大豆とトウモロコシだが、豆腐とトウモロコシを使った料理も多い。蛋白質(たんぱくしつ)を取りたい時は豚や羊の内臓、いわゆる腸詰が人気だ」
しばらく雑談で時を過ごした後、石原がおもむろに問うた。
「で、どうだった」
「ジャライノールですか」
「当たり前だ。それ以外、何を聞く」
留吉が試掘の状況を説明する。
「やはり簡単には当たりは引けないな。夜店のくじと同じだ」
「夜店のくじはよかったですね。でも来年四月からの試掘は有望なようです」
「誰が言っていた」
「松沢教授です」
石原がため息を漏らす。
「ああ、あのメチャラクチャラ博士か」
メチャラクチャラ博士とは、「少年倶楽部(くらぶ)」に出てくる奇問奇答滑稽(きもんきとうこっけい)大学の学長にして頓智(とんち)の権威を自称する博士のことだ。
「そんなにいいかげんな人物なのですか」
「いやいや、曲がりなりにも地震学の第一人者だ。いいかげんなことは言わない」
「では、なんで――」
「顔や雰囲気が似ているだろう」
石原が笑う。似ているとは思えないが、とりあえず留吉も笑った。
「まあ、たいした御仁(ごじん)だが空振りも多い。この仕事は空振り九割と言われているので、それも仕方ないが――」
しばし笑い合った後、留吉が来年からの方針などを語った。
「で、来年もジャライノールで試掘を続けるということでよろしいですね」
「そこだ」
石原が水餃子を食べようとして「あちち」とやっている。
「そろそろ別の場所も、あたらねばならないと思っている」
「別の場所とはどこですか」
「満州は広い。いろいろある」
「そんな簡単に目移りしてもよいのでしょうか」
鉱脈を掘り当てるには、見切りの速さと粘り強さという相反する二つの要素が必要だ。何をもって見切るのか、また何をもって粘るのか、そこが難しい。
「鉱物探鉱の技術は日進月歩だ。別の方法を導入すれば、ジャライノールでも展望が開けてくるかもしれない」
「そうですね。私には分かりませんが、とにかく石油を見つけるしかありません」
「その通りだ。頼りにしているぞ」
それで、この日の報告は終わった。
石原は「来年の四月に戻ってこい」とだけ言って席を立った。
「おっと、言い忘れた。給料は出し続ける。日本に戻りたいなら旅費も出す。だが来年の四月には、再びジャライノールに行ってもらう」
「分かりました。では、とりあえず帰国させていただきます」
「なんだ、日本が恋しくなったのか」
「違います。日本語で書かれた地質学や地震学の本を、国会図書館で読むつもりだからです」
「そうか。本腰を入れてやるつもりだな」
「もちろんです。これもお国のためですから」
「分かった。明日の大連行きの『あじあ号』の一等展望車の席を手配しておこう」
「えっ、今から切符が取れるのですか」
一日に一本しか走っていない『あじあ号』の一等展望車の席を前日の夜に取れるなど、困難を通り越して不可能だ。
「切符の心配などしなくてよい」
石原が平然と言った。確かに関東軍の要求なら、何でも通るのが満州なのだ。
夜になり、新京ヤマトホテルにチェックインすると、手紙が数通来ていた。その中には周玉齢からのものもあった。そこには美しい日本語で、「大連で待っています。着いたら連絡を下さい」と書かれていた。
――玉齢か。
留吉とて玉齢のことは憎からず思っていた。だが自分のような浮草人生を歩む者が、玉齢のような若い中国人女性の人生を左右していいのかという迷いもある。
新京ヤマトホテルの最上階の部屋からは、日進月歩で発展していく新京駅周辺が俯瞰(ふかん)できる。駅前は広場になっていて円形の植え込みがあり、そこから三方に大路が延びている。半年ほど前に満州里に向かった時は、建物もまばらだった気がするが、今は建築途中のものも含め、一等地はすべて埋まっている。
――関東軍は、満州の地に「五族協和」の「王道楽土」を築けるのか。そして日本はどこへ行くのか。
留吉の胸中には、不安とも期待ともつかないものが頭をもたげ始めていた。
Synopsisあらすじ
江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!
Profile著者紹介
1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。
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