夢燈籠第59回

昭和十二年(一九三七)一月、正月明けに参謀本部を訪れた留吉は、松沢教授が中心となってまとめた報告書を提出した。
煙草(タバコ)を片手にジャライノール周辺の発掘結果を聞いていた石原は、留吉の報告が終わると、ため息をついた。
「そうか。やはりジャライノールは難しかったか」
「はい。結論から言えばそうなりますが、松沢教授によると、『可能性は大いにあった』とのことです。今更仕方のないことですが――」
「この仕事は見切りが難しい。しかし情勢の変化は待ってくれない。阜新(ふしん)で何とかせねばなるまい」
「ということは、石原大佐のお立場にも関連してくるのですね」
「もちろんそうだが、それだけではない」
 石原が乱暴に煙草をもみ消す。
「ということは――」
「この国の存亡が懸かっている」
「やはり満州で石油が出ないと、南方の資源地帯へ進出ですか」
「陸軍全体で、そういう雰囲気になってきている。上等兵がさかんに煽(あお)っているからな。あいつは本当にしょうもない。俺を失脚させるために、この国を英米蘭仏との戦争に引き込もうというのだからな」
 上等兵とは東條英機のことだ。
「南方の油田地帯を取りにいけば、英米蘭仏と戦争になります。それだけは避けねばなりません」
「そうだ。だから阜新で何とかしてもらわねばならない」
「もちろんです。ベストを尽くします」
「そうだな。だが、出なかった時のことも考えておかねばならない」
 石原が眦(まなじり)を決する。
「その通りですね。でも見つけたい。今はそれだけです」
「君には期待しているぞ。そうだ、今日は天気もよいし、皇居の周辺でも歩いてみないか」
「ご多忙なのでは」
「今日の午後は空いているんだ。だから散歩しようと思っていた」
 多忙を極めているはずの石原が暇というのも不思議だが、歩きながら考えをまとめたいのかもしれないと思い、付き合うことにした。
 桜田門から皇居外苑に入った二人は、まず楠木正成(くすのきまさしげ)像に向かった。その背後には石原付武官が二人、十メートルほどの距離を置いてついてきている。石原の顔は知られているので、反政府主義者や暴漢に襲撃されるのを防ぐためだ。
「楠木正成は知っているだろう」
「はい。学校で習った程度なら」
 石原の相好を崩す。
「そいつはよかった。しかし正成公は尽忠報国の象徴だ。少しは知っておかねばならんぞ」
「あっ、はい。申し訳ありません」
 その後、西の丸大手門付近に至った二人は、皇居正門(二重橋)に向かって拝礼した。
「宸襟(しんきん)を安んじ奉るべきわれらが、逆に煩わせてしまっているのではないだろうか」
 珍しく石原が弱音を吐いた。
「石原大佐、それはどうしてですか」
「すべての起点は、俺の起こした満州事変だった」
 昭和六年(一九三一)九月、石原は満蒙領有計画を実現させるべく、柳条湖(りゅうじょうこ)で満鉄線を爆破し、これを「暴戻なる敵(中国軍)の仕業」と断定した。これを機に、石原は一万四千の精鋭部隊を動かし、奉天、営口(えいこう)、安東(あんとう)、遼陽(りょうよう)、長春といった南満州の主要都市を占拠した。
さらに十月、錦州(きんしゅう)に爆撃を敢行し、翌年二月には哈爾浜(ハルビン)を占領し、遂に東三州(奉天省・吉林[きつりん]省、黒竜江[こくりゅうこう]省)を制圧した。まさに電光石火の勢いで侵攻計画を実行に移し、中国軍に対抗策を取る暇(いとま)を与えなかった。
しかしこれは、政府の不拡大方針を無視して独断専行させていった結果で、天皇の怒りを買った。それでも天皇は、追認した軍令部の「やられたからやりました」という弁明を真に受け、「正当防衛なら仕方ないが、これからは突然やるな」と返してきた。
それを石原は申し訳なく思っているのだろう。
「俺はやりすぎたかもしれん。しかも天皇陛下に嘘までついた」
 留吉に慰めの言葉はなかった。
「陛下に嘘をついたのは、石原さんではありません」
「たとえそうであっても、軍令部に尻拭いさせた、つまり軍令部を嘘つきにさせたのは俺だ」
 ――石原大佐は、確かにやりすぎたかもしれない。
 昭和七年(一九三二)三月、石原の構想していた領有とは違ったが、満州国が建国された。石原は理想主義者であり、「五族協和」と「王道楽土」を実現するために、政策決定の核となる満州国協和会を創設した。こうした石原の構想には理由があった。日米両国の最終決戦を見据え、アジアの力を結集していこうと思っていたからだ。
「命令系統を無視しても、結果さえよければ何をやってもよいという風潮を、俺は陸軍内に植え付けてしまったのだ」
 それは事実だった。満州事変当初、石原は作戦参謀(中佐)でしかなく、その上には板垣征四郎高級参謀(大佐)が、さらにその上には本庄繁(ほんじょうしげる)満州軍司令官(中将)がいたが、石原の暴走を抑止するでもなく、黙認ないしは追認という形を取った。
「果たしてそうでしょうか。ただ満州に進出して鉄道と付属地の警備だけをしていたのでは、南下するソ連(当時はロシア連邦共和国)に対抗できません」
 ここで言う鉄道と付属地とは、ポーツマス条約によってソ連から分割された東清鉄道の南満州支線(大連―長春)と、その鉄道施設及び付属地を指す。付属地とは、満鉄路線の左右六十二キロメートルのことを指す。その安全確保と権益擁護のために派遣されたのが関東軍になる。
「政府や軍令部のことを言っているのだな」
「そうです。無為無策では、ただの鉄道の警備員にすぎません」
年功序列で上に立ってしまった者たちが満州の支配構想を持たないため、石原がそれを代行したという解釈もできる。つまり政治的にノーアイデアの上が下に依存した結果が、満州事変だったのだ。
「とはいうものの、俺のやったことが飛び火し、それが俺の首を絞め始めている」
 二重橋に向かって一礼した石原は、二重橋堀を左手に見つつ坂下門方面に向かった。
「どういうことですか」
「満州事変を成功させた俺は昭和十年(一九三五)八月、参謀本部の作戦課長の座に就いた。そして翌年には戦争指導課長、そしてこの一月、参謀本部作戦部長心得と栄転を重ねた」
 この間、石原はソ満国境における日ソ両軍の兵力差を埋めることに注力し、さらに戦車や航空機の増強も推し進めた。政治的側面では、林銑十郎(はやしせんじゅうろう)を内閣総理大臣に、かつての上司の板垣征四郎を陸軍大臣に据えようとした。林と板垣なら石原の言いなりだからだ。
「そこに立ちはだかった人がいるというのですね」
「そうだ。それが東條だ」
 こうした石原の活躍に嫉妬する者も多くいる。陸軍とは、誰もが「われこそは」と思っているエリート集団だからだ。
そうした心理をうまく利用したのが東條英機だった。東條は陸軍中央部で石原を快く思っていない将官や佐官を取り込み、反石原勢力を作っていった。その結果、総理大臣は双方に都合のよい林となったが、陸相に反石原派の中村孝太郎(なかむらこうたろう)を据えることに成功する。
 林銑十郎内閣はこの翌月の二月に発足するが、野党との政争に敗れ、六月には解散という極めて短命の内閣となる。ここから石原への風あたりが、さらに強くなる。
「こうなったからには一つしか手はない」
 坂下門から桔梗(ききょう)門を経て和田倉(わだくら)門まで来たところで、石原が止まった。
「その一つしかない手とは石油ですね」
「そうだ。満州から石油が出れば、それが逆転の一手となり、東條らが策している南方進出も立ち消えになる」
「出なかったら――」
「俺は予備役編入さ」
「そこまでのことはないでしょう」
「いや、ある」
 石原が煙草を取り出そうとして、それを元に戻した。ここが皇居だということを思い出したのだろう。
「しかし石原さんは、戦略、作戦、戦術まで立案できる陸軍の頭脳ではありませんか。しかも満州事変の実績もあります」
 石原は軍人というより政治思想家だった。石原の理想は、日本を盟主として満州を「五族協和」の地とし、互いに補完関係を築き、経済的繁栄を謳歌(おうか)しようというのだ。具体的には、大陸沿岸部に重化学工業の拠点を築き、内陸部には大農法の導入によって効率的に収穫を得る仕組みを作り上げるという構想だ。
こうした互恵関係によって、強靭(きょうじん)なアジア連合国家(石原は後に東亜連盟と呼んだ)を築き、アメリカとの世界最終戦争に備えようというのだ。
「君は、まだ世の中を知らんな」
 和田倉門から外に出つつ、石原が笑みを浮かべて言った。
「どういう意味ですか」
「能力だけで評価されるほど世の中は甘くない」
「それは、東條さんのことを言っているのですか」
「そうだ。あいつは出世しか考えていない」
 石原が吐き捨てるように言う。
「まさか、総理大臣にでもなる気ですか」
「そうだ。しかし総理大臣になったからといって、何がしたいというわけでもない。ただ皆の上に立ちたいだけだ。あのような者が、万が一総理大臣になったら、この国は終わる」
「終わるとは、どういうことですか」
 石原がにやりとすると言った。
「この国の国体が変わるかもしれない。つまりドイツのように戦争に敗れ、凄(すさ)まじいインフレに襲われ、賠償金で身動きが取れなくなる」
 この時代の敗戦の認識は、その程度のものだった。
「分かりました。皆の尻を叩いても阜新で石油を採掘します」
「頼んだぞ」
 石原が留吉の肩を叩いた。

夢燈籠

Synopsisあらすじ

江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!

Profile著者紹介

1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。

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