夢燈籠 第18回


 三月末、いよいよ数日後に満州に出発する段になり、留吉は正治の入院しているサナトリウムを訪れた。
 サナトリウムは富士見高原療養所(通称 : 高原サナトリウム)といって信州諏訪(すわ)にあるため、なかなか来られなかったのだ。
 汽車に乗り、バスに乗り換え、ほぼ一日がかりで療養所に着いた留吉は、夕方になり、ようやく正治と面会が叶(かな)った。
 正治は青白い顔をさらに青白くさせ、頬はげっそりとこけていた。
 正治が「夕焼けを見ながら話そう」と言うので、留吉は正治の乗る車椅子を押して庭の端にある四阿(あずまや)まで行った。そこから諏訪湖は見えないものの、高遠(たかとお)方面に沈む夕日が望めた。
「美しいところですね」
「ああ、ここから見る八ヶ岳(やつがたけ)は雄大だろう」
 東に目を転じると、八ヶ岳が峻険(しゅんけん)な峰々に夕日を反射させていた。
 だが正治は一瞥(いちべつ)しただけで、懐(ふところ)から「敷島」を出すと吸い始めた。
「久しぶりだな」
「ええ、昨年の夏以来です」
「あの時は俺も元気だった」
 留吉には何とも答えようがない。
「だが今は見ての通りだ」
 正治が苦笑いを浮かべつつ煙草を勧めてきたが、留吉は首を左右に振った。
「なんだ、結核(けっかく)患者の煙草はもらえんのか」
 最初は流感だと思っていた正治の病気は、診察の結果、初期の肺浸潤、すなわち結核だと診断された。この時代、肺浸潤が死病だった。
「満州では煙草も十分にないと聞きます。それゆえ禁煙しているのです。それよりも兄さんは、肺浸潤なのに煙草を吸って大丈夫なのですか」
「大丈夫なわけがあるまい。先生からは禁じられている。だがもう長くはないのだ。勝手にさせてもらうさ」
「そんなことはありません。先ほど先生に病状を尋ねたところ、ここでは、ましな方とのことです」
「まあ、そうだろうな。もう動けない人もいる。だがよくなる病ではない。俺もどこまで生きられることやら」
 この時代の肺結核の治療法は、空気の澄んだ場所で日光にあたり、栄養価の高いものを食べるだけだけだった。それで快復しないこともないため、患者たちは一縷(いちる)の望みを抱いて、治療に専念していた。
「弱気なことを言わないで下さい。肺浸潤から快復した方もいます」
「いや、それは胸郭成形手術で何とかなるレベルの肺浸潤だ。俺の場合は『右上葉肺門部に鶏卵大の空洞一個、下葉中部に撒布性浸潤あり』という診断だ。つまり成形では、こんな大きな空洞をつぶすことはできない」
 正治は自分の病だけあって、肺結核について熟知していた。
「では、どうすると言うのです」
「さて、どうするかね」
 正治が他人事のように苦笑すると、紫煙を吐き出した。
「治す方法はないのですか」
「ある。肺摘と呼ばれる肺葉摘出術、すなわち片側の肺全体を切除する手術なら何とかなるかもしれない」
「でも、それで治ったとしても」
「ああ、一生不自由な身になる。おそらく長くは生きられないだろう」
「なんでこんなことに――」
「出版社の仕事は人と会うことが多く、様々な場所に出入りせねばならない。そのどこかで肺浸潤の菌をいただいちまったというわけだ。しかしそれも運命だ。どこでもらったのか詮索するつもりはないし、誰を恨むつもりもない」
 正治が自嘲的な笑みを浮かべる。
「とにかく養生を心掛けて下さい」
「そういうお前は満州に行くというではないか」
「はい。満州日報に就職先が決まりました」
「そうか。仕事の傍ら慶一兄さんを捜すのだな」
「そうなると思います」
 正治が二本目の煙草に火をつけた。その横顔には、あきらめの色が漂っていた。
「無理するなよ。大陸では何があるか分からん」
「危険は承知の上です。しかし軍部に任せていたら慶一兄さんは見つけられないと思うんです」
「どうしてだ」
 周囲に気を配りつつ、留吉は慶一が張作霖爆殺事件に絡んでいることを伝えた。
「そういうことか。だったら、なおさら深入りすれば痛い目に遭う。わが国の軍部のことだ、内地でもないし、お前一人を殺すことくらい平気だぞ」
「その通りかもしれません。私も死にたくはないので、慎重には慎重を期します」
「そうだな。すばしこい慶一兄さんのことだ。きっとうまく隠れているはずだ」
「軍部は慶一兄さんが、中国軍に秘密を漏らすことを恐れているのでしょうか」
「おそらくそうだろうな。中国軍の背後にいるロシアや欧米諸国がこのことを知れば、日本の孤立は深まる」
「慶一兄さんは、日本の軍部に捕まれば殺されるのですね」
「そこまでは分からん。だが慶一兄さんのことだ。そう簡単には捕まらんよ」
 かつて顔を真っ黒にし、岩場で素潜りしていた慶一のことが思い出された。慶一は十代前半だったが、大人よりも素潜りがうまく、誰よりも多くの蛸(たこ)を捕らえてきた。そのため坂田(さかた)家の食卓には、いつも蛸料理が並ぶことになった。その時はうんざりしていたが、今となっては慶一の捕まえた蛸が食べたい。
「われわれ兄弟も、離れ離れになってしまいましたね」
「ああ、それが人生というものだ」
「でも江ノ島の実家があると、どことなく安心ですね」
「そうだな。姉さんはまだ縁談を断っているようだしな」
 二人が声を合わせて笑う。
「正治兄さん、世界の中で日本はどう見られているのでしょう」
「突然、大きな話になったな。だが、そうした視点を持つことが大切だ。この日本は狭い。きっと外の世界から眺めると、そのみみっちさが実感できるだろう」
「そんなに小さいですか」
「ああ、小さい。取るに足らん存在だ。しかし政治家や軍人は、無理して大きくなろうとしている」
「でも日本は日清・日露の両戦役で勝利し、一流国の仲間入りを果たしたのではないのですか」
「分不相応なことだ」
 正治が皮肉な笑みを浮かべる。
 明治維新によって急速に近代化を進めた日本だったが、国力では欧米の比ではなかった。しかし日清・日露の両戦役を勝ち抜き、さらに大正三年(一九一四)から大正七年(一九一八)にかけて戦われた第一次世界大戦でも勝者の側に付くことで、中国大陸への影響力を拡大してきた。だが識者たちの中には、度が過ぎていると感じ、このままでは孤立に拍車を掛けると警鐘を鳴らす者もいた。
「たとえ第一次世界大戦で勝者の側についたとはいえ、日本の力は欧米諸国の比ではない。その事実が軍部には分かっていない。張作霖を爆殺し、大陸の争乱に深入りすれば、取り返しのつかないことになる」
「では、正治兄さんは大陸から兵を引けと仰せですか」
「それが日本という国を保全する最もよい方法だ。欧米を甘く見てはいけない。何事も分をわきまえることが大切だ」
「では、満州も手放せと――」
「そこまでは無理だとしても、欧米にも何らかの権益を与えていかないと、奴らも黙ってはいまい」
 かつて南満州鉄道の権益をめぐり、米国の実業家エドワード・ヘンリー・ハリマンと当時の首相だった桂太郎(かつらたろう)の間で、共に権益を分け合う「桂・ハリマン協定」を締結した。しかし対米強硬派の反対によって撤回し、ハリマンと米国政府を立腹させた。これがきっかけとなり、それまで良好だった日米と日英の関係に亀裂が入り、日本は徐々に孤立の道を歩んでいた。
「尤(もっと)もなことですが、軍部の暴走は止まりません」
「そのようだな。奴らの根は薩長の下級士族だ。唯我独尊(ゆいがどくそん)この上ない。今は大隈殿や西園寺(さいおんじ)公が軍部の台頭を抑え込んでいるが、彼らとて永遠に生きるわけではない」
 その後継者たるべき原敬(はらたかし)はすでに暗殺され、そのほかに軍部の抑えとなる大物政治家はいない。
「では、軍部の暴走を抑えられなかったらどうなるのです」
「いつか大陸でロシアや欧米諸国と軍事衝突が起こるかもしれない。まあ、そこまで軍部も馬鹿ではないと思うがね」
 正治が笑った拍子に咳(せ)き込んだ。留吉は背後に回って背をさすってやった。
「兄さん、そろそろ戻りましょう」
「そうだな。それよりも少し離れていろ」
 正治が留吉を押しやる。
「兄さん――」
「いかに外とはいえ、この病は空気感染する。みだりに近づくな」
「すいません」
「いや、背をさすってくれた礼に言う言葉ではないが、お前は大事を成す身だ。自分を大切にしろよ」
「そのお言葉を忘れません」
 煙草を懐にしまった正治は、四阿の椅子から独力で車椅子に移った。
「これが最後になるかもしれん」
 一瞬「そんなことはありません」と言おうとした留吉だったが、自分は満州に赴任するのだ。次はいつ帰れるか分からない。
「お前に好きな女子(おなご)はいないのか」
「いや、はい――」
「煮え切らない答えだな」
 留吉の脳裏に春子の面影が浮かぶ。
「います。いや、いました」
「つまり、いたが置いていくのだな」
「はい。あちらでは、何があるか分かりませんからね」
「それがよい。本人はもとより、親御さんにも迷惑は掛けられないからな」
「その通りです。ですから別れを言い渡してきました」
「そいつは辛かっただろうな」
 正治の言葉が胸に染みる。
 ――致し方なかったのだ。
 何度も自分に言い聞かせてきた言葉を、留吉は反芻(はんすう)した。
 車椅子を押していくと、玄関口で看護婦が待っていた。
「兄さんをよろしくお願いします」と言いつつ、車椅子を看護婦に託すと、突然寂しさが押し寄せてきた。
「兄さん、私の帰りを待っていて下さい」
「どうかな。こればかりは分からん」
「かつてのように、慶一兄さんも交え、江ノ島で捕れた魚介類を鍋にぶちこんで皆で食卓を囲みましょう」
「それができたらどんなによいか」
 正治が遠い目をする。
「兄さん、また会えると約束して下さい」
「分かったよ。また会おう」
「今までいろいろと世話を焼いて下さり、ありがとうございました」
「もうよい。バスの時間があるだろう。行けよ」
 正治はバスの時間を知っていた。
「では、これにて」
「元気で暮らせよ」
 最後に白く細い手を着物から出し、正治は左右に振った。それを合図に看護婦は車椅子を反転させた。
 ――兄さん、必ず戻ります。
 留吉は涙を堪え、サナトリウムを後にした。

夢燈籠

Synopsisあらすじ

江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!

Profile著者紹介

1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。

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