夢燈籠第56回

昭和十一年(一九三六)五月、留吉は大連(だいれん)港に降り立った。
郭子明(かくしめい)にも周玉齢(しゅうぎょくれい)にも満州に行くことを知らせなかったため、迎えはない。
 ――その方がよい。
 留吉は後悔の念に苛まれていた。自分の母親が虐げられていたことから、女性と関係を持つことには人一倍神経質だった留吉だが、郭子明が気を利かせて送ってきた周玉齢を、結局は抱いてしまった。
 ――俺はなんて駄目なんだ。
 留吉は自己嫌悪に陥っていた。
 満鉄本線「あじあ号」の車窓から見慣れた風景を見るでもなく見つめつ、留吉の思いはこれまでの人生に向けられていた。
 ――子供の頃は、ぬいがすべてだった。
 母が妾どころか女郎だったことから、一人だけ離れに住まわされた留吉のめんどうをみていたのは、平井ぬいという老婆だった。ぬいの夫は寒川神社の社前で車力をしていて、二人の間には勇という男児がいたが、幼い頃に亡くなり、それを機に、ぬいは離婚したらしい。しかしぬいがどこの生まれで、それまでどのような暮らしをしていたかは、ついぞ聞きそびれてしまった。それは父の善四郎も養母のいさも知らなかったらしく、後に問うても、首を振るばかりだった。
 ――知っているのは燈籠だけか。
 突然、江ノ島の旧宅にあった燈籠のことが思い出された。すでに家と土地は人手に渡ってしまったので、燈籠は捨てられてしまったかもしれない。だが留吉は、まだ燈籠があの場所に腰を据え、世間の動きを睥睨しているような気がしてならなかった。
 ――随分と遠いところに来てしまったな。
「あじあ号」は、凄まじい音を立てて大陸の原野を駆け抜けていく。その姿こそ、これまでの留吉の人生を象徴しているかのようだった。
 ――そして、ぬいが亡くなることで、俺は一人で生きていかねばならなくなった。
 その後、十一歳で私立藤澤中学校に入学し、岩井壮司と出会った。「生涯の友」などと言えば、岩井は「よせやい。そんなものは幻影さ」とでも返すのだろうが、なぜか二人は馬が合い、社会人となった今でも付き合いがある。他の友人たちがどこでどうしているかは分からないが、岩井とだけつながっていれば、自分にも過去があったことを思い出させてくれる。
 ――とくに関東大震災のことは、鮮明に覚えている。
 学生時代の思い出で最も鮮烈だったのは、関東大震災の時のことだ。九死に一生を得たと言えば大げさだが、それに近い状況だったのは確かだ。
 ――そして出生の秘密が暴かれた。
 今となっては懐かしいだけだが、井口昇平という意地の悪い男に、留吉の出生の秘密を学校内に流布されてしまった。それで何が変わったということはなかったが、留吉はそれまでの楽しい学校生活とは決別せねばならなかった。
 それでも母に会いたいという一心から、留吉は小田原近郊栢山(かやま)郷の母の生誕地を訪ね、さらに母を探して筑豊(ちくほう)まで行った。
 ――だが母さんは、すでに亡くなっていた。
 その時の落胆は今でも覚えている。だが、それで何かの踏ん切りがついたのも確かだった。もし母親が生きていても、何をしてやれるわけでもないのだ。母を地獄から救うには、まだ時が必要だった。しかし母は、そこまで生きられなかっただろう。
 ――そして俺は大学に入った。
 そこで学生運動家なる者たちと知り合い、政治に興味を覚えた。また初恋の相手とも出会えた。こうした経験を経て、留吉は次第に大人になっていった。
 ――だが、あの事件によってすべては変わった。
 長兄の慶一が満州で行方不明になるという、坂田一家にとっての大事件が起こったのだ。この頃、正治が肺をやられ、サナトリウムに入院したので、そちらも心配だったが、留吉は慶一を探して大陸へと旅立った。そこでは様々な人々と出会い、生きるか死ぬかの冒険もした。
 慶一は大陸で慶一なりの人生を歩き始めていた。留吉もいつしか大陸に吸い寄せられるようになっていた。
 しかし帰国すると、正治や善四郎との死別、母と姉との別離が待っていた。かくして一人となった留吉は新たな人生へと踏み出した。そこで待っていたのは中原中也との出会いだった。
 ――そして俺は大陸へと舞い戻った。
 石原莞爾(かんじ)の肝煎(きもい)りで石油採掘という慣れない仕事に従事することになった留吉の将来には、何が待っているか分からない。だが未来が未知だからこそ生き甲斐があるのだ。
 ――俺は運命に翻弄されてきた。だがこれからは違う。俺が運命を操るのだ。
 留吉の決意は固かった。

 満州里に着くと、長田正則が待っていた。長田らは先着して調査の続きをしていたのだ。
「お迎えすいません」と言って頭を下げると、「これも仕事だからね」と言って長田が笑った。車に乗ると今度は運転手付きだった。
「少し予算が取れたんで、運転手を雇ったんだ。これからは彼が満州里まで買い物にも行ってくれる」
「それは助かりますね。で、あたりはどうですか」
 採掘関係者の間では、調査による感触を「あたり」と呼ぶ。
「相変わらずだね。松沢先生によると、『かなり有望だ』とのことで期待が持てないわけじゃない。でも、話半分で聞いておくのが正解だよ」
 その言い方が可笑(おか)しく、留吉も笑ってしまった。
 二人で世間話に興じているうちに、ジャライノールに着いた。
 すでに松沢たちは現場に行っているというので、昼飯を食べた後、二人も現場に向かった。
 現場はダライ・ノール湖の北西岸だ。
 松沢たちは地図を片手に油井(ゆせい)の近くで語り合っていた。
「松沢先生」
 留吉が呼びかけると、皆が振り向いた。
「おお、坂田君か。ようやく来たな」
「はい。遅くなりましたが、何とか駆けつけることができました」
「間に合ってよかった」
「ということは、あたりがありそうなんですか」
 松沢は力強くうなずいたが、ほかの者たちは苦い顔をしている。
 長田が説明する。
「すでにアスファルト層の油兆があるらしいが、その下に石油の層が眠っているかどうかは分からない」
 松沢が反駁(はんばく)する。
「アスファルト層は、その下の油層から伝ってきた脂が固化したものだ。つまり、ここには見込みがあるということだ」
 別の者がため息交じりに言う。
「しかし先生、ジャライノールでは昭和八年から、トータルで二十一坑も掘っているんですよ。油兆があるなら、もっと反応があってもよいのではありませんか」
「いや、どれも深度が百メートルちょいのダイヤモンド・ボーリングだからだ。地震調査によると、さらに下にあるジュラ紀の堆積岩の層厚は六百から七百メートルもある。その下に油層が眠っているはずだ」
「その堆積岩の切れ目からアスファルトが染み出しているのですか」
「そうだ。そこまで掘って駄目なら、私も納得する」
「先生」と長田が諭すように言う。
「掘って駄目となれば、そこまでかけた予算が無駄となります。もっと油兆を確実に捉えられる方法はないのですか」
「ある。最新の反射法の探鉱機を使えば、かなりの確率で油兆を確認できる」
「それはどこにあるのですか」
「アメリカの物理探鉱会社にある」
 皆がため息をつく。
「その会社をここに連れてくることは無理です」
「それは分かっている。われわれの前には、堆積層だけではなく政治も横たわっている」
 留吉が口を挟む。
「油層が深ければ、汲み出しにもコストがかかるんですよね」
「そうなる。装置の故障も多くなる」
「では、ここに固執することもないのでは」
「それが難しいのだ。どこに行っても油兆がないとあきらめ、『では、次の場所へ行こう』とやっていると、埒(らち)が明かなくなる」
「それは分かります。しかし見切りをつけるのも大切です」
 長田がなだめるように言う。
「やはり石油は、海成層中にのみあるのでは」
 それが、この頃の常識だった。
「それは先入観だ。陸上にも油田はある」
「分かりました。当初の方針通り、掘っていきましょう」
 それで話は終わった。

 その日の夜、留吉は内地から持ってきたニッカ・ウイスキーを持って、松沢の部屋を訪れた。ドアは開け放たれており、松沢は机に向かって仕事をしていた。
「よろしいですか」
 眼鏡をずり下げて、松沢が留吉を見る。
「君か。何だね」
「お邪魔だったら、またにします」
「いいんだ。入り給え」
 留吉がウイスキーを丸テーブルに置くと、松沢の顔色が変わった。
「ストレートでいいか」
 松沢がコップを二つ置く。
「もちろんです」
 二人はグラスを傾けた。
「まだ乾杯とはいきませんが、そのうち祝杯を挙げる日が来るでしょう」
「そうなるといいんだがな。満州石油の連中はもっと大連に近い場所で掘りたいので、ここに油兆はないと、わしに断じてほしいらしい。だが油は出る」
 満州石油と言っても、日本人の社員は全員が日本石油の出身者だった。
「それは本当ですか」
「本当ですかと問われると、私も苦しい。石油は出ても、かけるコストに見合うだけの油田とは限らないからな」
 確かに油兆はあっても、それが大油田とは限らないのが、この仕事の難しいところだ。
「実は、石原さんから伝言をもらっています」
「何だね」
 松沢の目つきが鋭くなる。
「阜新(ふしん)での地震調査の結果、油兆があるという報告が届いたそうです」
 すでに阜新では地震調査が行われ、かすかな油兆が確認されていた。
「阜新というと、瀋陽(しんよう)の西か」
「そうです。遼河(りょうが)河畔の小さな村です」
 阜新は満鉄の路線からは外れるが、奉天で奉山線に乗り換え、大虎山で支線に乗り換え、特急で二駅目にあたる。満州里よりもはるかに大連に近い。
「では、こちらは見切られたのだな」
「そうではありません。双方を並行して調査し、有望な方に力を注ぐのです」
 松沢がウイスキーを煽る。
「もう少しなんだ」
「分かっています。しかし――」
「期限を切られたんだな」
「はい」
「いつまでだ」
「年内で油兆が見られない場合、われわれは阜新に移ることになります」
「そ、そうか」
 松沢は落胆を隠しきれなかった。だが誰かと競い合っているわけではなく、阜新がこちらより有望なら、それを選択することが国益に寄与することになる。
 その後、二人はボトルが空になるまで語り合った。松沢は石油掘削技術全般について、留吉に教えてくれた。それが後に役立つことになる。

夢燈籠

Synopsisあらすじ

江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!

Profile著者紹介

1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。

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