夢燈籠第12回
第二章 青く熱い炎
一
ガクランの上にマントを羽織り、角帽の下に無精髭(ぶしょうひげ)を生やした留吉(とめきち)は、下駄(げた)を鳴らして大隈(おおくま)講堂の前を闊歩(かっぽ)していた。
――ここが俺の居場所だ。
学生生活も二年目に入り、留吉は溶け込むように早稲田(わせだ)の街の住人になっていた。
「おう」と言って片手を挙げると、似たような恰好をした岩井壮司(いわいそうじ)が、「おう」と返してきた。
「留吉、遅いぞ」
「遅くはない。時間通りだ」
「いや、五分遅れた」
壮司がうれしそうに腕時計を見せた。金色のオメガだ。留吉も腕時計くらいは持っているが、国産品なので気後れして見せなかった。
「どこで盗んだ」
「人聞きの悪いことを言うな。親父が死んで保険金や遺産が入ったので質流れを買った」
「ああ、そうだ。父上は残念だったな」
留吉が改めて真面目な顔で言った。
「構わんさ。酒屋の主(あるじ)が酒好きだったんだ。早死にするのは当然だろう」
壮司の父は仕事中に突然倒れ、帰らぬ人になった。壮司によると、脳血管系の疾患だったらしい。
「それにしても壮司の兄貴が、よく遺産を分けてくれたな」
二人は、新刊書店や古本屋の並ぶ鶴巻(つるまき)通りを歩いていた。
「俺は法学部だからな。大学に行かなかった兄貴から金を分捕るくらい簡単だ」
「そうか。文学好きのお前が法学を志すのは意外だったが、そういう狙いがあったのだな」
「それだけではない。文学で飯は食えないが、法学部ならつぶしが利く」
世間話などをしながら歩いていると、書店は少なくなり、飯屋や下宿屋が立ち並ぶ一角に出た。窓が開け放たれた雀荘(ジャンそう)からは麻雀牌(マージャンパイ)をかき混ぜる音が、ビリヤード場からは玉を弾(はじ)く音が聞こえてくる。銭湯や居酒屋も軒を連ね、どの店も盛況らしく、学生らしき若者が出たり入ったりしている。
「法学部はつぶしが利くのか」
「うむ。どの業界にも就職できる。でも小説は今でも好きだ」
その言葉には、多少の悔恨が籠もっていた。
そんなことを話しながら、一軒の居酒屋の前で歩みを止めた壮司は「ここだ」と言って、薄汚れた暖簾(のれん)を潜(くぐ)った。
中に一歩入ると、煙草(タバコ)と焼き物の臭いが混じった熱気が押し寄せてきた。
――こいつはまいった。
だが留吉も煙草を習慣的に煙草を吸うようになっていたので、文句は言えない。
「いらっしゃい。二階が空いてるよ」
大寺の高僧を思わせる坊主頭の店主が、何かを焼きながら不愛想に言う。店主の背後には、黄ばんだ「おしながき」がところ狭しと張られている。それを見て注文するのかと思いきや、壮司が恰好をつけるように言った。
「じゃ、いつもので頼むよ」
「へーい」という間延びした店主の声が帰ってきた。
狭い階段を上りながら留吉が問う。
「いつものって何だ」
「ビールと焼き鳥だ。確か好き嫌いはないだろう」
「まあな」
二階は座敷になっていて、座卓と座布団が乱雑に並べられている。そのいくつかを学生らしき一団が囲んでいるが、誰もが煙草を吸っているので、室内の空気は極めて悪い。
空いている座卓の一つを占めた二人は、ビールを飲みながら歓談した。
「震災の時はたいへんだったな」
留吉が水を向けると、壮司が「ふん」と鼻を鳴らして言った。
「家が半壊したんで本当に困った。せっかく集めていた『少年倶楽部(クラブ)』もお釈迦(しゃか)さ。でも自然災害では、誰を恨むことはできない。あの時だけは、両親と兄貴と力を合わせて家を建て直した」
「そうだったのか。手伝えなくてすまん」
「気にすることはない。お前も江ノ島の青年団に所属しているんだから、近所を優先すべきなのは当たり前だ」
「まあな。江ノ島と弁天様とは腐れ縁さ」
壮司が声を上げて笑う。指の間に挟まれた「ピース」からは紫煙が上がっている。これまで「朝日」を吸っていた壮司だが、どうやら好みを変えたらしい。
「弁天様か。俺は現実の弁天様が恋しいよ」
「おっ、何かあてはあるのか」
高校時代は、大震災の後に停学とされ、さらにすぐに受験勉強が始まったので、女性に関心を持つ余裕もなかったが、大学に入ってからは多少の余裕もできたので、晩稲(おくて)の留吉でも、町を行く女性に目が行くようになった。
「あてなどないさ。貧乏学生では彼女も作れない」
「そうだよな」
留吉がゴールデンバットに火をつける。留吉は父や兄と異なる煙草を吸いたかった。それで選んだのがゴールデンバットだった。
「バットか。俺は好かんけどな」
「好みは女と同じで人それぞれだ」
「おっ、どうやらお目当てはいるようだな」
「いないさ」
そうは言ってみたものの、留吉は下宿にたまに遊びに来る女子高生が気になっていた。だがそれだけのことで、こちらから話し掛ける勇気はない。
その後、二人はビールから日本酒に転じ、したたかに酩酊(めいてい)した。
「なあ、留吉、お前は何を仕事にするんだ」
「何をと言われても、今は何も考えていないな」
「おい、もう俺たちは大学二年だぞ」
――その通りだ。いつまでも子供ではないのだ。
留吉も壮司も、自分の進路を決めねばならない時期に差し掛かってきていた。
「そんなお前はどうする」
「俺か」と答えた壮司は、焼き鳥を頬張った後に言った。
「今の流れから行けば、法曹関係の仕事に就く」
「法曹関係といえば弁護士か」
「まあ、先々そうなれればよいが、その前にどこかで修業せねばなるまい」
「法律事務所だな」
「そういうことだ」
壮司が得意げにコップに注(つ)がれた日本酒を飲み干す。
「そこまで考えていたのだな」
「ああ、法律はなくならないので、おまんまの食い上げにはならんからな」
「そうだな。法律はなくならない。壮司はいつもしっかりしている」
「そんなことはないさ。俺だってやりたいことをやって生きたい。だが先立つものがなければ、やりたいこともできない。それがこの世の原理ってもんだ」
「原理とは大げさだな」
二人は再び笑い合う。
――俺はどうする。
かつて母の墓前で「自分で運命を選択できる人間になる」と誓った留吉だったが、そのために何をしたらよいのかは、いっこうに見えてこない。
実は留吉には懸念があった。長男の慶一(けいいち)は軍人になり、次男の正治(まさはる)が売春宿の経営などに全く向いていないことに父も気づいたのか、ここのところ留吉に期待するところ大らしい。
日用品を送ってくれた時に入っていた姉の登紀子(ときこ)の手紙で、留吉はそのことを知った。
――つまりこのまま成り行きに任せていれば、売春宿の親父で生涯を終える。
いくら多額の金が安定的に入ってきたとしても、それだけは嫌だった。
「で、留吉はどうする」
「どうするって何がだ」
「仕事だよ」と言って、壮司が眼鏡(めがね)の奥の目を細めて笑う。
「そうだな、事業でもやるか」
「事業って何の事業だ」
留吉が口籠もったので、壮司が続ける。
「意地悪で聞いているんじゃない。そろそろ本気で考えた方がよいと思うから聞いたのだ」
「それは分かっている。そうだな、何か人様の役に立つような事業を興したい」
「そうか。どんな仕事に就いても、それだけは忘れるな」
壮司が自分に言い聞かせるように言った。
それから一時間ほどとりとめのないことを語り合い、留吉は西早稲田の下宿に向かった。
曇りガラスに「青山荘」と書かれた引き戸を開けると、脱ぎ捨てられた靴や下駄が溢れていた。その悪臭が凄(すさ)まじい。靴や下駄はそれぞれの下駄箱に入れるようにと、大家から厳しいお達しが出ているが、それを守る気のある者はいないようだ。
だが留吉はもう寝るだけなので、自分の下駄箱に下駄を入れた。廊下を軋(きし)ませながら自分の部屋に向かうと、廊下の曲がり角で人とぶつかりそうになった。
「あっ」という声が漏れた。そこには一輪の可憐(かれん)な花が立っていた。下宿屋の主人の縁者だという八重樫春子(やえがしはるこ)だ。
「すいません。確か岩井さんでしたね」
「そ、そうです。よくご存じで」
「知っていますよ。だって恰好いいんですもん」
春子の顔に恥ずかしそうな笑みが浮かぶ。
「そうですか。それはありがとう」
自分でも馬鹿な受け答えだとは思ったが、つい口をついて言葉が出てしまった。
「よかった」
「えっ、何が」
「岩井さんは、いつも難しい顔をしているから、私がけたたましい声で笑うのを嫌がっているかと思っていました」
「そんなことはないよ。笑うのはよいことだ」
またしても馬鹿な物言いだと思うが、胸が高鳴ってこんなことしか言えないのだ。
「ありがとうございます。では、お休みなさい」
いい匂いを残して去っていこうとする春子の背に、留吉が声を掛けた。
「春ちゃんは、まだ寝ないの」
「玄関を片づけてくれと叔母(おば)さんから頼まれたんで――」
「玄関って、ここの玄関かい」
「ええ、よその玄関までは片づけられないわ」
留吉の愚問に春子が笑って答える。
「そんなことはやらせられない。だいいちどれが誰の履物(はきもの)だか分からないだろう」
「ええ、だから当てずっぽうで下駄箱に入れようと」
春子がまた笑う。その八重歯がかわいらしい。
「よし、一緒に片づけよう」
そう言って留吉は玄関に戻ると、「それは誰それの下駄だ」などとやりながら二十分ほどで片づけと玄関の掃除を終わらせた。その間、誰の出入りがなかったので、二人だけで話をすることができた。
「坂田さんは、どうして誰の履物だか分かるんですか」
「どうしてって言われても、同じ屋根の下に住んでいるんだ。何となく分かるもんさ」
留吉は幼い頃から記憶力がよいので、誰が何を履いていたのか、おおよそ覚えている。
「ありがとうございました。では、これで引き取らせていただきます」
「そうだね。帰るのは明日かい」
春子が初めて恥ずかしげに言った。
「はい、明日です。でも叔母の具合がよくないので、また来ます」
「そ、そうか。またいつか――」
「ええ」と答えつつ、頰を朱に染めながら春子は去っていった。
玄関に一人取り残された留吉の胸内を、一陣の風が吹きすぎた。
Synopsisあらすじ
江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!
Profile著者紹介
1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。
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