夢燈籠第45回
十
泰子は留吉の妻になったように甲斐甲斐しく働いた。留吉の出勤前には朝飯を作り、帰宅すると夕食ができていた。外食が大半だった留吉にとって、暖かい飯が、いかにありがたいか身にしみた。
まさに新婚家庭のような蜜月が続き、留吉も有頂天になっていた。
それが壊されたのは、約一カ月後の十月末だった。
留吉が駅からの道を急いでいると、何やら騒然とした雰囲気が伝わってきた。角を曲がって又吉家の方を見ると、怒鳴り声と何かが壊れるような音がした。近所の子供ははしゃいで走り回り、そこかしこから集まったおばさんたちが、ひそひそ話をしている。
――あれはうちだ!
留吉はたいへんなことが起こっていると確信した。
野次馬の中を突っ切るように留吉は走った。背後から「あら、あの人よ」という声が聞こえた。
――中原が来たのだ。そうに違いない。
この狂態は、中原と泰子が鉢合わせした事態以外の何物でもなかった。
慌てて玄関から駆け込むと、凄まじい勢いで襖が倒れてきた。そこでは中原と泰子が取っ組み合っていた。それを茫然と見下ろしているのは、カイゼル髭(ひげ)を蓄えた又吉健吉だった。健吉の手には木刀が握られている。
「よせ!」と言いながら、留吉が二人を引き剥がそうとすると、中原は気づき、「あっ、てめえ!」と言いながら殴り掛かってきた。もちろん中原のパンチなどよけるのは容易だが、その手首を押さえながら思ったのは「少し殴られてやるか」という気持ちだ。
それで手を放すと、中原は子供のように拳を叩きつけてきた。その何発かは顔に当たったが、身長差があるので、そのパンチは胸を打つだけだった。
「この間男め!」
中原は泣いていた。
「あんたやめなよ!」
倒れていた泰子が起き上がり、背後から中原を抱きとめる。十センチほど泰子の身長が高いので、容易に中原は押さえつけられた。
「いいかげんにしろ!」
その時になって、初めて健吉の怒鳴り声が聞こえた。
「おじさん、すいません」
留吉は謝罪すると、泰子と二人で中原を組み伏せた。中原は泣きながら「てめえ、殺してやる!」と言いながら暴れていた。
「中也、大人しくしろ!」
泰子に耳元で怒鳴られ、ようやく中原は体の力を抜いた。
「ああ――、口惜しい」
中原が地獄の底から聞こえるような呻き声を上げる。
「何が口惜しいんだ。お前には女房がいるだろう」
中原の髪を摑みながら、母が子を叱るように、泰子が言い聞かせる。
ようやく体を起こした中原は、泰子の胸に顔を埋めて泣いた。それを泰子が「よしよし」と言いながら抱き締めている。
「これはいったいどういうことだ」
健吉の声で、留吉もわれに帰った。
「おじさん、申し訳ありません。話せば長くなります」
「長い話など聞きたくない」
健吉は母屋(おもや)に戻りながら言った。
「同居人がいることは知っていたが、お前も大人だ。見て見ぬふりをしていたが、こんなことになるとはな」
「申し訳ありません」
「お前は他人の女房を奪ったんだろう」
健吉の視線には、蔑みの色が漂っていた。
「それは違います。これには複雑な事情が――」
「もうよい。自分の仕出かしたことは、自分で始末をつけられるな」
「もちろんです」
健吉が去っていくと、その先でばたばたという足音がした。健吉の家族が母屋と離れを結ぶ廊下まで来て、こちらの様子を窺っていたのだ。
離れには、泣き続ける中原とそれを抱き締める泰子、そしてただ茫然と二人を眺める留吉の三人だけになった。
何を言っていいか分からず、きまり悪そうにしていると、中原が「おい」と声をかけてきた。泰子の胸に抱かれ、まさに勝ち誇ったような視線を留吉に注いでいる。
「貴様、どういうつもりだ」
「どうもこうもないですよ」
泰子に視線で助けを求めたが、泰子は知らんぷりをしている。
「他人の女を奪っておいて、貴様は謝りもしないのか」
「いや、それは――」
留吉にも言いたいことはある。すでに泰子は中原の女ではなく、中原は別の女と所帯を持っているのだ。だが、ここでそれを指摘すれば、感情の囚われ人となっている中原が激昂するのは目に見えている。
「貴様は罪深い男だ。ここで腹を切れ」
「腹を、ですか――」
さすがに腹を切るわけにはいかない。
その時、泰子が中原から体を離した。中原はまだしがみついていたいのか、手を伸ばしたが、それを振り払って泰子は立ち上がると、鏡台の前まで行き、髪の乱れを直している。
「私はここを出ていくわ。それでいいでしょう」
中原が得意げに言う。
「それがよい。こんな勤め人と同居していても面白くはないだろう」
「あんたも同じよ」
中原の顔が、一瞬にして得意げなものから悲しげなものに変わる。
「どうしてだ!」
その声は慟哭(どうこく)に近いものだった。つまり「あんたも同じよ」という一言で、詩人のプライドを引き裂かれたのだ。
「あんたは、上手に詩を書けることを鼻にかけている俗物よ。あんたの友人たちは『無垢の魂』などと言って、あんたを誉めそやすけど、私にとっては、そのへんにいる男たちと何ら変わらないわ」
「そ、そんなことはない!」
「詩人が何なのさ。詩を書いて飯が食えるの。そうじゃないから、あんたも苦労しているんでしょ」
「飯くらい食えている」
「嘘おっしゃい。夜な夜な友人の家を訪れ、飯と酒にありついているじゃない。しかも結婚してからも、そんな生活は変わらない。少しは奥さんの気持ちになったらどうなの」
他人の家を転々としているのは、泰子とて変わらない。おそらく中原の振る舞いを見て、泰子も同じことをやっているのだろう。泰子には若くて美人という圧倒的な強みがある。
中原が啖呵(たんか)を切る。
「俺は詩集を出す。それが売れてから擦り寄ってきてもしらんぞ」
「はははは」という甲高い笑い声を上げると、鏡台から離れた泰子は荷造りを始めた。
「あんたは、田舎から連れ出してきたおぼこ娘と所帯を持ち、一人前のような顔をしているけど、一銭も稼げていないじゃない。すべては家からの仕送り。それも先細っているようね。早晩、奥さんにも愛想を尽かされ、あんたはこの東京で野垂れ死ぬでしょうね。それよりもここにいる――」
「坂田留吉です」
「そうそう。留吉さんの方がよっぽどましよ」
「そんなことはない。こいつはただの勤め人だ!」
中原は再び泣き出していた。一般人と蔑んでいた留吉よりも下とされ、プライドを引き裂かれたのだ。
「さあ、これで支度(したく)はできたわ」
泰子が立ち上がる。
「行くのか」
中原がまるで自分の家のように言う。
「行くわよ」
さすがに留吉が引き止める。
「こんな夜中に女性一人では危ないですよ。明日の朝にでも――」
「いいの。心当たりがあるから」
「待て」
それは留吉ではなく、中原の口から発せられた。
「何を待つのよ。あんたは結婚した。もう私とは一緒に住めないの。それを、いつまでも未練たらしく追いかけてくるなんてね。こんな女々しい男は見たことがないわ」
そう言い捨てると、泰子は玄関に向かった。それを留吉が追いかける。
「本当に出ていくんですか」
「うん。出ていくわ。短い間だったけど感謝しているわ」
「いえ――」
留吉が言おうか言うまいか迷っていると、泰子が言った。
「私を引き留めたいのね。それはよした方がいいわ。私はこんな女よ。あんたには、いつかふさわしい人が現れる」
「でも、僕は泰子さんと一緒にいたいんです」
「ありがとね」
そう言うと、泰子は留吉を抱き寄せてくれた。
「これでお別れなんですね」
「そうよ、それがあんたにも私にも、そしてあいつにも一番いいことなの」
「分かりました。またどこかで――」
「その時は他人よ」
そう言い残すと、少し笑みを浮かべて泰子は玄関から出ていった。
茫然とそれを見送っていると、隣に中原が立っていた。
「行っちまったな」
「そのようですね」
「あんな女はもういい。奥で飲もうや」
中原が倒れた襖をまたぎながら居間に戻っていく。その小さな後ろ姿を見ながら、留吉は詩人という生き物の不思議を思った。
Synopsisあらすじ
江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!
Profile著者紹介
1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。
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