夢燈籠第8回


 その後、すぐに夏休みになったため、留吉の秘密はさほど広まらなかった。その点では、さすがの昇平も誤算だったはずだ。一つは皆も成長し、留吉の出生の秘密などを広めたところで、面白くもなんともないと思っていること、そしてこれまでの留吉の人間性から、気の毒とは思っても、悪口を広める気にはならなかったのだろう。このことから留吉は人間関係の大切さを学んだ。
 だが停学になったことで、夏休みは三カ月になった。
 それならそれで、この機会にどうしてもやりたいことがあった。小田原の栢山(かやま)郷へ行くことだ。
 継母のいさに「友だちと会う」と告げた留吉は、東海道線に乗って小田原駅に着き、そこからバスで栢山郷に着いた。
 バスの排気ガスと土煙が晴れて周囲を見回すと、栢山郷は田畑しかないだだっ広い地だった。それでも酒匂(さかわ)川が流れているので、農業が盛んな肥沃な地なのは間違いない。遠くを望むと、北、東、西の三方を山に囲まれていた。東は曽我(そが)丘陵、北は丹沢(たんざわ)、西は箱根山だ。
 ――ここで母さんは生まれたのか。
 バス停に立ち、母が確実に見たと思われる光景を眺めていると、なぜか不思議な感覚に陥る。
 ――母も、少女の頃は夢を持っていただろう。
 それがどんな夢だったのかは、留吉には想像もつかない。だがこの山野を眺めながら、小さな胸に夢を抱いていたに違いない。
 小田原の駐在所で見せてもらった白地図から書き取ったメモに従って歩き始めると、「二宮尊徳(にのみやそんとく)誕生之地」という石柱と生家があった。
 ――尊徳は、こんなところで生まれたのか。
 二宮尊徳と言えば、どこの小学校にもある薪(まき)を背負って本を読む石像が有名だが、まさか柏山郷の生まれとは知らなかった。
尊徳の生家の石柱を通り過ぎて歩いていくと、前方に集落らしきものが見えてきた。
そこは十軒前後の家が寄り集まる、見るからに小作農たちの集落だった。二宮尊徳の家とは比べ物にならない大きさだが、そこが実母のいた風景だと思うと、この上なく愛おしく感じられる。
大人たちは野良仕事に出ているのだろう。真夏の日の下、集落の中央付近と思(おぼ)しき広場で、数人の幼子が遊んでいた。彼らの視線は留吉に釘付けになっている。きっと見慣れない人が来たのが珍しいのだろう。どこかの家の犬が、けたたましく吠えている。
子供たちに「やあ」と言って手を挙げると、誰も何も言わず、黙って留吉を見ていた。
留吉は、その中に実母の姿を見た。
――きっと母も、この場所で、この子たちと同じように、見知らぬ人が来たら見ていたのだろう。
母の家が近づくにつれ、次第に緊張が高まる。
――ここだ。
白地図にあった場所には、何の個性もない小さな農家が立っていた。軒下には芋か大根と思しきものが、紐(ひも)に通して干してある。
その家の表札には鈴木とあった。もちろん事前に、「鈴木八重」という実母の名は聞いていたが、鈴木というありきたりな名字にも、なぜか実母のイメージを具体化するものがあった。
表札を見つめていると、背後から声を掛けられた。
「あの、何かご用ですか」
 そこには四十前後の女性が立っていた。
「あっ、失礼しました。実は――」
 留吉が事情を説明すると、女性は驚いた様子で、「間もなく主人が帰ってきますので、こちらでお待ち下さい」と言い、客間に通してくれた。客間には実母の父と母、すなわち留吉にとって祖父と祖母と思しき人の遺影が飾られている。
 正座していると、夫人が茶を運んできた。
「あの遺影はどなたですか」
「うちの主人の父と母です」
「ということは――」
「はい。八重さんのご両親でもあります」
二人の遺影をじっと見つめたが、自分に似ているようで似ていない気がする。
「鈴木八重、つまり母の写真はありますか」
「さあ、私は見たことがありません。もうすぐ主人が帰りますから」
 そう言うと、夫人は下がっていった。それから三十分ほどして外が賑やかになると、主人らしき人物が男性一人を伴って帰ってきたようだ。夫人が事情を説明している声が、かすかに聞こえる。
 やがて主人らしき人物が現れた。
「あんたが八重の子かい」
「はい。坂田留吉と申します」
「わしは、八重の兄の敦彦(あつひこ)だ。こいつは従弟(いとこ)の市川貞一(いちかわさだいち)だ。うちの畑を手伝ってもらっている」
 五十を少し超えたくらいの敦彦が、三十半ばほどの貞一を紹介する。貞一は少し話を聞いてから、「では、これで」と言って帰っていった。
 だがそこから話は進まなかった。敦彦は八重の行方を知らないと言い、写真も持っていないと言う。そのため三十分ほどして、気まずい雰囲気のまま鈴木家を去ることになった。
――これですべては断たれたのだ。
母への手掛かりが断たれたことで、留吉は落胆していた。
帰り際、一人の少年が先ほどの夫人と土間にいた。おそらく二人の子なのだろう。夫人が「挨拶しなさい」と言うと、少年は頭を下げた。
「では、これで失礼します」
 三人に一礼し、留吉は肩を落としてバス停に向かった。バス停に着いて時間を調べると、三十分後に小田原駅行きのバスがあると分かった。母が見たと同じ栢原郷の夕焼けを眺めながら、バス停のベンチに座っていると、こちらにやってくるワイシャツ姿の人影が見えた。
 ――あれは、先の人か。
 それは先ほど鈴木家にいた市川貞一だった。先ほどとは服装が違っていたので、気づくのが遅れたのだ。
「話は聞いた。母さんに会いたいのだろう」
「はい。何かご存じですか」
「ああ、知っている」
 貞一の言葉に、留吉は衝撃を受けた。
「母は――、鈴木八重はどこにいるのですか」
「遠いところだ」
「それはどこですか」
「学生の行けるところではないぞ。それでも聞きたいか」
 留吉がうなずくと、貞一が思い切るように言った。
「福岡の筑豊(ちくほう)炭鉱で働いている」
「炭鉱で――。ということは、あちらに良縁でもあったのですか」
「そうじゃない。君にも分かるだろう。あちらは未曽有の景気だ」
「あっ」
 ――母は、炭鉱夫を相手に春をひさいでいるのか。
 良縁どころではない。母は割のいい商売をするために筑豊に行ったのだ。
「住所までは知らない。俺が知るのは、八重さんが筑豊に行ったことだけだ」
「どうして――、どうして教えてくれたのですか」
「君が不憫(ふびん)になったのさ。実は、君の祖父(じい)さんと交渉したのは鈴木さん、つまり今会ってきた敦彦さんだ。つまりあの多額の手切れ金も、懐に入れたのは敦彦さんだ」
「えっ、では母は――」
「鈴木さんが女衒(ぜげん)に売った。だから自分から筑豊に行ったんじゃない。連れていかれたんだ」
 ――何ということだ。
 それで鈴木敦彦が、「知らぬ、存ぜぬ」を通していた理由が分かった。
 貞一がポケットから煙草を取り出した。
「やるかい」と問われたので、留吉が首を左右に振ると、貞一は煙草に火をつけると、自嘲するように言った。
「俺は三男坊なので、あんな男に雇われて野良仕事を手伝い、生きるのにぎりぎりの金をもらっている。何とも情けない人生だが仕方がない」
 留吉にとって、そんなことはどうでもよいことだった。
「すいません。母のことを知る手掛かりは、ほかにありませんか」
 貞一がポケットに手を突っ込むと、古い写真を取り出した。
「これが、八重さんだ」
 息をのむように受け取った留吉が写真を見ると、何人かの子供が写っていた。
「どれが母なのですか」
「右から二番目だ。俺はその左隣だ」
 留吉が食い入るように写真を見る。
「十歳くらいの時のものだが、これしかない」
「これをお借りできますか」
「ああ、くれてやる」
「でも、せっかくの記念ではないのですか」
「俺のような男には、過去を懐かしむ余裕などない」
 その言葉には、日々の生活で精いっぱいという思いが込められていた。
「ありがとうございます」
 そこにちょうどバスが来た。
「では、これで。何のお礼もできませんが――」
「いいさ。でも八重さんを捜すのは苦労するぞ。その世界で本名は名乗らない。だから鈴木八重という名で見つけるのは困難だ。無駄足になると思うが、せいぜい頑張るんだな」
「はい」
 バスのドアが開いた。中から若い女車掌が促すような視線を向けてきたので、留吉は慌ててステップに足を掛けた。
 その時、貞一の声が聞こえた。
「お前さんにはバスが来る。だが俺のバスは決して来ない」
 留吉が聞き返そうとした次の瞬間、派手な空気音と共にバスのドアが閉まった。
 貞一は煙草を捨てると、手を振るでもなく、自分の人生に戻るべく元来た道を引き返していった。

夢燈籠

Synopsisあらすじ

江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!

Profile著者紹介

1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。

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