夢燈籠第30回

十九

 突然、閃光(せんこう)が走ると、背後の屋敷の屋根が燃え始めた。
 ――火矢(ひや)か!
 火矢らしきものが次々と射込まれ、屋敷は瞬く間に燃え始めた。兵匪たちは何事か喚きながら右往左往している。
 ――どういうことだ!
 愕然としている留吉の腕を背後から誰かが取った。
「こっちだ!」
 それは間違いなく日本語だった。郭子明も誰かに助け起こされている。
 暗闇でそれが誰だか分からないが、日本人なら酷いことはしないと確信し、その言に従って荒れ野を懸命に走った。背後からは激しい銃撃音が響き、喚き声も聞こえる。
 やがて何台もの車が見えてきた。そこには篝(かがりび)が焚かれ、何人もの人々が待っている。
「ああ、助かった。ありがとうございます!」
 留吉は息を切らして車のところに着くと、その人物を見た。
「危なかったな」
 その人物は篝を受け取ると、自分の顔を照らした。
 留吉に衝撃が走った。
「兄さん――、慶一兄さんじゃないですか!」
「留吉――」
 思わず慶一の胸に飛び込むと、慶一はしかと受け止めてくれた。
「兄さん、会いたかった」
「俺もだ」
 予想外の事態に言葉がなかった。だが抱擁は一瞬で、慶一は留吉を引き離すと、満州語で「引き揚げるぞ!」と配下の者たちに命じた。
 思い出したように館の方を見ると、もう館は焼け落ち、兵匪たちもどこかに逃げ散ったらしく影も形もない。
「さあ、行くぞ」と言うや、慶一は後部座席に留吉を押し込むと、自分も乗り込んだ。郭子明は後続する車に乗せられたらしい。留吉たちが借りた関東軍の車も、誰かが運転してきて最後尾に付いた。
 やがて五台ほどの車が動き出した。
「兄さん、生きていたんですね」
 車が走り出すと、改めて感激がよみがえってきた。
「ああ、死んでたまるか」
 慶一が精悍な顔に笑みを浮かべる。
「よかった。本当によかった」
「お前も助かってよかったな」
「はい、危機一髪でした。でもどうして、僕がここにいるって分かったんですか」
「そのことか」と言って、慶一が笑みを浮かべた。
「まず、俺の立場から説明しよう」
「聞かせて下さい」
 慶一は胸ポケットからルビ・クインを取り出すと、留吉にも勧めた。ルビ・クインとは、ウエストミンスターと共に満州で大人気の煙草だ。それを一本もらうと、慶一がライターで火をつけてくれた。二人は窓を開けて煙草を吸った。すると、ようやく落ち着いてきた。
「さて、どこから話そうか」
「張作霖爆殺事件のところからお願いします」
「そうだな」
 慶一は河本大作大佐の下で、張作霖爆殺事件にかかわることになった。だが下働きなので、河本の工作の全貌は知らされず、河本が指示したものを用意するような立場だった。それが偽装工作に使うものだと分かったのは後になってからだが、問題はそれだけではなかった。河本は阿片窟で阿片中毒患者を三人雇ってこいという。何の目的か問うたが、河本は「いいから連れてこい」と言うので、致し方なく連れてきた。
ところが一人が脱走したので、それを報告すると、河本は残る二人を殺せと命じてきた。慶一が「殺せない」と言うと、河本は「別の者に殺させ、お前は抗命罪で軍法会議にかける」と応じた。それを聞いた慶一は、とんでもない事件に巻き込まれていると気づいた。だが当時の関東軍は実質的に河本が支配しており、誰に訴えることもできない。大使館関係者に訴えても、軍部を恐れて保護などしてくれないはずだ。
「それで逃げ出したのですか」
「そうだ。もはや八方塞がりだからな。しかしあの二人を救ってやれなかったのは、返す返すも無念だ」
 あの二人とは、殺された二人の阿片中毒患者のことらしい。
「それで朱春山(しゅしゅんざん)を頼ったのですね」
「そうだ。関東軍の秘密文書を持ち出したので、春山は喜んだ。それで春山は俺を保護する代わりに、その文書を河本に金で買わせた」
 慶一が気持ちよさそうに笑う。
「それからずっと春山の許にいたのですね」
「そうさ。ほかにどうしようもないからな」
「で、どうして私がここにいると――」
「ああ、そうだったな」
 慶一によると、昨夜、禄山(りょくざん)という男から朱春山の許に電話があった。用件は「日本人の人質を買わないか」ということだった。春山が「自分で身代金を取ればよいものを、どうしてわしに売る」と問うたところ、禄山は理由を正直に話したという。
 禄山としては、春山経由なら関東軍にもにらみが利くので、討伐軍を差し向けられないと思ったのだという。
「それで春山が日本人の名を聞くと、禄山が坂田留吉と答えた。それで春山は俺を呼び、『同じ苗字だが心当たりはないか』と問うてきたというわけさ」
「それで、助けに来てくれたのですね」
「そういうことだ。春山に頼んで人を貸してもらい、殴り込みをかけたってわけさ」
 慶一の横顔には、かつてを上回るたくましさが表れていた。
「兄さんは、また僕を救ってくれたのですね」
「ああ、またと言うと、最初のは、お前が離岸流に流されたことか。そういえばそうだな」
 慶一が懐かしげな顔をする。
 命が救われたからか、急に安堵が込み上げてきた。
「兄さん、少し寝ます」
「ああ、そうしろ」
 留吉は深い眠りに落ちていった。

夢燈籠

Synopsisあらすじ

江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!

Profile著者紹介

1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。

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