夢燈籠 第28回
十七
ガイド兼運転手として郭子明が見つけてきたのは、まだ頬を赤くした十六歳の少年だった。
「大丈夫か」と、日本語で留吉が聞くと、郭子明が苦い顔で答えた。
「昨日の今日でガイド兼運転手を見つけるのはたいへんです。こんな少年でも見つけられただけましです」
おそらく少年は無免許なのだろう。カーブなどでのハンドリングは不安定だ。だが文句を言っても仕方がない。
郭子明があたりをつけた郊外の大豆農場に連れていくよう命じると、それだけで少年は「分かった」と答えて走り出した。
「どこに向かっている」
「北です。こうなれば任せるしかありません」
「仕方ないな」
留吉は行き先を少年に任せることにした。
長春郊外は言うまでもなく道など舗装されておらず、陸軍所有の乗用車はでこぼこ道を疾走していく。
やがて左右に青々とした大豆畑が広がってきた。
日本は満州の鉱物資源が目当てで植民地化を図ってきたと言われるが、実際はそれだけではなく農産物も目当てだった。満州の輸出品のトップは大豆と豆粕(まめかす)、さらに大豆から搾り取った豆油の大豆三品で、それに石炭コークスや鉄鉱石が続くという輸出構成だ。そうした大豆単一栽培と言える満州の農作物の陰で、一部の畑を阿片芥子(あへんけし)栽培に回しても、広大な満州では到底見つけられるものではなかった。
荒っぽい運転には慣れているはずの郭子明でさえ、音を上げ始めた。
「おい、気分が悪くなってきたぞ。もっと優しく運転できないのか」
「だったら日のあるうちに着かないよ」
二人の会話は満州語だが、留吉にも少しは理解できるようになってきた。
やがて大豆畑が途切れたところに、大きな家が見えてきた。
少年が「着いた」という意味の言葉を言った。
車が敷地に入ると、そこにいた人々が身構える。それは労働者というより、匪賊に等しく、革製の袖なし服を着て、腰には大刀を佩(は)いている。
――ここはどこなのだ。
それは郭子明も感じたらしく、少年に向かって問う。
「おい、ここが朱春山の農場なのか」
少年は「少し待って」と言うや、車を下り、ちょうど家から出てきた髭面の男の方に歩み寄っていく。
「おい、子明、ここはどこなのだ」
「私にも分かりません。朱春山の農場なら、もっとまともな姿の人たちが働いているはずです」
「では、ここは――」
その時、少年が何かをもらっているのが見えた。
「あれはどういうことだ」
「金をもらっているようです」
「ということは――」
二人が顔を見合わせる。
その時、少年がこちらを指差すのが見えた。
「奴はわれらを売ったんだ。逃げるぞ!」
「誰が運転するのです」
そのことを忘れていた。だから少年も安心してキーを差したまま車を降りたのだろう。
「ええい、知るか」
後部座席から運転席に移った留吉は、見よう見まねで車を動かそうとした。退屈だったので、運転する少年の斜め後方から、運転方法を見ていたのが幸いした。だがクラッチを離そうとすると、車はすぐにエンストしてしまった。それを見て馬賊たちが散開する。少年からこちらに銃があることを聞いているに違いない。
――そうか。石原さんが言っていたのは、こういうことだったのか。
大陸では、まさに自分の身は自分で守らねばならないのだ。
「そうだ。子明、これを空に向けてぶっ放せ」
留吉は石原から借りてきた銃を抜くと、郭子明に渡した。
「私は銃など撃ったことはありません」
「とにかく撃て!」
キーを回すと、再びエンジンが掛かった。今度は注意深くクラッチを離し、ギヤを入れた。
車がよろよろと動き出す。
その時、何かが爆発するような音が響いた。郭子明が銃を放ったのだ。
「ひいー」という郭子明の悲鳴が聞こえる。だが幸いにしてエンストは起きず、車は走り出した。
――そうだ。ギヤチェンジだ。
スピードが出ないのでおかしいと思ったが、ギヤをセカンドやサードに入れねばならないことを思いだした。
突然、車のスピードが増す。だがUターンすることを忘れたため、走ってきた道路に戻ることはできず、車は大豆畑を疾走していく。ルームミラーで背後を見ると、十騎以上が追いかけてくる。
――俺たちは馬賊の巣窟に連れてこられたのだ。
「たいへんです。馬賊が追ってきています」
「分かっている」
だが泥土の上なので、車輪が空回りすることがあり、スピードが出ない。そのうち前方に回られてしまった。馬賊は「あきらめて車を止めろ」と言わんばかりに手で合図してくる。
「万事休すだ」
「嫌です。私は殺されます」
郭子明が泣き出した。
「殺させはしない。銃を捨てろ」
意を決した留吉が車を止めた。
同時に、郭子明も覚悟を決めたのか、車窓から銃を投げ捨てた。
それを見た馬賊が馬を下りて近づいてくる。
――これからどうなるのだ。
どこまでも広い大平原の真っただ中で、留吉は途方に暮れていた。
Synopsisあらすじ
江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!
Profile著者紹介
1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。
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