夢燈籠 第42回
八
中原は人間的魅力に乏しく、その唯我独尊(ゆいがどくそん)の自慢話には嫌悪を催す。しかし中原と知り合った男たちは、その沼のような世界に引きずり込まれていく。
――それはなぜなのか。
安易に、「その無垢な魂に魅せられて」というのとも少し違う。強いて言えば、人間の醜い部分を見せられているうちに感覚が麻痺(まひ)し、しばらくすると麻薬のようなその自己中心的な世界観や他人への容赦ない罵倒を聞きたくなってくる。
それはあたかも自分の暗部を映す鏡のようであり、その醜い部分を見ること、そして嫌悪感を催す話を聞くことが、贖罪になっているような気がするからだ。
――厄介な男だ。だが離れられない。
留吉のように文学に携わっていない人間にとって、中原の吸引力は分かりにくい。だが会うことを重ねていくうちに、難解な文学論の片鱗が理解できるようになり、その流れるような弁舌と、ジャズのパッセージのように挟まれる悪口雑言(ぞうごん)が、次第に心地よくなっていくのだ。
昭和九年(1934)正月、前年にあたる昭和八年十二月に昭和天皇の第一男子、明仁(あきひと)親王が誕生し、日本中が祝賀ムードに包まれていた。それと同じ十二月、中原が上野孝子(うえはらたかこ)という女性と結婚した。
昭和七年から昭和八年は、中原にとって活発な創作活動と相反して失意の年となった。というのも中原は昭和七年、処女詩集『山羊(やぎ)の歌』の編集に着手し、六月下旬には予約募集の通知を諸方面に送っていた。しかし予約者は知友十人ほどしかなく、当然のように刊行も頓挫(とんざ)した。
それで酒量が多くなり、そんな時に留吉と出会ったのだ。
だが中原はあきらめきれず自費出版を決意し、詩集印刷の費用三百円を母に捻出させ、九月には印刷を始めたものの、一部を刷っただけで資金が足りなくなり、こちらも中断していた。こうした計画性のなさも中原特有だ。
だが、そんなことはおくびにも出さず、中原は余裕を持った態度で友人たちに接していた。元来が見栄っ張りなのだ。
ちょうどこの年、中原は東京外国語学校(現・東京外国語大学)専修科仏語部を卒業し、フランス行きを模索し始めていたこともある。かねてより中原は、フランス文学、とくにランボーやヴェルレーヌの詩に精通し、自ら訳していた。それが高じてフランス行きを望むようになった。
フランス行きを計画している最中に結婚というのも合点がいかないが、そうした矛盾(むじゅん)を矛盾とも思わず生きているのが、中原という男なのだ。
だがこの頃から、中原は神経衰弱に苦しめられ、幻聴さえ聞こえるようになる。
友人と酒を飲み、理路整然と文学論を語っていたかと思うと、突然泣き出し、「山口に帰りたい」と言って周囲を困らせた。しまいには、この頃住んでいた森川町の下宿の近くから聞こえる新築の槌音(つちおと)を聞き、「あれは俺を閉じ込めるための牢を造る音だ」と言って逃げ出そうとしたこともあった。それを周囲は、おろおろしながら見ていることしかできなかった。
実は、中原は強迫神経症を患っていたのだ。
中原が近所から引っ越していったこともあり、昭和八年の後半は会う機会もめっきり減った。だが詩人とはそういうものだと思っただけで、留吉は中原の変調に気づかなかった。
結局、中原の病は収拾がつかないほど進み、最後は弟が上京し、中原を帰郷させることになる。ところが帰郷するや、中原を待っていたのは縁談だった。
強迫神経症により、中原は自らの意思を持たない廃人のようになっており、母と弟の勧めに素直に従い、結婚に合意した。相手の上野孝子が美人だったこともあるが、中原の茫然自失状態の隙を突いた格好になった。
この結婚は、十一月十日に見合いし、十二月三日に挙式というスピード婚だった。中原は二十六歳、孝子は二十歳だった。
二人は上京し、四谷の花園アパートで新婚生活を始めた。そのため昭和九年の前半、中原は留吉の前に姿を現さず、草野から結婚の噂を聞いた留吉は、ほっとした半面、少し寂しくもあった。
「という次第だ」
数寄屋橋の菊正ビル(現・東映会館)にあるカフェーで、中原はビールをラッパ飲みしながら顛末を語った。六月になり、中原から「久しぶりに飲もう」という電話があったので、留吉も会うことにした。
「ということは、結婚は本意ではなかったのですか」
「そういうことになる。母と弟にノイローゼの治療などと言われて山口に連れていかれ、そこでぼんやりと過ごしていると、背広に着替えさせられ、料亭に連れていかれた。そして孝子に会わされた。あの頃は思考力もなかったので、何が何だか分からないまま話が進み、結婚することになった。本来詩人なるものは食べていけないのが当たり前なので、所帯など持てないと思っていた。だが孝子と親族は、それでもよいと言う」
上野家は山口の名家だったが、この頃没落し、広大な田畑も他人の手に渡っていた。そのため孝子は行き場を失っており、上野家の親戚連中が、金持ちで通っている中原家の長男に押し付けたのだ。
――つまり中原本人が稼ぐ金でなく、中原家の財産が目当てということか。
中原の父は軍医から開業医に転じて成功を収めたので、中原家は父亡き後も裕福だった。
「詩人は結婚できないのですか」
「当たり前だ。詩人が所帯を持ってどうする。詩人は放浪の果てに野垂(のた)れ死にするものだ。ランボーのようにな」
中原の話なので、どこまでが本気で言っているのかは分からない。ただしランボーは癌で死去したとはいえ野垂れ死に同然だったので、そんな死に方に中原は憧れていたのかもしれない。ちなみにランボーとは、フランスを代表する象徴派詩人アルチュール・ランボーのことだ。
「その割には血色もよいようで」
「まあな、孝子は料理がうまいんだ」
そう言いながら、中原は孝子の写真を見せてくれた。
「美人じゃないですか」
「そういう見方もできる」
中原はまんざらでもないようだ。
「とにもかくにも、おめでとうございます」
「ありがとう。それでその後、泰子から何か言ってきたか」
意外な名が飛び出し、留吉は戸惑った。
「ぼくはあの時に会ったきりですよ。だいいち連絡先も教えていません」
「そうだったのか。てっきり同棲でもしているんじゃないかと思っていた」
中原が疑いの目を向ける。人一倍嫉妬(しっと)深いのだ。
「どうして僕が泰子さんと同棲するんですか。飛躍が過ぎますよ。いくらなんでも――」
「いくらなんでも何だ」
「中原さんと小林さんの彼女じゃないですか」
「いいや、泰子にとって相手など誰でもよいのだ。奴に必要なのは金だ。つまり泰子は生活力のある男を頼りにする」
「そうならなおさらです。僕には金なんてないから、はなから相手にされませんよ」
この時になって、中原が留吉に会いたいと言ってきた理由が分かった。留吉が泰子と同棲しているのではないかという疑念が生じたのだ。だが今度ばかりは、いかに勘の鋭い中原でも外したことになる。
「本当に同棲していないか」
「当たり前ですよ。だいいち中原さんはもう妻帯者じゃありませんか。いつまでも過去の恋愛に囚われていてどうするんですか」
「それが詩人というものだ」
中原は分が悪くなると、すぐに詩人という殻に逃げ込む。それがヤドカリのようで可笑しい。
「詩人だからといって、社会の倫理は守らねばなりません。とにかく長谷川さんのことは忘れて下さい。今は孝子さんのために、いい詩を書いて下さい」
「素人が俺にいい詩を書けだと!」
「申し訳ありません」
中原は無言でズダ袋の中に手を突っ込むと、一冊の雑誌を取り出した。
「これを見ろ」
酒が回ってきたのか、中原の目が据わってきた。癇癪を起こさせないよう注意せねばならない。
「これは何ですか」
「同人誌だ。俺の詩が掲載されている。とにかく読んでみろ」
中原が渡してきたのは、『紀元』と書かれた雑誌数冊で、確かに同人誌のようだ。
中原が女給を呼んでウイスキーの水割りを注文している間に、一月号の幟の挟んであるページを開いた。
――タイトルは「汚れちまった悲しみに」か。
Synopsisあらすじ
江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!
Profile著者紹介
1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。
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