夢燈籠 第3回

 ふうっと息をつくと、巫女(みこ)が託宣を下すように、ぬいは言った。
「坊ちゃんは妾の子なのです」
「えっ」
 その後に続く言葉が出てこない。
 ――つまりわしは、姉や兄たちと母親が違うのか。
 脳天をまさかりで割られたかのような衝撃が走る。
「坊ちゃん、どうかこのことは心の奥にしまっておいて下さい」
「どうしてだ」
「この話を明るみに出しても、誰も幸せにならないからです」
「では、なぜそれをわしに告げたのだ」
「それは――」
 ぬいの頬に一粒の涙が流れる。
「この家の方は、誰もそれを告げないと思うからです。しかし年を取ってくれば、坊ちゃんも『何かおかしい』と思うはずです。その時、誰も真実を告げてくれなければ、坊ちゃんは思い悩むはずです」
「それはそうかもしれぬが、わしの実母はどこにおるのだ。生きているのか」
 ぬいの顔が悲しみに歪む。
「おそらく生きています」
「では、なぜここに置かない。これだけ広い家だ。妾だろうと一緒に住めるはずだ」
「もしそうなっていたら、私も要りませんでした」
「いや、そういう意味ではない」
「すいません。私のことは気にしないで下さい」
 ぬいが寂しそうな顔をする。おそらく留吉を育て上げることが、ぬいの生き甲斐(がい)だったのだろう。
「では、理由を聞かせてくれ」
「分かりました」と言うと、ぬいは少し咳き込んで、すぐに手近にある手拭いを口に当てた。
「何を聞いても怒ったり嘆いたりはせぬ。どのような理由だ」
「坊ちゃんのご母堂は、春をひさいでいたのです」
「春をひさぐというと――」
 その言葉に留吉は愕然とした。
「ま、まさか――」
 ――わしの母は女郎だったのか。
 胸底から劣等感が湧き上がってくる。
「残念ながら、それは事実なのです」
「ぬいは母と会ったことはあるのか」
「あります」
「どのような母だった」
「心根の美しい弁財天のような方でした」
 そう言われても、少しも救いにならない。
「それで、父はどうしたのだ」
「子ができたと分かった時は、もはや堕(おろ)せませんでした。それゆえ坊ちゃんを産ませた後、お祖父(じい)様が多額の手切れ金をご母堂に渡して追い出しました。ご母堂はお祖父様の店で働いていたからです」
 ――父は祖父の店で女を買っていたのか。
 いつも偉そうにしている父が一人の男にすぎないという事実に、留吉は愕然とした。
「それゆえお祖父様は激怒されました。しかしお父様はお祖父様にとって唯一の男子です。勘当でもすれば、ご母堂と駆け落ちしてしまうかもしれないので、最後には許しました」
「わしの名は誰が付けたのだ」
 留吉は母親という答えを期待した。名だけでも母の痕跡がほしかったからだ。
「お祖父様です」
「つまり、こんなことは、これで留めておきたいという謂(いい)か」
「おそらく――」
――なんということだ。
 自分の名前にさえ否定的な意味が込められていることに、留吉は落胆した。
「で、わしはなぜ養子に出されなかったのだ」
「それは――」と言いつつ言いよどんだぬいだったが、勇気を出すようにして言った。
「妾の子だったのならまだしも、ご母堂が春をひさいでいたことが知れ渡り、引き取り手がいなかったのです。それで私が雇われたという次第です」
 ぬいの話は理路整然としており、一切の隠し事はないように思えた。
「で、母は今どこにいる」
 ぬいが力なく首を左右に振った。
「知りません」
「何か手掛かりはないのか」
 ぬいがため息をつく。
「ありません」
「実家はどこだ」
 ぬいが再び首を左右に振る。
「知っているな」
 ぬいは何も答えない。
「頼むから教えてくれ」
「行ってはいけません。行けば何もかもが壊れてしまいます」
「よいか――」
 留吉が諭すように言う。
「人は成長する。われわれ兄弟だとて、いつまでも子供ではない。それほど遠くない将来、それぞれの道を歩み始めるだろう。わしとてそうだ。それは壊れるのではない。それぞれが次の舞台に進むということだ。それゆえ、わしに心置きなく次の舞台に進ませてくれ」
「そのために、ご母堂に会いたいというのですね」
「そうだ。それで踏ん切りをつけたい」
「もし会えたとしても、二度目はないと約束してくれますか」
「どうしてだ」
 ぬいが言葉に詰まる。
「母の出自が、わしが世に出る妨げになると言いたいのだな」
「そうです。申し訳ありませんが、私は坊ちゃんが一廉の人物になると思っています。その妨げにならないことを祈るばかりです」
「それでも、一度だけでいいから会いたい」
「分かりました」
 そう言うと、ぬいは大きく息を吸い込み、思い切るように言った。
「ご母堂の名は鈴木八重(やえ)。実家は、小田原近郊の栢山(かやま)郷で農家をやっていると聞きました。おそらく兄弟はその地に残っているでしょう」
「そこに行けば、母の消息は知れるのだな」
「それは分かりません。家を出てしまえば、たとえ兄弟姉妹であろうと、他人も同然ですから」
 それは、ぬい自身のことを言っているように聞こえた。
「ぬい、長い時間すまなかった」
「いいんです。これで私も胸のつかえが取れた気がします。でも、くれぐれも無理してご母堂に会おうとはしないで下さい。ご母堂にも忘れ去りたい過去かもしれませんから」
 ――わしは忘れ去りたい過去なのか。
 それを思うと、悲しみが込み上げてくる。
「分かった。当面は会いに行かないと約束する。このことも内密にしておく」
「坊ちゃん、大人になりましたね」
 ぬいが涙を堪える。
「ぬいに、もっと立派な姿を見せたい。せめてわしが二十歳になるまで生きてくれ」
「それは草葉の陰、いえ、坊ちゃんの好きな燈籠の陰で見ています。どうか一廉の人物になって下さい」
「それも約束する。必ずや世のため人のために役に立つ人物になる」
「ああ、坊ちゃん、名残惜しい」
 堰(せき)が切れたようにぬいが泣き出した。
 それを見つつ、留吉は「では、行く」と言い、ぬいの部屋を後にした。
 ぬいの嗚咽が漂う廊下を歩いていくと、庭が見えてきた。いつもと変わらぬ庭だが、なぜか空気が一変しているように感じられた。そして燈籠はいつもと変わらず、そこに立っていた。
 ――すべて知っていたのだな。
「ああ、知っていたさ」
 燈籠がそう答えた気がした。
「だがな留吉、自分の出自などどうでもよいではないか。卑下したところで何も始まらぬ。胸を張って自分の人生を歩いていけ」
「どうして胸を張れる」
「母上のことを誇りに思え」
「どうしてだ」
 燈籠は黙して語らない。
 ――そうか。今聞いた話は、わしの重荷であり、また誇りでもあるのだな。
 なぜそれが誇りなのかは、うまく説明できない。だが母親、すなわち鈴木八重は、留吉にとって誇れる人物である気がした。
「母さん」
 その言葉を口に出すと、母がいっそう身近に感じられた。

 それから三月(みつき)後、ぬいは旅立った。直前までは咳と痰に苦しんでいたというが、最後の一週間は症状も治まり、医師まで持ち直すのではないかと思ったという。だが高齢のぬいは闘病に体力を使い切っていた。それゆえ最後は多機能不全を併発し、逝去したという。
 留吉は死の直前まで部屋の前に行ったが、ぬいはけっして部屋に入れてくれなかった。それゆえ最後の会話は襖越しだった。しかも若い女中が控えていたので、自分の出自の秘密を知った時のような話はできなかった。
 留吉はいつの日か栢山郷に行き、母の消息を訪ねてみるつもりでいた。
 かくして留吉は幼少年時代、常に傍らにあったぬいを失った。だが時は待ってくれない。その悲しみに浸る暇もなく、留吉は旧制中学校に入学する。それは最初の大きな転機となった。

夢燈籠

Synopsisあらすじ

江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!

Profile著者紹介

1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。

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