夢燈籠 第22回
十一
翌日から、留吉は田中少佐に張り付いた。とは言っても、始終一緒にいることはできない。田中がどこかに出掛ければ、その後を追い、出てきたところで話を聞くという方法を取らざるを得なかった。
当初は戸惑っていた田中だったが、新人記者と見くびったのか、そのうち酒や食事に誘ってくれるようになった。満州日報には、満州軍の御用新聞的立場があり、朝日や毎日の記者ほど警戒されていないことも幸いした。
当初、田中は大連と旅順を行き来していたが、七月のある日、「明日、奉天まで行く」と告げてきた。留吉に否はない。
奉天でも田中は忙しそうに関係各所を動き回り、何かを探っているようだった。だが、それが何かは分からない。
奉天に着いた二日後、田中は「爆殺現場に行ってみないか」と留吉を誘った。むろん留吉に否はない。
現場は奉天市街から車で十分ほどの場所だった。
市街地を出てしまえば平原の真っただ中で、コーリャン畑が広がっていた。唯一ただの畑地と違うのは、そこに二つの線路が交差していることだった。このほかにも奉天の北西部には、五つの鉄道が集中しており、まさに奉天は満州の交通の要衝だった。
関東軍自体、事業の権益擁護や法人の安全確保、さらに満鉄の路線と付属地の保護のために編成された部隊だったが、それが次第に肥大化し、警備や防衛という本来の目的から逸脱していくのだが、それは別の話になる。
二人は案内役の先導に従い、現場とされる場所に至った。一行は、田中、留吉、そして運転手兼案内役の満州人だけだ。田中は単独での行動を好み、部下を同行させない。だが留吉だけは例外のようだ。
案内役が中国語で四方を指差し、何か説明している。
「ここか」と言って田中が鉄路の石を拾う。
留吉は会社のカメラで、周辺の写真を撮りまくった。
「君は事件の概要を知っているか」
「はい。ある程度は知っていますが、詳しいほどではありません」
すでに修復された線路を歩きながら、田中が語る。
「第二次奉直戦争に勝ち、直隷派を駆逐した張作霖は、臨時政府を北京に樹立し、蒋介石の広東国民政府に対抗した。ところが張作霖の軍は軍閥の連合体だ。利害が一致しなければ反旗を翻される。張作霖が南軍(国民革命軍)と対峙している間に、蒋介石がいくつかの軍閥の長を利で釣り、張作霖の後方で寝返らせ、奉天に攻め寄せさせたのだ。これで奉天が危うくなり、張作霖は苦肉の策で関東軍に支援を求めてきた。ここまで日本政府は消極的だったが、関東軍は乗り気だった。結局、関東軍に怖じ気づいた軍閥は戦う前に崩壊し、張作霖に平伏したというわけだ。しかしその頃、蒋介石の北伐軍が北上を開始していた」
「そこで再び日本が動いたというわけですね」
「そうだ。蒋介石に満州に出てこられたくない田中義一内閣が、居留民保護の名目で軍事干渉に乗り出したのだ。日本としては、張作霖と蒋介石、さらに野望たくましい連中がぶつかり合って国力を損耗してくれれば、それに越したことはない。だが張作霖はしたたかだ。日露戦争以来、日本に従順だったが、ここに来て対日依存路線を自主独立路線に転換し、東三省の支配権を確立し、自立を図ろうとしていた。だが大正十五年(一九二六)五月に入ると、張作霖の敗北が決定的となった。そうなると再び日本を頼ってくる。しかしもう日本も支えられない。そこで張作霖に北京放棄を勧めたのだ」
「なるほど、それでようやく張作霖も納得したのですね」
「そういうことだ。同年六月一日、張作霖は北京の大元帥府で盛大に送別の宴を行い、三日、午前一時少し前、軍楽隊の奏楽に送られるようにして北京を後にした」
「そして一路、奉天を目指したのですね」
「ああ、コバルト色に塗装された二十輛編成の特別列車を仕立て、まさに凱旋将軍のような帰還をするはずだった」
張作霖が乗ったのは、京奉線下り特別列車で北京を出発し、天津や山海関を経て、渤海湾に沿って北上し、奉天駅に着く予定だった。二連の機関車の後に、貴賓車、展望車、食堂車、寝台車といった具合に車輛が続く編成だ。
「ところが、凱旋とはいかなくなった」
田中が煙草を捨てると言った。
「爆心はこの辺りだな」
案内役が「はい」と答える。
爆殺直後を撮った写真では見たことがあるが、今は爆破の痕跡は一切ない。
「張作霖の乗った特別列車は奉天駅を目前とした午前五時二十三分、北京と奉天を結んだ京奉線と満鉄線がクロスした陸橋から十五メートルほど南で爆破された」
北京から八百五十キロメートルを二十八時間かけて走ってきて、ようやく終点が近づいたところで、張作霖は爆殺されたことになる。
「日本の新聞記事では、国民革命軍の便衣(べんい)隊がやったことになっていますが、実際は違ったんですね」
便衣隊とは、私服を着て一般民衆になりすまして様々な工作を行う部隊のことで、こうした部隊に日本軍はずっと悩まされることになる。
「何をとぼけたことを言っている。関東軍高級参謀の河本大作(こうもとだいさく)大佐がやったと知っているだろう」
河本は爆殺事件当時、四十五歳。関東軍内では軍司令官と参謀長に次ぐ序列第三位にあったが、今は更迭(こうてつ)されている。
「失礼しました。河本大佐自身が口述記録や手記によって張作霖の殺害を示唆していますし、多くの関係者の証言もありますよね」
「その通り。河本大佐らは陸橋の脇に置かれていた十個ほどの土嚢(どのう)に目をつけ、土嚢の土を除き、代わりに火薬を詰め込み、元の通りに積んでいた。そこから二百メートルほど南の畑の中にあった関東軍の監視小屋に点火装置を仕掛け、土嚢との間を電線でつないだ。そして列車が通過するのを見計らってスイッチを押した」
爆心地は三両目の展望車と続く食堂車の間と推定された。この二両の前後の貴賓車と寝台車も焼失した。
「では、明らかに河本大佐らの仕業ですよね」
「普通に考えればそうなる」
「普通に考えなければどうなるのです」
田中がにやりとする。
「おい、カバン」
田中に指示され、案内役の男が田中のカバンを手渡す。
「この写真を見ろ」
「これは事故調査時のものですね」
むろん留吉は、その写真を見たことがある。事故直後から主要新聞社に相次いで掲載されていたからだ。むろん満州日報も入手し、紙面に掲載した。
その写真を見ると、まず展望車の屋根が吹き飛び、頭上の満鉄線から落ちてきた鉄の欄干(ガード)などによって押しつぶされていた。ただしどの車両も線路上に整然と停車し、台車部分はほぼ脱線しておらず、線路自体も完全に原形をとどめていた。
「これらの写真を見ると、転覆や脱線をしていない。どうしてだと思う」
「つまり線路脇の爆発なら、車輛は吹き飛び、台車も脱線し、爆心地には、大穴が開いているというのですね」
「そうだ。爆破された特別車輛は、京奉線を走ってきた。その上には満鉄が走っているが、左右の石垣の間に二つの橋脚があり、上りの北京行き、下りの奉天行きが走っている。満鉄の欄干(らんかん)は展望車を直撃し、その屋根を破壊した。その線路も飴(あめ)のように捻じ曲がっている。左右の石垣も上部が破壊され、下部は無傷だ。これが何を意味する」
「まさか爆発の力が列車の上部に掛かったというのですか」
田中がうなずく。
「そうだ。捻じ曲がっているのは満鉄の線路で、京奉線の線路は無事だ。しかもどの車両の車輪も車台も破壊されていない」
「では――」
「結論を急ぐな。では、この写真を見たことはあるかい」
田中がカバンから取り出したのは、信じられないような写真だった。
Synopsisあらすじ
江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!
Profile著者紹介
1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。
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