夢燈籠第11回


 結局、留吉は三番方と呼ばれる夜番に固定されてしまった。三番方は夜番なので皆が嫌がり、人手不足が最もひどいと知るのは後になってからだった。
それでもキャップランプ付きのヘルメット、飯が五合は入る凸凹の弁当箱、同じく表面の塗りが剝げ落ちた水筒、ツルハシ、石炭運搬用の笊(ざる)、バール、鋸(のこぎり)、手斧など、山に入るのに必要な道具一式が貸与された。
 親方が「これらは先日、落盤事故で死んだ奴のものだ」と言って渡してきたので、留吉が驚くと、「冗談だよ」と言って笑った。
 いよいよ最初の山入だ。到着してから二時間と経ってない。
 三番方のリーダーは坑口の前に立つと、「みんなしっかり働け」と檄(げき)を飛ばし、坑口の出入口付近に作られた神棚に柏手(かしわで)を打った。神棚には御幣(ごへい)や塩が捧げられているが、それを見た留吉は、この仕事が重労働というだけでなく、死の危険と隣り合わせだということに初めて気づいた。
 坑内には鎖で連結されたトロッコで入る。留吉はその一つに乗せられると、歯の根が合わなくなってきた。
「兄ちゃん、心配するなって。落盤事故や爆発事故はそんなに起きねえ」
 誰かの言葉に、皆がどっと沸く。
 ――だが皆無ではないのだ。
 ここで死ぬようなか細い運なら、生きていても仕方ないが、中に閉じ込められでもしたら、死に至るまでの辛さは想像もつかない。それを思うと、ツルハシを握る手が汗ばんでくる。
 誰かの合図でベルが鳴ると、巻き上げ機の嫌な音が聞こえてきた。続いてトロッコが「ガッタン、ガッタン」と動き出した。初めはゆっくりだったが次第に加速していく。いよいよ入坑だ。一瞬にして真っ暗闇の中に入ると、レールの軋み音がけたたましく響き、火花が明滅する。トロッコは、傾斜が三十度はあろうかという急勾配をものともせずに疾走していく。
 ――そうだ。僕には弁財天が付いているんだ。
 懸命に弁財天に祈りを捧げていると、次第に落ち着いてきた。
 やがてトロッコが止まった。どうやら終点のようだ。トロッコを下りて皆の後に付き従い、中腰で奥へ奥へと進んでいくと、採炭現場、いわゆる切羽(せっぱ)に着いた。
 そこで指示されるままに、掘り出された石炭を笊にすくってトロッコまで運んだ。ずっとその繰り返しで、休憩も取らせてくれない。
 永遠とも思える時間が過ぎ、頭の中は朦朧(もうろう)としてきた。疲労というより空気が薄いためかもしれない。だが男たちは平気で仕事を続けている。
 トロッコまでやっとの思いで着いて石炭を乗せていると、元来た道から生暖かい風が吹き寄せてきた。それが死を誘っているようで、背筋がぞっとした。まれとはいえ事故は皆無ではないのだ。運悪く初日に何らかの事故に巻き込まれてしまうこともあり得る。
 やがて「作業終了!」という声が聞こえた。這いずるようにしてトロッコに乗り込むと、トロッコは上に向かって動き出した。
 ――早く、早く。
 うわ言のようにそう呟(つぶや)きながら行く手を見据えていると、突然明るい光が差した。
「太陽を見るなよ」という誰かの声がしたので、留吉は両手で目を覆った。
 やがてまばゆいばかりの光の中でトロッコは止まった。
「お疲れさん」という親方の声が聞こえる。
 留吉はトロッコを下りると、顔を覆っていた手を外して空を見上げた。
 空は信じられないほどの群青(ぐんじょう)色で、山の端から入道雲が湧き上がっていた。
 ――ああ、美しい。
 昨日まで当たり前だった風景が、これほど愛(いと)しく感じられるとは思わなかった。
「おい」という声に振り向くと、親方が立っていた。
「どうだ、楽しかったか」
 それを聞いた者たちが笑う。何か答えようとした留吉だったが、煤が喉に詰まっているのか、咳(せ)き込むだけだ。
「皆の後をついて浴場に行って体を洗え。そしたら飯が待っている」
 それだけ言うと、親方はトロッコに乗り込んだ。どうやら親方は一番方で、皆と同様の仕事をしているようだ。
 茫然とした顔で一番方を見送っていると、飯場の中から賄い方のおかみさんらしき人が顔を出し、「早く風呂に行きなよ」と言ってくれた。
 留吉は慌てて皆の後を追った。
 風呂に入った後は、いよいよ食事だ。盆を持って並んでいると、山盛りになった麦飯、味噌汁、そして晩酌代わりの焼酎が載せられた。
席に着いた留吉は空腹だったので、流し込むように飯を食べたが、飯には妙な臭みがあった。味噌汁も焼酎も独特の臭みがあり、とても飲めるものではない。飯と味噌汁だけは何とか腹に収めたが、焼酎を残すと、隣の男が「いただくよ」と言って飲み干してしまった。
 その後は大部屋で就寝となった。怪しげな人物もいたが、誰も留吉が大金を所持しているなどとは思わないのか、こちらをうかがう様子はない。それでも煎餅布団(せんべいぶとん)に潜り込むと、金の入ったズダ袋を抱くようにして眠った。
十日ほど経ち、思い余って親方に母の消息を尋ねたが、親方は首を振ると、「手掛かりは、まだないね」と言った。それで落胆していると、「もうすぐお偉いさんたちが見回りに来るので、そしたら聞いてやる」と答えた。しかしそれが、留吉を引き留める口実なのは明らかだ。
 働いた分の給料はまだもらっていないが、時間を無駄にするわけにはいかない。
 翌朝、坑内から飯場に戻った留吉は、留吉の焼酎に手を伸ばそうとする男を抑えるようにして焼酎を飲み干した。
「こいつは驚いた」
 飯も腹いっぱいに詰め込むと、皆が長屋に戻るのとは反対に広場に出た。そのまま何気ないふりをして外に出てみた。
「おい、待て」
 すると門衛の老人がボックスから出てきた。
「何ですか」
「どこに行く」
「出ていくんですよ」
 留吉が不貞腐(ふてくさ)れたように言ったので、門衛が少したじろいだ。
「そういうわけにはいかない。やめたければ親方に話をつけてからにしろ」
 留吉がポケットから一円札を取り出すと、門衛は跳び上がらんばかりに驚いた。
「これで見なかったことにして下さい」
「こんなに――。いいのか」
「はい。構いません」
「分かった。だがわしも仕事を失いたくないので、裏から出たことにしてくれ」
 捕まるつもりはないので表も裏もないのだが、留吉が笑ってうなずくと、老人は一円札を素早くしまった。
 それからは遠賀川沿いをてくてく歩いた。遠くから炭鉱のものらしいトラックが近づいてくると、物陰に身を隠した。
 そんなことを繰り返していると、行きに渡った橋に出た。そこを渡って元来た道を引き返すと、何とか折尾駅前にたどり着いた。すでに周囲は暗くなってきている。
 警察署や駐在所を探したが見つからない。腹も減っていたので、駅前の飯屋に入り、飯を食ってから場所を聞くことにした。
 久しぶりにまともな食事にありつけ、留吉は心底ほっとした。腹も落ち着いたので、飯屋の女将(おかみ)さんに駐在所の場所を聞くと、親切に教えてくれた。
「ありがとうございます」と答え、銭を置いて立ち上がろうとすると、女将さんが問うてきた。
「兄ちゃん、何か困っていることでもあるのかい」
 どうやら留吉が若すぎるので、心配してくれたらしい。
 ――そうか。こうした場所で相談した方がよいかもしれない。
「実は――」
 留吉が事情を説明する。
「なんだ、そういうことかい。こうした場所ではね、それぞれの出身地ごとに郷友会のようなものが自然にできているんだよ」
「郷友会、ですか」
「そう。互いに連絡を取り合って支え合う集まりさ。それを出身県や地域でやってるんだ」
「そうだったんですか」
 そんなことは全く知らなかったので、とんだ無駄足を踏んでしまったが、今からでも遅くはない。
「私の母は神奈川県出身です」
「ああ、関東か。そちらから来る人は少ないんで、関東で一緒くたになっているよ」
「では、関東者の郷友会はどこにあるんですか」
「この近くの堀川(ほりかわ)沿いに『くじら屋』という料理店があるんだけど、そこの大将が関東出身でね。関東から来る女たちの世話をしているよ」
 その場所を聞いた留吉は、何度も頭を下げながら飯屋を後にした。

 折尾駅近くの飯屋から少し歩くと、堀川という川に出た。そこには、川にせり出すように作られた居酒屋やあいまい宿が四十軒ばかり軒を連ねていた。
 ――あった。あれだ。
看板を見ながら歩いていくと、「くじら屋」と書かれた店があった。
勇を鼓して引き戸を開けると、「いらっしゃい!」という声が聞こえた。まだ早いのか、平日だからか、客は一人もおらず、カウンターの中に大将と思しき中年男性がいた。
「す、すいません。人を捜しているんです」
 客ではないと分かったからか、大将の顔に落胆の色が広がる。カウンターに座った留吉は、飯屋の女将さんからここを聞いたと告げた。
「申し訳ないので何か飲みます」
「そうかい」と答えつつ店主がサイダーの栓を抜くと、菊正宗と白字で書かれたコップと一緒に出してきた。
「飯はいいのかい」
「ええ――、いや、鯨の刺身をいただきます」
「そいつはよかった。今日はいいネタが入ったんだ」
 大将が手際よく刺身を皿に盛って出してくれた。腹はいっぱいだったが、無理して一切れつまむと留吉は言った。
「おいしいです」
「当たり前だ。兄さんは関東もんだね」
「はい。そうです」
「で、こんなところまで人捜しに来たということは、近親者か親しい人を捜してるんだな」
「はい。そうなんです」
 それを聞いて察したのか、大将が険しい顔が険しくなる。
「分かった。名前を言ってみな」
「鈴木八重と言います」
「鈴木――、鈴木八重、か」
 大将が記憶をまさぐるような顔をする。ここでは本名を名乗っていないだろうから、何らかの事情がない限り、さすがの大将でも、すぐには思い出せないのだろう。
「写真はこれです」
 留吉が市川貞一からもらった写真を見せたが、あまりに幼すぎるので、店主は一瞥(いちべつ)しただけで返してきた。
「心当たりはありませんか」
「ああ、ないね。いや、待てよ」
 大将の顔が険しいものに変わっていく。
「あんたは、その鈴木八重さんの何にあたるんだい」
「息子です」
 大将が瞑目(めいもく)する。嫌な予感が胸中に広がる。
「そうか。息子さんか」
 大将は包丁を置くと、仕込み作業を中断し、鉢巻を取って白髪(しらが)交じりの頭を拭いた。
「母の身に何かよくないことでも起こりましたか」
 少し逡巡(しゅんじゅん)した後、大将が思い切るように言った。
「いいか、気をしっかり持てよ」
「まさか、母は――」
「母さんはな、昨年の二月に肺炎をこじらせて亡くなった」
 その言葉に目の前が真っ暗になった。
 ――母さんは、もうこの世の人ではないのか。
 絶望が波のように押し寄せてくる。
「間違いないですね」 
「ああ、間違いない」
 大将によると、母は客からうつされた風邪をこじらせて寝ていたが、置屋の主人に働くことを促され、無理して働いていたところ、突然倒れ、急性肺炎で死去したという。
「まさか母が、そんな仕打ちを――」
 母の過酷な運命を知り、留吉は天を呪った。
 ――母さんが何をしたと言うんだ。どうしてこんな目に遭うんだ。
 だが嘆いたところで、もはやどうにもならないのだ。
 留吉の様子をじっと見ていた大将が、しんみりとした声音で言った。
「兄ちゃん、人生というのは辛いことだらけだ。しかし生きていればいいこともある」
「本当にそうでしょうか」
「ああ、だが選択を誤れば、人生は煉獄(れんごく)になる」
「母は選択などできませんでした」
 それだけで大将は、すべてを察したようだ。
「そうだったのか。自分で道を選べなかったんだな」
 ――母さんは何一つ自分で道を選べなかった。
 そんな母のことを思うと、不憫(ふびん)で仕方がない。
「兄ちゃん、人生は選択の連続だ。だが自分で選べないとなると、たいていは煉獄になる」
「つまり人生は、自分で道を選ばねばならないんですね」
「そうだ。自分で選択できれば、それが失敗したとしても悔いはない。若ければいくらでも取り返せる」
「母は何も選択できませんでした」
 母は運命の渦に巻き込まれ、こんな見ず知らずの土地で生涯を終えねばならなかった。
 それを思うと、口惜しくて地団駄(じだんだ)踏みたくなる。
「口惜しかったらな、兄ちゃんは自分で運命を選択できる人になるんだ」
 大将の目に真剣な色が宿る。
「いいかい兄ちゃん、この世はな、運命を選択できる者とできない者がいる。例えば、俺は曲がりなりにも店主だ。何を仕入れるかから、どんな料理を『おしながき』に並べるのかを選択できる。だが宮仕えのお役人や会社務めの月給取りは、偉くならない限り、上の者の選択した仕事をするだけだ。そんな人生、俺は真っ平だね」
「なるほど、自分で選択できる地位や仕事に就けばよいのですね」
「そうだ。それが、兄ちゃんの母さんが残してくれた教訓さ」
「ありがとうございます」
 留吉が席を立ちながら問うた。
「母の墓はどこにあるのですか」
「この近くに妙應(みょうおう)寺という法華宗(ほっけしゅう)のお寺さんがある。そこに無縁仏(むえんぼとけ)として葬られている」
「ありがとうございます」
 席を立ちながらお代を払おうとした留吉だったが、大将が首を左右に振るのを見て、もう一度礼を言って店を出た。
 その日は遅いので近くの宿に泊まり、翌朝、妙應寺に行き、無縁仏の墓の前で線香を上げた。念のため母の骨壺(こつつぼ)があるか寺に聞いたが、無縁仏の骨は皆一緒にしているので「ない」とのことだった。
 母を連れても帰れず、骨も持ち帰れなかったのは残念だったが、これで一区切りついた気がした。
 ――母さん、僕は自分で運命を選択できる人間になる。見ていて下さい。
 無縁仏の墓に向かって手を合わせてそう念じると、留吉はそこを後にした。
 ――人生は自分で選び取るのよ。
 母がそう言った気がした。

 帰宅するとどっと疲れが出た。炭鉱での十一日間の重労働がよほど堪(こた)えていたのだろう。だが世の中には、常人では堪えられないような労働環境で働かねばならない人たちがいると知っただけでも、よい経験だった。むろんそれは留吉の母にも言えることで、見知らぬ地で病いに倒れ、身寄りのいない心細さと死の恐怖と戦いながら逝ったのだ。どれほど辛かったか想像もつかない。留吉が自分のことは自分で決められる男になることだけが、今となっては母への供養になるのだ。
 帰宅して父の許に挨拶に赴き、九州での顚末(てんまつ)を話すと、父は「それは可哀想なことをしたな」と一言漏らしただけだった。それでも今回の資金を出してくれたのは父なのだ。残った金を返して礼を述べると、「お前も大人になったな」と言ってくれた。
 その後、復学も叶(かな)い、それから受験までの一年半、留吉は真面目に勉学に励んだ。その結果、大正十五年(一九二六)四月、晴れて早稲田大学商学部に入学することができた。親友の岩井壮司も同じ早稲田の法学部に入れたので、学部は違えど、二人は再び学友となった。
 その後、長兄の慶一は晴れて陸軍士官学校を卒業し、満州に出征することになった。突然その手紙をもらい、父の善四郎や母のいさは見送りに出向くという電報を打ったが、慶一からは「軍の行動なので困る」と釘を刺され、見送りを断念せざるを得なかった。
 次男の正治は大学卒業後、東京の建築関連の出版社に就職が決まり、江ノ島の家を出ていった。その後、何の連絡もないので、仕事は順調のようだった。
 長女の登紀子は何度か見合いをしたものの条件が折り合わず、まだ家にいた。
 この年は加藤高明(かとうたかあき)首相が在任中に病死し、若槻禮次郎(わかつきれいじろう)内閣が成立するなどの政局の混乱はあったものの、さしたる事件もなく終わろうとしていた。だが十二月、大正天皇が四十七歳という若さで薨去(こうきょ)され、摂政の裕仁親王が践祚(せんそ)することで昭和と改元された。つまり昭和元年はわずか七日で終わり、すぐに昭和二年がやってくることになる。

夢燈籠

Synopsisあらすじ

江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!

Profile著者紹介

1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。

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