夢燈籠第16回
五
その後、春子は何度か下宿にやってきたが、二人は挨拶を交わすだけの関係になっていた。春子の方は留吉に親しく話し掛けようとするのだが、留吉は機先を制するように「じゃ、また」と言って避けたので、春子も微妙な空気を感じたようだ。
留吉の様子が変わったことに春子は不満らしく、うらめしそうな視線を向けてきた。それを留吉は笑みを浮かべてやり過ごした。
留吉とて男だ。春子のように魅力的な女性に惹(ひ)かれるのは仕方がない。だが満州に渡るという大望がある限り、妻帯はできない。あちらに渡れば自分一人のことで精一杯になるはずで、妻のことなど顧みるゆとりはないからだ。
そんな十二月、大学から下宿に戻ると、部屋で待っていた男がいた。
「父さん、突然どうしたんですか」
「ああ、やっと帰ってきたか。先にいただいていたぞ」
善四郎は部屋に置いていた「白雪」の一升瓶を抱え、コップで飲んでいた。
「それは構いませんが、どうしたのです」
「陸軍省に行ってきた」
「慶一兄さんのことですね。新しい情報を得たのですか」
「うむ。本来なら機密事項だが、政治家の伝手を使ったので、大佐が出てきて教えてくれた」
善四郎は少し自慢げだった。
「それでどうしたのです」
「実はな、慶一は工兵として張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件にかかわっていたようだ」
「そ、それは本当ですか」
「ああ、間違いない」
善四郎が一息つくようにコップ酒を飲み干す。
「ということは、あの事件は日本軍の仕業(しわざ)だったのですか」
「しっ」と言って口の前に指を一本立てると、善四郎がうなずいた。
「どうやら陸軍の跳ね返りが勝手にやったようだ」
――あの話は事実だったのだ。
留吉は、樋口新平の話を思い出していた。
「ちょっと待って下さい。ということは、張作霖を殺したのは満州軍なのですね」
「厳密には、一部の将校が画策したことらしい」
「でも、爆殺事件と慶一兄さんが行方不明という事実がつながりません」
「跳ね返りたちの間で揉め事があったらしく、慶一は自分から姿を消したようだ」
「首謀者たちはどうしたのです」
「もう拘束されいているらしい。それで慶一のことが分かったのだ」
善四郎が肩を落とすと続けた。
「関東軍としても手を尽くして捜しているそうだが、あれだけ広い満州だ。どうしても見つからないようだ」
「でも、あの軍隊がよくそんな話をしてくれましたね」
軍隊は機密性が高い組織なので、外部の人間に極秘事項を伝えるのは珍しい。
「実は陸軍も困り果てていて、慶一からわしに何らかの連絡が入ったら、知らせてくれとのことだ」
「そういうことですか」
こうした場合、逃亡者が自らの無事を家族に伝えるのは、十分に考えられる。
「いずれにしても、逃亡とは不名誉なことだ」
「名誉、不名誉などどうでもよいことです。で、このことを正治兄さんには伝えたのですか」
「伝えようとして、あいつの会社に行ったのだが、悪性の流感を患ったらしく入院している」
「流感ですか」
「そうだ。入院しているという病院にも回ったのだが、流感なので面会できなかった。それで手紙を置いてきた」
また心配事が増えたが、流感ならいつかは治癒(ちゆ)するので、ひとまず安心だ。
「で、どうしますか」
「わしは満州に行く」
一升瓶を抱え、善四郎が嗚咽(おえつ)を漏らす。
――父さんも衰えたな。
これまで息子たちに一切弱音を吐かなかった善四郎が、酒に酔ったとはいえ、こんな一面を見せるとは思わなかった。
――それほど慶一兄さんを頼りにしていたのだ。
「父さんの気持ちはよく分かります。でも父さんはお年です」
留吉は善四郎が四十二歳の時の息子なので、留吉は今年六十三歳になる。すでに頭髪は白い方が多くなり、顔にも深く皺(しわ)が刻まれている。
「それは分かっている。だが慶一に何もしてやれん自分が情けないのだ」
「では――」
留吉が思い切るように言う。
「私が行きます」
「もうすぐ卒業なのに学業を放り出してか」
「はい。試験も終わり、単位は取れているので、これで大学に行かなくても卒業証書はいただけます」
「しかし何の資格もなく満州に行けば、慶一から連絡があったと関東軍に疑われ、拘束されるぞ」
――その通りだ。
軍部の前では、民間人は無力に等しい。それどころか、このような重大事件に身内が関与しているのだ。人権なども無視されて厳しい尋問を受け、捜索活動など覚束(おぼつか)ないだろう。
「では、どうしたらよいのです」
「そうだな」と言いつつ、善四郎がコップ酒をあおる。
「父さん、少し過ぎています」
「分かっている。もうやめる」
そう言いながらも、善四郎は一升瓶を抱えたままだ。
「私にも下さい」
飲みたくはないが、そう言って留吉は善四郎から一升瓶とコップを取り上げた。
「お前は新聞記者になりたいと言っていたな」
「はい。絶対になりたいというわけではありませんが」
「新聞記者なら軍部も多少遠慮する」
――その手があったか。
善四郎の言う通り、大正デモクラシー以降、いかに軍部でも言論の自由は尊重するようになっていた。軍部批判の急先鋒の大隈重信(おおくましげのぶ)は、今でも政界に隠然たる影響力を持っており、双方の微妙な均衡の上で、日本の民主主義はかろうじて保たれていた。
「もう新聞社の試験は受けたのか」
「年が明けたら、いくつかの大手新聞社に履歴書を郵送しようと思っています」
この頃の就職活動にはルールもなく、各自が自由に活動していた。
「そんなことで入れるわけがあるまい」
「何事もやってみなければ分かりません」
「伝手がなければ、大人の世界では通用しない」
「やはりそうなのですか」
何事も伝手で決まるのが、大人の世界なのだ。
「わしに任せてくれんか」
「父さんの顔を利かせるのですか」
「ああ、こんな時のために政治家に金を使ってきたんだ」
父の伝手を使うのは本意ではないが、この際だから仕方がない。
「分かりました。すぐに満州特派員にしてもらえますか」
「いや、そんなことをせずとも満州日報に潜り込んでしまえばよい」
満州日報とは、明治四十年(一九〇七)に大連(だいれん)で創刊された日本語新聞のことだ。当初は満州日日新聞という名だったが、今は満州日報という名に改められていた。
「その手がありましたね。でも満州日報の本社は大連でしょう。どうやって採用してもらうのですか」
「東京には支社がある。支社長の友人の政治家が、うちの常連になっている」
こうした時の善四郎の人脈は半端ではない。客となった政治家や商人たちの伝手を手繰り寄せ、何とかしてしまうのだ。
「恐れ入りました。すべてお任せします」
それで話は決まった。
「留吉、あちらに渡ったら気をつけるんだぞ」
「私のことも心配していただけるので」
留吉は皮肉を言ってみた。
「馬鹿を言うな。お前も大切な息子の一人だ」
「ありがとうございます。でも私が満州に渡って新聞記者になったら、家業を継げませんよ」
「そのことか」
善四郎がにやりとする。
「家業は、わしが隠居する時に手じまいするさ。そうすれば、まとまった老後資金も手にできるしな」
どうやら善四郎も廃業の覚悟を決めたようだ。おそらく慶一が軍隊に入った時、決心したのだろう。
「申し訳ありません」
「何もお前が謝ることはない。お前はお前の道を行け」
「ありがとうございます」
この時から、留吉は善四郎を少し見直す気になった。
Synopsisあらすじ
江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!
Profile著者紹介
1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。
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