夢燈籠 狼を野に放て第54回

 留吉がの新聞事業は軌道に乗り始めていた。ところが意外なことに、従来の売り物だったスキャンダルを芸能人にまで広げることで人気に火がつき、さらに工事などによる道路の渋滞情報などの交通情報も重宝がられた。
 こうした仮説検証を繰り返すことで、『萬朝報』はじわじわと部数を伸ばし始めていた。
『萬朝報』は大手のできない隙間の情報を集めて発信することで、中小新聞の付加価値を高めていった。すぐに追随しようとする新聞も現れたが、ベテラン記者たちはあらゆる場所にコネを築いており、情報収集の迅速さと情報の詳しさで、他はなかなか追いつけない。
 また留吉はクイズやパズルの導入によって読者を引き付け、さらに読者アンケートで記事の人気度を測ることで、契約記者たちに報奨金を支払う制度を導入したため、記者たちは競うように情報を集めてきた。もちろんそれにつれて広告収入も増え、地域特化しているため、新規開店の飲食店などからも広告の依頼が来るようになった。
 こうした地道な努力の結果、読者は五万から十万に、さらに二十万に向かって激増していた。
 留吉は意外な自分の才能に驚いていた。なぜか分からないが、湯水のように次々とアイデアが浮かんでくるのだ。

 そんな多忙な日々が続き、生活も安定したので、昭和三十八年(一九六三)初頭、いよいよ横田と手を切るべく、留吉は横田産業を訪れた。
 横田は笑顔で迎えてくれた。
「そうか。君もこれで一本立ちか。よかった、よかった」
 横田が上機嫌で握手を求めてきたので、留吉も一瞬、横田という人間を見直す気になったが、次の一言で、それが間違いだと気づいた。
「一つ相談なんだがね。最後にひと働きしてほしいんだ」
「ひと働きって、私がですか」
「そうだよ。君にしかできない仕事だ」
「残念ですが、今そんな余裕はありません」
「そんなこと言わないでくれよ。君の人脈が必要なんだ」
 留吉は天を仰ぎたい心境だった。
「私はもう社外の人間です。ここ二年ほど、横田産業の仕事もしていません。今更、人脈を生かしてくれと言われても――」
「そこを何とか頼む。お互い持ちつ持たれつの仲だったじゃないか」
 ――確かに、俺は横田のおかげで世に出られたんだ。
 この場合の「世に出る」とは、多くの著名人と知り合えたという意味になる。それが今の仕事に生かされていると言っても過言ではない。
「では、話を聞くだけでよろしければ」
「もちろんだよ。話を聞いてから決めてくれればよい」
 とは言うものの、話を聞いてしまえば、仕事を引き受けることになる。
 ――仕方ない。これも乗り掛かった船だ。
 幸いにして、「萬朝報」は順調なので、当面は記者や社員に任せていられる。その間に、横田への最後のご奉公をすることは不可能ではない。
「まずは、これを見てくれ」
 横田が得意げに出してきたのは、どこかのホテルのパンフレットだった。そこには富士屋ホテルと書かれていた。
「これは、箱根の富士屋ホテルのパンフレットだ」
 富士屋ホテルは箱根の宮ノ下にある高級リゾートホテルで、東京の帝国ホテルと並び称されるほどの名門だ。開業当初は外国人を対象とした本格的リゾートホテルとして、外国人の占める割合が大きかったが、今は日本人富裕層の利用が多くなっている。
「あの有名なホテルですね」
「そうだ。実は、随分と前のことだが、このホテルのオーナー一族の山口孝(こう)という女性から、転売目的で藤沢の別荘を買ったことがある。その時、富士屋ホテルの内紛を聞いたのだが、それが本格化してきたらしい」
 横田によると、富士屋ホテルの創業者・山口仙之助には四人の子供がいた。長女の孝の夫がホテルを経営していたが亡くなり、その跡を次女の貞子の夫の賢吉が引き継いだ。しかし今度は、その貞子が亡くなってしまう。その後、賢吉は後妻をもらい、今は後妻と共に富士屋ホテルを経営しているという。その後妻は「宮ノ下の宋美齢(蒋介石夫人)」の異名を取るほどのやり手で、富士屋ホテルの売り上げは右肩上がりだという。
「それで孝さんは乗っ取られたと口惜しがってね。経営権を山口家に取り戻したいと言うんだ」
「しかし本を正せば、賢吉さんが社長だったわけですよね。その賢吉さんが後妻をもらうのは法律に反していないし、後妻が経営に関与してホテルが発展すれば、それに越したことはないでしょう」
 経営にタッチしなくても、創業者一族は株式配当などで利益を得られるので、文句は出ないはずだ。
「とは言うものの、創業者の遺族としては、ホテルは自分のものという意識があるんだよ」
「待って下さい。それでは商法も会社法もありません」
「だから、私を頼りにして来たんだ」
「つまり、横田さんが買収するというのですね」
 横田が得意満面で胸を張る。
「そうだ。私が社長をやり、役員として孝さんはじめ一族を入れるという条件だ」
「それで、富士屋ホテルの総資産はいくらくらいになるのですか」
 横田が言うには、富士屋ホテル本体が五十四億円、仙台ゴルフコースが六十億円、富士ビューホテルが十二億五千万円、その他もろもろを合わせると、百六十億円を下らないという。
「その買い占め工作を君にやってもらいたいんだ」
「しかし正義は賢吉さんの方にあります」
「いや、正義などというものは世間が作るものだ。商法だか会社法上の正義はなくとも、世間は創業者一族に同情する。つまり正義は、こちらにあるんだ」
 どう考えても横田特有の強引な論理だったが、反論したところで聞く耳を持たないだろう。
「お断りします」
「まあ、待てよ。賢吉夫婦が、山口一族を役員から外したと言ったらどうする」
「それは本当ですか」
「本当だ。現在の富士屋ホテルの役員には、山口一族は一人もいない」
 賢吉夫婦は役員会で多数派工作に成功し、山口一族を追い出したのだろう。
「だとしたら、それは正義ではありませんが――」
 だからと言って、賢吉夫婦が法律に反しているわけではない。
「どうだ。一肌脱いでもらえないか」
「つまり秘密裏に株を買い集めるのですね」
「そういうことだ。君には、そのノウハウがある」
 確かに誠実をモットーとする留吉の説得に、これまで応じてくれた株主は限りない。
「しかも君の新聞にも、逐一経緯を報道できるじゃないか。部数を伸ばす上で、これは強力なスキャンダルだと思うがね」
 横田は留吉の弱みを的確に突いてきた。
「分かりました。株を買い集めることまではしましょう。その後のことは関与しません」
「それで結構」
 横田が手を伸ばしてきたので、それを握ると、力強く握り返された。

夢燈籠 狼を野に放て

Synopsisあらすじ

戦争が終わり、命からがら大陸からの引揚船に乗船した坂田留吉。しかし、焦土と化した日本に戻ってみると、戦後の混乱で親しい人々の安否もわからない。ひとり途方に暮れる留吉の前に現れたのは、あの男だった――。明治から平成へと駆け抜けた男の一代記「夢燈籠」。戦後復興、そして高度成長の日本を舞台に第2部スタート!

Profile著者紹介

1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学卒業。『黒南風の海――加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で第1回本屋が選ぶ時代小説大賞を、『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞と第1回高校生直木賞を、『峠越え』で第20回中山義秀文学賞を、『義烈千秋 天狗党西へ』で第2回歴史時代作家クラブ賞(作品賞)を受賞。

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