夢燈籠 狼を野に放て第6回
六
京都支店に戻り、福井製糸工業の首尾を横田に電話で報告すると、横田は大喜びし、「やはり兄貴は、ビジネスマンの才能がある」と言って自分の見る目を自画自賛した。
留吉もまんざらでもなかった。横田が褒め上手なのは分かっているが、最初の取引がうまくいき、自分でもそう思っているところで、褒められたので有頂天になった。横田からは、「兄貴と私が組めば、日本の産業界を席巻できますよ」とまで言われた。
留吉が横田からもらったリストに従い、次のターゲットを絞っていると、電話が鳴った。
「はい、横田産業です」
電話番の女性事務員が明るく返事をしたが、その受け答えが次第に険しいものになり、留吉の方に目配せするようになった。
その様子からクレームだと察した留吉は、顔の前で手を左右に振った。こうした場合、何も考えずに電話口に出ると、相手に交渉の主導権を渡してしまいかねない。それゆえ内容を吟味してから電話をかけ直すのが基本だ。
「今、坂田支店長は不在です。戻りましたら、すぐに電話させます」
女性事務員がそう答えた後でも、電話の相手はしつこく何か言っているようだ。それでも女性事務員は「支店長が不在なので分かりません」と押し通して電話を切った。
「機転を利かせてくれてありがとう。で、相手は――」
「福井製糸工業の総務部長の額田さんと仰せでした」
「今日は月末だったね」
「は、はい」
今日は昭和二十二年の十一月末日だ。嫌な予感が走る。
「で、何だって」
「午前中に事務員さんが銀行に行ったらしいのですが、振り込みがなかったそうです」
「横田産業の本社からの振り込みか」
「私には分かりませんが、そういうことでは」
留吉の左手は瞬間的に電話に手を伸ばしていた。
「もしもし、あっ、総務部ですか。京都支店の坂田です。経理担当をお願いします」
しばらくして、経理課長が電話口に出た。
「確認ですが、福井製糸工業への二万円の振り込みがなされていないようですが、今日の午後にはなさいますよね」
「えっ」と言って、経理課長が言葉に詰まる。それで察した留吉は、「社長を出して下さい」と言った。
「社長は――、今、外に出ています」
「それは本当ですか」
自分が居留守を使ったばかりなので、気配だけで横田も居留守だろうとすぐに分かる。
「ええ、今は社内にいません」
経理課長の自信なさそうな口調から、それが嘘だと分かる。
「いいですか。もう一度、確認します。福井製糸への二万円の振り込みは、今日の午後に行われますね」
「いえ、その予定はありません」
「どういうことですか」
留吉の口調が厳しいものに変わる。
「私には分かりません」
「何を言っているんですか。あなたは経理課長ですよ。つまり横田産業の信用を担っている立場だ。それが分からないでは、企業として成り立ちません」
受話器を押さえ、経理課長が誰かと話し合っている気配がした。
――横田だ。
経理課長の受話器の送話口の押さえ方が甘いので、一瞬だけ横田のものらしい甲高い声が漏れ聞こえてきた。
「もしもし、返事をして下さい」
「はい、今調べさせています」
「横田産業の取引先は限られています。調べなくても分かるはずです」
「ああ、はい」
経理課長は困り果てているようだ。
「あなたでは埒が明かない。社長と電話を替わって下さい」
またしても受話器の送話口が手で閉じられる気配が伝わってきた。
――さっさと替われ。
留吉は苛立ってきた。
「もしもし、横田です。今帰りました」
――見え透いた嘘を。
それでも留吉は、横田の立場を尊重して慎重に言葉を選んだ。
「社長、福井製糸への二万円の振り込みは、今日の午後に行われますね」
留吉は「もちろんです」という言葉を期待したが、案に相違して横田はとんでもないことを言った。
「それが難しいんですよ」
「難しいって、どういうことです」
「うちも資金繰りが苦しいんでね」
――そんなわけあるまい。
横田産業には、潤沢な現金資金があるはずだ。
「待って下さい。それでは福井製糸が困ります」
「とは言っても、ない袖は振れないのですよ」
横田の思惑が見えてきた。
「社長、まさか福井製糸さんとの約束を破るつもりですか」
「いやいや、そんなつもりはないですよ」
「では、大丈夫ですね」
「うーん」と言って横田が黙り込む。
「社長、うちには十分な現金資金があるはずだ。そのうちの二万円くらい何とかなるでしょう」
「とは言ってもね。会社の資金繰りはたいへんなんですよ。何とか福井製糸さんに、支払いを一カ月先延ばししてもらえないですか」
「それでは、福井製糸が手形を落とせず倒産します」
「坂田支店長」
横田の声が厳しいものに変わる。それは、これまで聞いたことのないものだった。
「福井製糸さんの財務状況は調べ上げています。今月は入金がなくても、落とさねばならない手形がないので倒産はしません」
「ちょっと待って下さい。それでは約束が――」
「分かっています。ビジネスというのは約束が最も大切です。しかし苦しい時はお互い様です」
「何を言っているんだ。それでは福井製糸が困るだろう!」
つい声を荒らげてしまったが、横田は冷静なままだ。
「いいですか。二万円の支払いを一カ月延ばせれば、金利は七百円ほど浮きます」
「いや、そういう問題ではないでしょう」
「ビジネスは相手の足元を見るものです。もうあの会社は青息吐息だ。おそらく来年には倒産するでしょう。そんな相手に情けをかけても仕方ありません」
「待ってくれ。約束したのは私だ。私の信用はどうする」
横田があきれたような口調で言った。
「坂田さん、謝りに行くのもビジネスの修業です。しっかりお願いします」
それで電話は切られた。
Synopsisあらすじ
戦争が終わり、命からがら大陸からの引揚船に乗船した坂田留吉。しかし、焦土と化した日本に戻ってみると、戦後の混乱で親しい人々の安否もわからない。ひとり途方に暮れる留吉の前に現れたのは、あの男だった――。明治から平成へと駆け抜けた男の一代記「夢燈籠」。戦後復興、そして高度成長の日本を舞台に第2部スタート!
Profile著者紹介
1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学卒業。『黒南風の海――加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で第1回本屋が選ぶ時代小説大賞を、『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞と第1回高校生直木賞を、『峠越え』で第20回中山義秀文学賞を、『義烈千秋 天狗党西へ』で第2回歴史時代作家クラブ賞(作品賞)を受賞。
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