夢燈籠 狼を野に放て第21回

 役員たちが金策に奔走したことで、何とか借り換えに成功した横田は、難局を乗り越えて次なる一手を打とうとしていた。
 十月三日の早朝、いつものように蝶ネクタイにタキシード姿の横田は留吉を従え、銀座にある鈴木ビルの前に立っていた。
「いよいよ勝負の時だ」
 横田は独り言のようにそう言うと、自ら鈴木ビルのドアを開けた。
 社長室のある最上階で、鈴木一弘は横田の来訪を待っていた。
「ご無沙汰しました」「お久しぶりです」と挨拶を交わしながら、二人は抱擁せんばかりに握手した。こうした財界人の大袈裟な親密ぶりに留吉も慣れてきていたが、横田と鈴木は本当に親密のように見えた。というのも鈴木は、横田の生まれた村から五キロメートルしか離れていない町で生まれ育ったからだ。これまでも二人は愛知県人会で何度も会っており、肝胆相照らす仲のようだ。
 鈴木は横田より四つ年下の三十七歳。戦争中は鉄鋼製品を買い集め、戦争の好景気に乗じて軍需省に入り込み、巨万の富を築いた。敗戦となれば、鈴木は金貸しに転じ、次々に金融業者を買収してきた。
 お茶が運ばれてくると、二人は音を立ててすすりながら故郷の話に花を咲かせた。その後、ようやく横田は留吉を紹介してくれた。
「さて、いよいよ鈴木さんを頼るべき時が来ました」
「ははは、やはりあの件ですか」
「はい。お察しの通りです」
 横田の白木屋買収の話は、新聞や週刊誌で頻繁に報道されていたので、知らない者はいないくらいだ。
「鈴木さん、同郷のよしみで力を貸してほしいのです」
「とにかく話を聞きましょう」
 横田がここまでの経緯を話す。
「なるほどね。さすがの横田英樹も白木屋の経営陣にしてやられたわけですか」
「そういうことになります。奴らは財界人どうしで暗黙裡に手を握り、新興勢力を弾き出そうとしています」
「それは私も感じます。私も企業を買収しようとする度に、どこからか圧力が掛かり、断念させられることがしばしばありました。経営陣を一掃し、企業を再生させることは、社員のためにも株主のためにもなることですが、守旧勢力はそんなことは歯牙にも掛けず、自分たちの小さな社会を守ろうとしています」
「その通りです。鈴木さん、一緒にやりませんか」
 鈴木が感慨深そうに言う。
「横田さんにそう言っていただけるなんて光栄です。私は横田さんの背中を見て、ここまで来ました。そんな先輩と手を組めるなんて夢のようです」
「では、わが陣営の一員として――」
「待って下さい」
「何を待つんですか」
「私も多くの債権者のお金を預かっています。それは、厳密には私の金ではありません。ですから安易に『やりましょう』とは言えないんです」
 徒手空拳で成り上がったとはいえ、横田と違って鈴木は金融業を営んでいる。つまり背後には、フィクサーとは行かないまでも、金主のような人物がいるのだろう。
「即答できませんか」
「はい。一週間待って下さい。私なりに勝てる勝負になるかどうか検討します」
 それは金主への相談も含まれているのだろう。
「それで結構です。一週間後の十月十日、またここに来ます」
「分かりました。体育の日ですが事務所は開けています」
 当時、十月十日は祝日だった。
 
 それから一週間後、横田と留吉が鈴木の事務所を訪れると、鈴木は満面に笑みを浮かべ、「横田さん、一緒にやりましょう」と言った。
 横田は小躍りせんばかりに喜び、その足で鈴木と留吉を従え、銀座の某クラブに繰り出した。
 鈴木はまず頭を下げた。
「即答できず申し訳ありませんでした」
「いやいや、必ずや前向きな答えがもらえると信じていましたよ」
 華やかな衣装に包まれたホステスに囲まれ、横田はオレンジジュースをうまそうに飲んでいる。
 鈴木もビールを掲げて飲み干した。
「私は考えたのです。これまで地面を這いずるようにして貯め込んできた金です。最初は、それをすべて賭場に張るのはどうかと思ったのです。しかし男たる者、どこかで勝負しなければなりません。今が勝負の時だと気づいたのです」
「立派な覚悟です。鈴木さん、勝ちましょう」
 二人がそんな話をしていると、ママらしき人物が「いったい何の話よ」と聞いてきた。
 鈴木が口ごもっていると、横田が「君は僕を知らないのかい」と言って、自分の顔を指差した。するとホステスの一人が「今話題の横田英樹さんですね!」と答えた。
「そうだよ。僕が横田英樹だ」
 ママが驚いたような顔で言う。
「ということは、白木屋買収の件ですね」
「その通り。この戦いに鈴木君も参加してくれることになった」
「まあ、凄い!」
 ホステスたちが鈴木を褒めたたえる。
「そうだ。せっかくなので君たちに質問だ。君たちが日本橋に買い物に行く時、白木屋と三越のどちらに立ち寄る」
 するとホステスの一人が答えた。
「たいていは三越ね。品ぞろえもいいし、店員さんたちも丁寧に説明してくれるし」
「白木屋はだめかね」
「そうね。値段が高い商品ばかりで、ほしいものがない上、店員さんたちがお高く留まっているのよ」
 その言葉に、ほかのホステスたちも「そうね」と言って同意する。
 ――やはりそうだったか。こうした人たちの声は常に正しい。
 留吉にも小売業のビジネスが分かってきた。
 するとママが言った。
「私は横田さんを断然応援するわ。というのもね、一ヶ月ほど前に鏡山さんがいらしたの」
 その言葉に横田の顔色が変わる。
「この店にかい」
「そうよ。その時のあの方の威張りくさった態度ったらなかったわ。私たちが白木屋のことで、『ああした方がよい。こうした方がよい』と言うと、『お前たちホステス風情に何が分かる』だって。さすがに温厚な私も頭に来たわ」
「ぜんぜん温厚じゃないのに」と言って、ホステスたちが盛り上がる。
 ――ホステスだって立派な客だ。そんな考え方では、大衆のためのデパート経営などできない。
 留吉は、鏡山が思っていた以上に腐っていることに気づいた。
 ママが再び言う。
「鏡山さんは、横田さんの悪口を言っていたわ。でも一緒に来た方は、笑っているだけで悪口に乗らなかった。あの人は立派な紳士ね」
「へえー、それは誰だね」
 その時、ホステスの一人が「私が名刺をもらっているわ」と言って、バッグから名刺を取り出した。
「この方です。えーと、千葉銀行頭取の古荘四郎彦と書いてあるわ」
 ――何だって!
 横田の顔色が変わる。
「それを見せろ!」
 奪うようにして取り上げた名刺をまじまじと見た後、横田が留吉に回してきた。
 ――間違いない。われわれはしてやられたのだ!
 胸底から怒りが込み上げてきた。
「鈴木君、話は明日する。私は事務所に戻る。坂田君は岩井君を呼び出してくれ」
「しかし時間が時間ですから」
「時間など関係ない!」
 そう言うと、横田は啞然とする鈴木やホステスたちを尻目に席を立った。
 後に続こうとする留吉を、鈴木が追ってきた。
「どうしたんですか」
「明日、あらためて電話します」
 そう言い残すと、留吉は店の電話を借りて、岩井を叩き起こした。

夢燈籠 狼を野に放て

Synopsisあらすじ

戦争が終わり、命からがら大陸からの引揚船に乗船した坂田留吉。しかし、焦土と化した日本に戻ってみると、戦後の混乱で親しい人々の安否もわからない。ひとり途方に暮れる留吉の前に現れたのは、あの男だった――。明治から平成へと駆け抜けた男の一代記「夢燈籠」。戦後復興、そして高度成長の日本を舞台に第2部スタート!

Profile著者紹介

1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学卒業。『黒南風の海――加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で第1回本屋が選ぶ時代小説大賞を、『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞と第1回高校生直木賞を、『峠越え』で第20回中山義秀文学賞を、『義烈千秋 天狗党西へ』で第2回歴史時代作家クラブ賞(作品賞)を受賞。

Newest issue最新話

Backnumberバックナンバー