夢燈籠 狼を野に放て第9回

 横田が岩井を弁護士として雇うことに同意したので、留吉は岩井と共に京都支店に赴くと、生糸・紡績業の店じまいに奔走した。横田産業所有の福井県の工場も、すぐに買い手が見つかった。大手が直接買わずとも、その下請けのような地場企業が買い取ってくれたからだ。
 売価についても、相場なら横田は文句を言わなかったので、とんとん拍子で話が進んだ。
おそらく横田としては買い手と価格交渉している時間が惜しく、早急に現金を手にして新たな不動産を購入したいのだろう。
 案に相違せず、横田は東京、伊豆、軽井沢などの不動産を新たに購入し、また以前に購入していたものでも売却するものがあった。
横田に言わせると、「どの物件も値上がりするのは分かっているのですが、地域によって値上がり率に差があるので、それを見極めて売買しています」とのことだった。つまり軽井沢の値上がり率が高いと見れば、低い地域の物件を売って、軽井沢の土地を購入しようというのだ。
 
「いやー、よかった、よかった」
 昭和二十四年の年末、八重洲のキャバレー「三松」で、留吉と岩井を従えた横田は上機嫌だった。
 ダンスフロアでのショーが終わって静かになると、バンドがムード音楽を演奏し始めた。何組かの客とホステスが手を取り合ってチークダンスを始めたが、横田はダンスが苦手なので、そのままオレンジジュースを飲み続けている。
「岩井さんと出会えてよかった。しかもこれだけ有能な方が、坂田さんの学校時代の友人だとは驚きだ」
「ええ、まあ――」
 岩井が恐縮する。今回の売却は岩井の功績というより、時宜を得ていたからというのが正直なところだ。それでも留吉と絶妙の呼吸で事務作業を進めてくれたおかげで、横田の許に現金が瞬く間に集積されていったのも事実だった。
「商売というのはタイミングです」
 横田が得意満面で続ける。
「私も、生糸・紡績産業を続けるかどうか迷いに迷いました。こうした手堅い事業をやっていることで、横田産業の信用が増します。しかし人生は勝負です」
 横田が遠い目をする。
「私は愛知の田舎で次男として生まれました。祖父は機屋(はたや)をやっていました。家の前の紡績工場の下請けでね。母はその工場で働く女工でした。父はそれを見そめて一緒になり、兄と私が生まれました。そんなことから生糸や紡績には、人一倍強い思いがあります」
 横田は家の前の大きな工場を仰ぎ見ながら育ったという。今にして考えれば、たいした大きさではなかったのだろう。だが小さな子供にとって、その工場と機織機一つの実家を比べると、雲泥の差に見えたのだろう。少年横井は伯母に、「今に、ああいうでかい工場を建ててみせるで」と繰り返し言っていたという。
そうしたことから生糸や紡績に多少詳しくなった横田は、メリヤス問屋の渡辺商店で丁稚奉公を始めた。そして商売のコツを摑み、十七歳で横田商店を開業し、割烹着、軍手、ズロースなどの卸と小売りを始めた。
「横田さんも、いろいろたいへんだったんですね」
 岩井が感慨深そうに言う。岩井は留吉の前では態度が大きいが、横田や三島のような一廉の人物を前にすると、とたんに小さくなる。
「まあね。人は生まれによって左右されます。何と不平等なことかと何度も嘆きました」
 酒の飲めない横田は、ジュースとお茶ばかり飲んでいる。この頃は、後に爆発的な人気を博するバヤリースのオレンジジュースが日本に上陸する前で、横田が贔屓にする店では、米軍が兵士たちのビタミンC補給のために送られてくる冷凍濃縮オレンジジュースの横流し品を手に入れるために躍起になっていた。留吉も勧められるままに飲んだことがあるが、砂糖が過剰に入っているためか、喉に甘みが残り、とても飲めたものではなかった。
「だからこそ、私は成り上がりたかった。まだ道半ばですが、既存の権力構造に一矢報いたいのです」
 岩井が問う。
「既存の権力構造とは何ですか」
「生まれがよいだけで、その基盤の上に胡坐をかいている旧勢力、つまり財界の連中です。あいつらは無能でも、親の財産を受け継ぎ、同類と助け合い、新たな力の台頭を妨げています」
「つまり門閥や学閥で助け合い、成り上がり物を叩いているというのですね」
「そうです。かの大戦で財閥は解体されました。それにより日本では、万民平等の世が実現したように見えます。ところが見えない階級の壁はそこら中にあり、寄ってたかって新興勢力を叩こうとしています」
 横田は、よほど旧勢力なるものに痛い目に遭ってきたのだろう。その言葉に熱が籠もる。
「だから私は、そんな世の中を終わりにしたいのです」
「革命家のようですね」
「そうです。私はビジネス界の革命家なのです」
 横田が胸を張ると、岩井が追従を言った。
「立派なものです」
「よし、今夜は真面目な話にしましょう。河岸を変えて飲みましょう」
 河岸を変えるとは、飲む場所を変えることを言う。
 横田は立ち上がると勘定場に行き、「横田産業でつけておいてくれ」とだけ言い残して外に出た。
 そして三人はタクシーを拾い、横田がよく行くというバーに向かった。

夢燈籠 狼を野に放て

Synopsisあらすじ

戦争が終わり、命からがら大陸からの引揚船に乗船した坂田留吉。しかし、焦土と化した日本に戻ってみると、戦後の混乱で親しい人々の安否もわからない。ひとり途方に暮れる留吉の前に現れたのは、あの男だった――。明治から平成へと駆け抜けた男の一代記「夢燈籠」。戦後復興、そして高度成長の日本を舞台に第2部スタート!

Profile著者紹介

1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学卒業。『黒南風の海――加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で第1回本屋が選ぶ時代小説大賞を、『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞と第1回高校生直木賞を、『峠越え』で第20回中山義秀文学賞を、『義烈千秋 天狗党西へ』で第2回歴史時代作家クラブ賞(作品賞)を受賞。

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