夢燈籠 狼を野に放て第4回
四
その後、横田が「歓迎会をやりましょう」と言い出し、夜になってから二人で銀座に繰り出すことになった。
横田の仕事が終わるのを待つのも兼ねて、留吉は番頭役のような老人から、繊維ビジネスの要諦についてレクチャーを受けた。だが老人は、ぶらりとやってきて京都支店長に収まった留吉に反感を抱いているらしく、ぞんざいな態度で接した。そんなことを気にする留吉ではないが、外地からの帰国者に対する世間の厳しさを早くも味わった気がした。そのため老人には礼を言って、繊維ビジネスをイロハから理解できる本がないか尋ねると、老人は喜んで一冊の本を持ってきてくれた。
八時頃、ようやく横田の仕事が終わり、二人は円タクで銀座に向かった。
「楽しい店がある」と言って横田が入ったのは、松屋銀座店地下の「オアシス・オブ・ギンザ」という店だ。ここは当初、進駐軍向けのグランド・キャバレーだったが、今は日本人客の方が多くなっている。この店は、常時百人超のホステスが控えているグランドキャバレーと呼ばれる大型店で、生バンドの演奏や歌と踊りのショータイムがあった。
いまだに食うや食わずで街を徘徊する浮浪児がいるにもかかわらず、そこは別世界だった。
さすがの留吉も、久しぶりに羽を伸ばすことができた。横田はダンスフロアでホステスとダンスを踊るまでした。
その後、二人は裏町のバーに入った。裏町と言っても、かつて横田が連れていってくれた「Bar野良猫」とは雲泥の差で、オーク材の香りが漂う内装と老紳士を思わせるバーテンが一人だけいるセンスのよい店だ。
「あのバーには、もう行っていないのかい」
「『黒猫』ですか。ああいうところは、もう卒業しました」
「そうか。あの女性はまだ店にいるんだろうか」
「いやー、どうなんですかね」
かつて「自分の女だ」と自慢していたにもかかわらず、横田は全く関心がないようだった。
「マスター、オレンジジュース。坂田さんは――」
「バーボンのダブルで」
「さすが大連仕込みですな」
「君は、いまだに酒は飲めないのかい」
「いや、飲まないんですよ」
「では、飲めるんだね」
「実は飲めるんですがね」
横田によると、実父が酒乱で、金があれば飲んでいたことから、子供心に酒だけは慎もうと思ったという。
「そうだったのか。君も子供の頃はたいへんだったんだね」
「ええ、貧しくて食べていくのがやっとでした。だから世間を見返してやりたいんですよ」
「おいおい、それが君の情熱の源泉なのかい」
「いや」と言って一瞬黙り、オレンジジュースを飲み干すと、横田は「コーラを頼む」とバーテンダーに言った。
「もちろん私は事業を成功させ、多くの社員を幸せにしたいのです。戦前の財閥もGHQによって解体され、今なら会社を大きくできるチャンスです。いばりくさった旧態依然とした連中の鼻を明かしてやりたいんです」
「その気持ちは分かるが、何事も焦ってはいかん。戦争ですべてを失ったとはいえ、戦前の支配階級は、いまだ隠然たる勢力を保持している。GHQによる一時の厳格な取り締まりも次第に緩むはずだ。その時は、旧態依然とした連中と妥協しながら事業を進めねばならないぞ」
「さすがです。あなたは私が見込んだ通りの人です」
「偉そうなことを言ってしまったな。俺なんか、まだ何がやりたいのかさえ見えていないんだ」
「だがらこそ、私と事業をやりましょう」
バーボンを一口飲むと、熱いものが喉から胃の腑に落ちていった。
「分かった。当面は手を組もう。だがな、人というのは星の軌道と同じだ」
「星の軌道、ですか」
「そうだ。天文学を学ばなかったのか。星は近づいては離れていく。それぞれに軌道があるからだ」
「なるほど、何となく分かります」
「だから別のやりたいことが見つかったら、君と道を違えることもある」
横田が音を立ててコーラの入ったコップを置く。
「それで結構です」
「もう一つある」
「何でしょう」
横田が怪訝な顔をする。
「取引に同情は禁物だ。ただし法律に反することはしないと約束しろ」
「もちろんです。この横田英樹、法律に反することだけはしないと約束いたします」
「それを聞いて安心した。では、具体的な話をしよう」
「はい」と言うや、周囲に人がいないにもかかわらず、横田が声を潜める。
「実は、敗戦によって大きな打撃をこうむった町の一つに、繊維の町と呼ばれる福井があります」
「ああ、聞いたことがある」
古代から越前国、すなわち福井県とその周辺地域では、絹織物の生産が盛んで、江戸期には越前松平家の財政を支えてきた。明治に入ると、福井県は積極的に最新の製織技術を導入し、輸出向けの羽二重織物の生産が盛んになった。その後も日本有数の繊維産業として地域経済を支えてきた。福井には、糸加工、製織、染色、加工といった中間加工業者による垂直構造ができており、戦争が終わることで、様々なプロセスで在庫が山積されているという。
「突然の敗戦で、福井の繊維工場では大量の繊維原料や軍需物資が在庫となっており、それを売って現金にしたいらしく、日本中の繊維関係の会社に働き掛けているのです」
「だったら買えばいいじゃないか」
「そこです」と言って横田が顔を近づける。腐ったチーズのような口臭が気になったが、留吉は我慢した。
「ただ買うだけでは、『ありがとう』でおしまいです」
「では、どうするというのだ」
「買い叩くのです」
「どうやって」
横田の双眸がずる賢そうに光る。
「相手の足元を見るのです。例えば一トンの防暑服を売りたい相手がいて、それを相場で買い取るだけでは、こちらもたいしたもうけが出ません」
「しかし、売り手と買い手が納得する金額で成立するのが、取引というものだろう」
「平時なら、それで構いません」
確かに今は戦後の混乱期なので、ビジネスマンにとっては戦時と呼んでもいいだろう。
「待て。相手の弱みに付け込むのか」
「いえ、いえ」と言いながら、横田が顔の前で右手を振る。
「相手もぎりぎり、こちらもぎりぎりです。買い手が現れないと、福井の売り手は現金がなくなり、倒産するでしょう」
「だからといって――」
「そこは交渉です。『横田産業と末永く取引したいなら、今回だけは、この価格で仕入れさせてくれ』と言うのです」
「つまり先々の約束をするのだな」
「はい。先のことなど分かりません。それゆえ、あてにはならないと相手も思っているはずです。ただしこんな世の中です。溺れる者は藁をも摑むと言いますから、横田産業とのつながりができたと思って、今回だけは安くしてもよいと思うでしょう」
それでも留吉は納得できなかった。
「近江商人は、『商いの基本は三方よしだ』と言っているではないか」
近江商人には、「売り手よし」「買い手よし」「世間よし」の三つがそろってこそ、よい取引になるという経営哲学がある。それを「三方よし」と言う。
「もちろんです。しかしうちが買わなければ、相手は在庫を腐らせ、会社が潰れるのを待つだけになります」
「ほかに買い手はつかないというのか」
「つくとしても、すぐではありませんし、手形での取引を条件にされれば、売り手に現金が入るのは、何カ月も先になります」
この時代、どこも資金繰りが厳しいので、手形取引は常識だった。
「そうか。現金取引にする代わりに安くしてもらうというのだな」
「はい。相手に現金を見せれば、どんな価格でも納得します」
どうも横田のやり方は強引な上、ずるい気がする。だが、この世界で生き残っていくためには、必要なことかもしれないと、留吉は思い直した。
「それと、現金は全額をその場で渡してはなりません」
「もちろんだ。手付は半額が相場と決まっているからな」
「はい。半分だけ渡し、『すぐに東京から現金を送らせるので一週間ほど待ってほしい』と告げるのです」
「一週間も待たせるのか」
「それでも相手は売ります」
横田の目は確信に満ちていた。
「しかし、なぜ支払いを遅らせるのだ」
「こちらも資金繰りがぎりぎりです。一カ月遅らせられれば、一カ月分の金利が助かります」
「さっきは一週間と言ったではないか」
「一週間と言って一カ月遅らせるのです」
「そんなずるい商いができるか」
留吉は席を立とうとしたが、横田が腕を取って押しとどめた。
「お願いします。私の言う通りにやってみて下さい。きっと相手も幸せになります」
――言われてみれば、その通りだな。
横田のやり方は、相手の足元を見て取引するというきれいなやり方ではない。だが、相手も困っているのだ。それで倒産が防げれば、それに越したことはない。
「分かった。相手を騙すようなことでなければいいだろう」
「ありがとうございます」
「それで、月給はいくらもらえる」
「基本給は千三百円でどうでしょう。それ以上は歩合となります」
横田が歩合の計算方法を説明する。基本給だけでも破格なので、歩合まで付くとは思わなかったが、くれるというならもらっておこうと思った。
「それで構わない。で、いつ京都に行けばよい」
「明日、切符を取りますので明後日ですね」
「明後日だと」
「はい。こちらに何か御用でもありますか」
「いや――、何もない」
「でしょう」と言いつつ、横田が狡猾そうな笑みを浮かべる。
「今夜と明日の夜は帝国ホテルに泊まって下さい」
「部屋は取ってあるのかい」
「その辺は抜かりがありません。君――」
横田は、バーテンダーにタクシー二台と帝国ホテルの予約をするよう命じた。
「軍資金一万円は有効に使ってください」
「ああ、わかっているよ」
留吉はバーボンを飲み干した。
――こうなれば、どうとでもなれだ。
ほかに食べていく方法もないのだ。運命の海に身を委ねてみるのも一興だと思い、留吉は京都行きを決意した。
Synopsisあらすじ
戦争が終わり、命からがら大陸からの引揚船に乗船した坂田留吉。しかし、焦土と化した日本に戻ってみると、戦後の混乱で親しい人々の安否もわからない。ひとり途方に暮れる留吉の前に現れたのは、あの男だった――。明治から平成へと駆け抜けた男の一代記「夢燈籠」。戦後復興、そして高度成長の日本を舞台に第2部スタート!
Profile著者紹介
1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学卒業。『黒南風の海――加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で第1回本屋が選ぶ時代小説大賞を、『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞と第1回高校生直木賞を、『峠越え』で第20回中山義秀文学賞を、『義烈千秋 天狗党西へ』で第2回歴史時代作家クラブ賞(作品賞)を受賞。
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