夢燈籠 狼を野に放て第19回

 留吉と共にソファーに腰掛けた岩井が、緊張の面持ちでコーヒーを何度も口にした。
「岩井、そう固くなるな」
「分かっている」
 しばらくすると、笑みを浮かべて三島が入ってきた。
「いらっしゃいませ。おっ、あの時にお会いしたもう一人の方ですね」
 あの時とは、鶏鍋の「末げん」で偶然会った時のことだ。
「お、お久しぶりです。岩井壮司と申します。あの時はお世話になりました」
「何のお世話もしていませんよ」
 三島が豪傑笑いをする。
「そうでした。でも、こうして妙な縁から再会できて光栄です」
「私などにそう言っていただき、ありがとうございます。ところで、父との打ち合わせは終わったんですか」
「は、はい。お礼に来ただけですから」
 今回の訪問の目的は、岩井が三島に会いたいと言うので、株の売買手続きが終わった後のお礼という名目で連れてきた。
「皆さんのお役に立ててよかったです」
 留吉が答える。
「それはもう。たいへん助かりました」
「それにしても、早稲田出の俊秀二人が横田産業に勤めているんですね」
 三島の顔が曇る。どうやら横田の評判が芳しくないことを知っているらしい。
「横田とは、いろいろ縁がありまして」
「まあ、縁を大切にするのは悪いことではありませんけどね」
 三島が奥歯に物が挟まったような言い方をしたが、その話はそこで終わり、話は文学に移っていった。
 岩井が恐る恐る問う。
「三島さんは、親しくしている小説家はいらっしゃるんですか」
「私ですか。こんな若輩者を相手にしてくれる小説家はいませんよ」
 そうは言うものの、『仮面の告白』によって、三島は文壇の寵児となりつつある。
 三島がしみじみと語る。
「僕が一番嫌いな人種は小説家でね。道を歩いていても、小説家に会わないように気をつけているんですよ。どこかの料理屋で、『何々先生がここへよくいらっしゃるんですよ』なんて言われると、その料理屋には二度と行かないようにしているんです」
「ということは、文壇の重鎮たちとの付き合いは、あまりしていないんですか」
 岩井も慣れてきたのか、前のめりになって質問している。
「文壇の付き合いは嫌ですね。文学賞をもらったら仕方なく行きますよ。自分ではなくても、お世話になった人が何か受賞した時も行きます。それは義理だからね。義理事はヤクザのように大切にしています。でも顔を出したら、さっさと逃げて帰ってきてしまうんです。黙って帰ってしまうので、後で担当編集が探していたと聞かされてね」
 三島が煙草片手に高笑いすると続けた。
「僕も昔はそうでもなかったんですよ。若い頃は文士に憧れていたからね。でも今は、もう付き合いはなくてもいいかなっていう感じですね」
 今度は留吉が問う。
「今の日本を見て、三島さんはどう思われますか」
「偽善に満ちていますね」
「それは世界も同じですよね」
「いやいや、西洋にはね、立派な偽善の伝統があります。こないだ会ったイギリス人は、『われわれの国は偽善の国だ』と胸を張って言うんだね。だから『あなたの国では、偽善は文化的伝統じゃないか』と言ってやったら、大笑いしていました」
 三島の言う「偽善の伝統」というものが具体的にどんなものなのか、留吉には分からない。だが、話の腰を折るのも悪いので、笑ってうなずくだけにしておいた。
「偽善は、戦争が終わってからさらにひどくなりました。平和憲法とやらが諸悪の根源です。昔の日本人にも偽善はあったんですよ。だが今のように、政治から企業まで偽善に冒されているわけではありませんでした」
 三島の言うことは尤もだった。現に政治家や銀行、そして守旧的企業の経営者たちは、自分たちだけの村を作り、新たに勃興してくる勢力を入れようとしない。
 留吉が初めて質問した。
「三島さんから見て、やはり日本は偽善だらけですか」
「はい。建前と本音が乖離(かいり)しすぎています。にこにこ笑って握手している裏で、誰もが憎悪の炎をたぎらせている。それが今の日本です。このままではどうなってしまうのか、たいへん心配です」
「やはりそうですか。実はわれわれも、そうした偽善に直面しているのです」
 横田たちが直面している守旧勢力の持ちつ持たれつの姿勢を、留吉は語った。
「なるほどね。マスコミは横田さんに批判的だが、そこには、そうした背景もあったんですね」
「はい。マスコミも家柄と学閥のよい者しか入れませんからね。彼らも守旧勢力の仲間です」
「そうか。そこまで日本のビジネス社会は腐っているんですね。これは、いよいよ日本もしまいだ」
「では、三島さんはどうなさるんですか」
「私は一介の文士です。作品を世に問うことしかできません」
 三島が三度目の高笑いをした。

夢燈籠 狼を野に放て

Synopsisあらすじ

戦争が終わり、命からがら大陸からの引揚船に乗船した坂田留吉。しかし、焦土と化した日本に戻ってみると、戦後の混乱で親しい人々の安否もわからない。ひとり途方に暮れる留吉の前に現れたのは、あの男だった――。明治から平成へと駆け抜けた男の一代記「夢燈籠」。戦後復興、そして高度成長の日本を舞台に第2部スタート!

Profile著者紹介

1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学卒業。『黒南風の海――加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で第1回本屋が選ぶ時代小説大賞を、『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞と第1回高校生直木賞を、『峠越え』で第20回中山義秀文学賞を、『義烈千秋 天狗党西へ』で第2回歴史時代作家クラブ賞(作品賞)を受賞。

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