夢燈籠 狼を野に放て第37回

 若い頃は、誰もが何者かになれると信じ、無限の可能性に胸をときめかせている。だが、目先のことにかかずらっているうちに時は流れ、気づいてみると、たいしたこともできずに中年に、そして老境に入っていく。
 ――それが人生というものか。
 昭和三十二年(一九五七)となった。留吉は四十九歳になった。
 ――このまま横田の手下として人生を終えるのか。
 留吉は自分で人生を摑み取りたいと思ってきた。それが、何一つ自分で人生を選び取れなかった実母の願いだと思っていたからだ。
 ――自分に比べて横田はどうだ。阿漕(あこぎ)なこともやるが、自分で人生を摑み取ってきた。
 横田に比べ、自分が何も成し遂げられていないことに、留吉は腹立たしかった。
 ――このままでは終われない。
 そうは思うものの、では、何をやるかというと、やりたいことが浮かばない。
 留吉は、人生の暗く大きな穴に囚(とら)われてしまったような感覚を抱いていた。

 バックに五島慶太を得た横田は、水を得た魚のように動き回っていた。
 横田が次に狙ったのは帝国ホテルだった。これは五島も力を入れた案件で、パートナーとして外資のヒルトンホテルが付いていた。
 だが、帝国ホテル陣営が政財界との強いコネを生かし、五島に裏からブレーキを掛けたため、横田は買収ではなくサヤ抜きに方針を転換し、五千万円ほどの利益を上げた。
 五島が動いているという噂があれば、個人株主が提灯(ちょうちん)買いする。そのため株価はどんどん上がり、ピークに達したと思ったところで売りを浴びせるのだ。
 横田はこの時の成功で味を占め、続いて因縁浅からぬ堀久作の日活株の買い占めを始た。これに慌てた日活陣営も株を買い進めたので、日活株は暴騰した。そうなれば個人株主も参戦する。「買収かサヤ抜きか」で市場が注視する中、またしても横田はサヤ抜きに成功し、大きな利益を出した。
 続いて標的にされたのが石油産業だった。これは「東急コンツェルンの中に石油会社を含めたい」という五島の主導で、横田は東亜石油と大協石油(現コスモ石油)の株を買い進めただけだが、ここでも大きな利ザヤを獲得した。結局、五島は中堅の東亜石油の株を半数近く買い進め、経営権を手に入れた。
 五島が背後に付いたことで信用度が増し、資金豊富となった横田は、大黒葡萄酒、帝国臓器、大和毛織、東海汽船といった企業の株を買いあさった。「横田がどこそこの株を買い占めているぞ」という噂が兜町で立つと、真偽定まらぬままに個人株主が提灯買いするようになり、すべての売買が短期化し、大金を手にする者も出る代わりに、大損する者も続出する始末だった。
 時代の風雲児・横田英樹に、兜町のみならず日本経済が振り回され始めたのだ。
 次に横田が目をつけたのが砂糖産業だった。

 役員会で横田が声を張り上げる。
「ここのところ、私は株価を吊り上げるだけ吊り上げ、売り抜けるだけの男と思われ始めている。そのため、そろそろ買収に乗り出そうと思っています。そこで何を狙うかですが、言うまでもなく、将来有望な産業です」
 そう前置きした上で、横田が狙いを明らかにした。
「日本人にとって、砂糖は米、味噌、醤油と並んで必需品です。しかも三白景気で、砂糖会社は莫大な利益を上げています」
 三白景気とは、砂糖、セメント、硫安(窒素肥料)の白物三種が、日本経済の牽引車となって景気を浮揚させているということだ。というのもこの時代、砂糖の消費量が増大し、住宅や道路の建設ラッシュが起こり、さらに農業の生産性向上を目指して効率的な肥料が求められていたからだ。
 中でも砂糖産業は狙い目だった。というのも粗糖輸入のための外貨は割当制になっており、それが製糖会社の生産能力に応じて割り当てられる仕組みなので、急速に設備増強が進んでいた。つまり設備さえ増強する資金があれば、粗糖購入の外貨が割り当てられるので、業界トップに立つこともできる。
 役員の一人が質問する。
「製糖会社は名糖、日糖、台糖などありますが、どこに狙いを定めたのですか」
 製糖業界は設備に比して小資本の上、親方日の丸的意識が抜けず、経営者たちはのんびり構えている。そこを突けば、手もなく買収できると思われた。
「東洋精糖株式会社です」
「みつ花印」の砂糖で知られる東洋精糖は昭和二年(一九二七)の創立で、当初は秋山精糖所といった。その後、東洋精糖として分離独立するが、その設備に比して資本金は四億円しかない。これは白木屋の二倍ほどで、製造業としては過小資本だ。しかも東洋精糖は業界でも中堅にすぎず、横田単独でも買収できる規模になる。
「東洋精糖の『みつ花印』は、上質で消費者に人気があるにもかかわらず、流通に弱みがあるためか、商店は少量しか仕入れられず、あたら商機を逃しています。そのため競合他社に比べて業績も振るわず、しかも秋山一族の内紛が絶えないため、経営的にも不安定です。私が経営再建を訴えれば、総会でも株主の多くは靡(なび)いてくるはずです」
 横田の狙いは的確だった。
 昭和三十二年四月三十日、東洋精糖あてに日本産業株式会社取締役社長・佐藤哲の名で、三十一万株の名義書き換え請求が行われた。突然のことで、それが何を意味するのか理解できなかった東洋精糖側は、ただの投資筋の人物として無視していたが、十月七日、新たに四十五万二千株の名義書き換えが、同じ佐藤哲から要求された。
 さすがに「これはおかしい」となり、佐藤哲が誰か調べてみると、横田の妻の実父と分かり、ようやく横田が乗り出してきていることに気づいた。
 東洋精糖が気づかないうちに、横田は全発行株式の一割弱にあたる七十六万二千株を獲得していたのだ。その後も横田は買い占めの手綱を緩めず、三重、丸水、望月、大福、岡三、八千代といった中小の証券会社を通じて、東洋精糖株を買い進めた。
 その結果、十月末には横田関連の持ち株は九十一万三千五百株に達した。
 東洋精糖の株価も、買い占めを始めた百四十円から二百二十円に達していた。思ったより上がり幅が少ないのは、横田がいつ売り浴びせてくるか分からないので、機関投資家も個人投資家も買いに慎重になったためだ。その間、横田は安価で買い進めることができた。
 買収と見せかけてサヤ抜きするという戦法が功を奏したのだ。
 さらに十一月末には、現物と信用取引による買建玉(かいだてぎょく)を合わせて二百六十万株という東洋精糖の総発行株式の三分の一ほどを獲得した。この時点で、横田は累積   投票によって四人の役員を送り込める権利を得た。
 その上で、横田は記者会見を行った。
「皆さん、今回の東洋精糖株の買い占めは、サヤ抜きではありません。私は東洋精糖に経営参加するつもりで買い進めています。確かに東洋精糖は、本を正せば秋山精糖所という砂糖問屋を秋山利太郎社長がここまでにしたものです。しかしながら東洋精糖は秋山一族が私物化しています。株式会社であり、善良な株主の投資によって事業が展開できるにもかかわらず、秋山一族は社員の福祉という名目で、会社名義で別荘や車を買い、一族だけで使い回しています。私が調べたところ、一般社員で別荘を利用した人はおらず、キャデラックも社長専用車と化しています。そのほかにも、私は秋山一族の不正行為を立証できる資料をたくさん持っています」
 こうしたことは、この時代の中堅企業ならどこでもやっていることだが、あえて横田は声を大にして指弾した。
「こんな杜撰(ずさん)な経営では、笊(ざる)で水をすくっているようなものです。だいいち本業の製糖業でも、名糖、日糖、台糖を超えていこうという意欲はありません。これでは株主は報われません」
 横田の言葉は理に適っており、誰もが東洋精糖と秋山一族に対して悪い印象を持ち始めていた。

夢燈籠 狼を野に放て

Synopsisあらすじ

戦争が終わり、命からがら大陸からの引揚船に乗船した坂田留吉。しかし、焦土と化した日本に戻ってみると、戦後の混乱で親しい人々の安否もわからない。ひとり途方に暮れる留吉の前に現れたのは、あの男だった――。明治から平成へと駆け抜けた男の一代記「夢燈籠」。戦後復興、そして高度成長の日本を舞台に第2部スタート!

Profile著者紹介

1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学卒業。『黒南風の海――加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で第1回本屋が選ぶ時代小説大賞を、『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞と第1回高校生直木賞を、『峠越え』で第20回中山義秀文学賞を、『義烈千秋 天狗党西へ』で第2回歴史時代作家クラブ賞(作品賞)を受賞。

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