夢燈籠 狼を野に放て第41回

 そこからの五島は早かった。
 一月十六日、五島は横田から東洋精糖の二百万株を一株四百円で買った。また横田に三億円を貸し、横田は現物と信用取引によるカラ買いで百十万株を買い入れた。これにより五島と横田は合わせて四百万株余りを握った。東洋精糖の全発行株式は八百万株余りなので、二人は過半を握ったことになる。
 これに対し、秋山利太郎会長の次男で取締役の利次は記者会見を開くと、五島と横田を手厳しく批判した。この少し前、利太郎は会長に退き、社長には長男の利郎が就いていた。
「会社乗っ取りは卑怯でも何でもありません。その会社の経営を見直し、より付加価値の高い企業に再生できれば、これは社会のため、株主のために有益です。しかしながら――」
 利次は一拍置くと、声を大にした。
「五島氏は、必ずと言っていいほど乗っ取った会社の経営再建を謳いますが、五島氏が乗っ取った会社で経営が改善された事例はあるのでしょうか。東亜石油はどうでしょう。赤字はますます拡大し、それまで続けていた配当も中止するほどです。今の経営状態では、復配など望むべくもありません。白木屋とて同じです。東急グループが乗っ取った後も、いっこうに経営状態は上向かず、あれだけの好立地を以てしても、業界で下位に低迷したままです。つまり五島氏は乗っ取りだけに関心があり、その後の経営など、どうでもよいのです。こんな人に経営権を奪われるわけにはいきません。会社は社会の公器です。つまり社会から預かった労働力や資金を駆使し、社会のニーズに応え、株主に利益を還元せねばなりません。しかし五島氏は株の売買でもうけることだけにしか関心がない、いわばビジネス社会のハイエナでしかありません」
 これに対し、マスコミからコメントを求められても、五島は馬耳東風(ばじとうふう)だった。
 しかし市場は混乱の極に達していた。五島が乗り出したことで、カラ売りしていた者たちが大損し、浮動株は市場から消えていった。
 三月二十三日、五島は増資割り当て分二百万株の払い込みを行い、合計で四百万株を所有する大株主に躍り出た。五島だけで全発行株式の四分の一を握ったのだ。
 ここで横田は次の手を打つ。
 四月初旬、横田は岡三証券をはじめとした中堅証券会社十社に、配達証明付きで現物株の提供を要求する文書を送付した。さらに東京地裁に、東洋精糖の公募株発行差し止めの仮処分申請を行った。
 横田が本気で怒っていると覚(さと)った証券各社は、東洋精糖側に対し、「公募株を会社側がすべて引き取るのはおかしい。分散しないなら、増資の引き受け業務はお断りします」と申し入れた。
 これに対し、東洋精糖側は公募株を証券会社を通さずに自己募集することにし、四月二十四日、百十円で売り出すことを新聞に公告した。つまり払込期日まで一週間しかなく、横田が対抗措置を取れないと思ったのだ。
 しかし岩井のアドバイスで、これを予想していた横田は、直ちに東京地裁に差し止めの仮処分申請を行った。地裁はこれを即日認め、公募株発行差し止めの仮処分命令を出した。知恵袋の岩井による見事な返し技だった。
 四月三十日、秋山らは異議申し立てしたが認められず、いよいよ追い込まれた。しかも定時株主総会は六月に迫っている。白木屋で乗っ取りについて学んだ「チーム横田」には、もはや誰も太刀打(たちう)ちできない感があった。
 五月、東洋精糖側からコンタクトがあった。「ぜひお話ししたい」というのだ。横田の窓口役を務める留吉は、早速、築地の料亭「もときらさぎ」を予約した。
 店に入り、東洋精糖側が待つという部屋に入ると、一人の青年が控えていた。
 ――一人で来たのか。
 こんな時は枯れ木も山の賑(にぎ)わいよろしく、役にも立たない重役をぞろぞろ連れてくるものだが、その三十絡みの男は一人で畏まっていた。
「やあ、利継さんでしたか。よくぞいらして下さいました」
 敵が白旗を掲げてきたので、横田は上機嫌だ。
「秋山利太郎の次男の利継です。会社では取締役を任じています」
「ご尊顔は新聞で拝見していたので知っています」
 横田は語彙が増えたので、それを使いたがる。そのため皮肉かどうか判別しにくい。
「私のことはご存じですね。こちらに控えるのが、私の右腕の坂田取締役です」
「どうぞ、お見知りおきを」
 そこでビールが運ばれてきた。横田はいつものようにオレンジジュースだ。乾杯するのも変なので、留吉と横田はコップを掲げて一口飲んだが、利継はコップを掲げただけで、テーブルに置いた。
 ――横田の酒は飲めないということか。
こうした場を設けてほしいと申し入れてきたのは東洋精糖側だが、「店はこちらで手配します」と言ったのは横田側なので、基本的に支払いは横田側がすることになる。ケチな横田はそうしたことを好まないが、自分の行きつけの店の方がリラックスできるので、相手をのんでかかれる。そのため留吉が横田を説得したのだ。
利継が正座のまま言った。
「まず申し上げたいのは、こうした席を設けていただいたことに感謝しています」
 横田が膝を叩かんばかりに言う。
「とんでもない。われわれは敵対しているように見えて、実際は会社を、そして社会全体をよくしていこうという気持ちで一致しています。こちらこそ、そうした私の考えをお伝えする前に買い占めを進めてしまい、申し訳ありませんでした」
 だが買い占めというのは、ある程度の株数を保持してからでないと公表しないのが普通だ。おそらく横田は、これからも買い占め前に、それを相手に伝えることなどしないだろう。
「私どもも防衛に必死でしたが、よく考えてみれば、企業価値を高めていくという目的は、横田さんと一致しています。それゆえ今回は、父と兄を説き伏せてこの場にやってきました」
「仰せの通り、われわれは人様の育てた会社を奪おうとしているのではありません。企業価値が高まり、株価も上がれば、株式を多数保有している創業家にも大きなメリットがあるのです」
 それは正論だが、それが分かっていても、ここまで手塩にかけて育ててきた会社を手放したくないのが、人情というものだ。
「仰せの通りです。感情に走ってしまっては何事もいけません。互いに実業家らしく、双方のメリットとなる話をせねばならないと思っています」
「もちろんです。それで――」
「条件ですね」
 利継は鞄から書類を取り出すと読み上げた。
「えー、われわれとしては従来の取締役十二人を十五人に増やし、そちらから三人の取締役を迎え入れます」
「ほほう、それだけですか」
「それだけと仰せになりますと――」
「われわれが入れられるのは平取締役三人だけですか、と聞いております」
 横田の苛立ちが伝わってきた。
「はい。取締役も適任かどうかを見極めていく必要があります。それゆえ最低一年は平取締役として砂糖ビジネスを学んでいただき――」
「その必要はありません」
「ど、どうしてですか」
 横田がオレンジジュースを飲み干すと言った。
「経営というのは、どのような業種であっても変わりません。それゆえ経営のプロを貴社に入れるので、最初から専務や常務も務まります」
「いや、それは困ります」
「何が困るのです。企業価値を高めるのが目的なら、困ることはないでしょう」
「ですが、どのような方が来るか、われわれには分かりません」
「いいですか。本来なら十二人の枠の中で三人なら納得もいきます。それを十五人に増員し、さらに平取締役では、お飾り同然ではありませんか」
「そんなことはありません。正式な取締役ですから、役員会での発言権もありますし――」
「当たり前です。こちらは十五人に増員する件はのみますが、送り込む三人は専務一人に平取締役二人でお願いします」
「それは無理です」
「それは、こちらのセリフです。実は、五島さんのところの方に専務をやってもらう腹積もりでいますので、私の顔を潰さないようお願いします」
 横田が切り札を投げた。五島の資金は無尽蔵というイメージが染みついているので、五島の意に沿わないことをすれば、秋山一族を締め出すまで買い占めが続くと思われるはずだ。現に白木屋は全役員が追い出された。
「秋山さん」と横田が笑みを浮かべる。
「私はむごいことはしたくない。ここまで東洋精糖を育てたのは秋山一族だからです。それゆえ引き続き経営を担っていただくつもりでおります。実は、五島会長は『そんな奴らは追い出せ』と仰せでした」
 利継の顔が青ざめる。
「それは本当ですか」
「本当です。それを何とか説き伏せ、こちらの条件を煮詰めてきたのです。それを無下に断れば五島会長は――」
 その後に続く言葉をのみ込み、横田が首を左右に振る。利継があえて単独で来た度胸は買えるが、役者は横田の方が何枚も上なのだ。
「どうなるというのです」
「機嫌を損ねるでしょうな」
「いや、それは困ります」
「では、よろしいですね」
「は、はい。それで結構――、いや、お願いします」
「実は、それだけではありません」
「えっ」と言って利継が顔を上げる。それはゼンマイ仕掛けの猿のように見えた。
「監査役も一人入れさせていただきます」
「監査役まで入れるのですか」
「そうです。監査役を入れ、取締役が法令や定款に則(のっと)って適正な業務をしているかどうかをチェックせよというのが、五島会長の命令です」
「しかし――」
 利継が苦しげに顔を歪(ゆが)ませる。それに合わせるように、横田も眉間に皺を寄せた。
「板挟みの私の立場も分かって下さいよ」
「横田さんは、板挟みなんですか」
「そうです。秋山一族の面子(メンツ)と立場を重んじ、五島会長を説き伏せ、これだけの条件を勝ち取ってきたのです。これをのんでいただかなければ、最後まで戦い抜くしかありません」
 横田が何の板挟みにもなっていないのは、利継にも分かるだろう。だが人は、建て前で物事を言う人間には弱いのが常だ。
 しばらく考えた末、利継が言った。
「承知しました。その条件で父を説得します」
「それはよかった。では、法的効力のある書式で念書の書面を作っておいて下さい。こちらは株式の購入を止めておきます」
 この時は、それで話はついたと双方共に思っていた。だが、事態は意外な展開を見せる。

夢燈籠 狼を野に放て

Synopsisあらすじ

戦争が終わり、命からがら大陸からの引揚船に乗船した坂田留吉。しかし、焦土と化した日本に戻ってみると、戦後の混乱で親しい人々の安否もわからない。ひとり途方に暮れる留吉の前に現れたのは、あの男だった――。明治から平成へと駆け抜けた男の一代記「夢燈籠」。戦後復興、そして高度成長の日本を舞台に第2部スタート!

Profile著者紹介

1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学卒業。『黒南風の海――加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で第1回本屋が選ぶ時代小説大賞を、『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞と第1回高校生直木賞を、『峠越え』で第20回中山義秀文学賞を、『義烈千秋 天狗党西へ』で第2回歴史時代作家クラブ賞(作品賞)を受賞。

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