夢燈籠 狼を野に放て第34回
二
横田は追い詰められていた。法廷闘争となれば長期戦は必至だ。そのためには金利負担に堪えきれるだけの資金が必要となる。しかし横田に低利の金を貸してくれる銀行は平和相互銀行以外になく、それさえも、これ以上の借金に難色を示すようになってきた。そのため横田は、個人的なコネクションで金を調達せねばならなくなっていた。そうなれば高利となり、大銀行から低利で融資してもらえる鏡山派とは比較にならない苦しさとなる。
それでも横田は意地になっており、この戦いから下りるつもりはなかった。
資金が枯渇すれば、背後に大物に付いてもらわねばならない。大物が付くということは、果実をすべて持っていかれる可能性もある。だが、背に腹は代えられない。
白木屋に関心を持ってくれるのは同業者しかない。となれば西武グループの堤康次郎か東急グループの五島慶太しかいない。阪急グループの小林一三もその一人だが、すでに八十歳を超えており、しかも地盤が関西なので、今から東京進出を図るとは思えない。
そこで横田は鈴木と相談し、堤康次郎の許をまず訪れることにした。
この頃、堤は箱根の観光開発をめぐって、後に「箱根山戦争」と呼ばれる熾烈な戦いを五島と繰り広げており、二人はライバル関係だった。
しかし堤は、この話に乗らず、逆に「慶太に『堤が買う』という話をそれとなく流せ。そうすれば慶太は必ず動く」と知恵を授けてくれた。
堤としては現役の衆議院議員で衆議院議長も務めているので、火中の栗を拾うつもりはなかったのだ。
横田は堤のアドバイス通りに動こうとしたが、いかんせん五島は雲の上の人で、何の伝手(つて)もない。ようやく伝手を見つけたが、五島は会ってくれないという。ただし、五島が毎朝六時に上野毛の自宅周辺を散歩するという情報を得た。
そこで横田は毎朝、その時間を狙って五島に会おうとした。それに留吉も付き合わされたのでたまらない。横田は酒を飲まないので早起きを苦にしないが、留吉は朝が苦手だ。
それでも横田がぎりぎりの戦いをしているのは知っているので、留吉は朝四時に起きてタクシーで横田邸に駆けつけ、キャデラックを運転して五島邸に向かうことを繰り返した。
最初は相手にしてもらえなかったが、雨の日も風の日も五島邸の前で待ち受ける横田に、五島も根負けして話をするようになった。しかし五島も慎重居士で鳴らした男だ。横田を焦(じ)らしながら、この戦いに勝算があるかどうか調査に入った。
法廷闘争の結果は年内に出ず、昭和三十年(一九五五)となった。この年、留吉は四十八歳になる。
前年の九月四日から始まった米国の株価暴落による世界恐慌は、年明けから日本へも波及し始めた。後に昭和恐慌と呼ばれるこの不況は、日本経済を壊滅的な状況に陥れた。最も大きな打撃をこうむったのは個人株主で、株価暴落によって全財産を失った者が続出した。
白木屋の騒動が法廷闘争に突入したので、留吉は通常業務に戻った。通常業務とは横田が借りた金の借り換え先を探すことだ。少しでも金利負担を少なくしたい横田は、自身も懸命に借り換え先を探していた。
一方、判決待ちとなった岩井は手すきとなっていた。
そんなある日、岩井の方から「飲みに行こう」という誘いがあった。岩井が結婚し、家庭を持ったことから、留吉の方から誘うことは控えていたが、岩井の方からなら構わない。留吉は喜んで「行こう」と返事をした。
その夜、神田の小さな料理屋の一室で、二人は向き合っていた。どうやら岩井の行きつけらしく、岩井が女将(おかみ)に「よろしく」と言うだけで、酒と料理が運ばれてきた。
「お前が家庭を持ったので、誘うのを遠慮していたんだぞ」
「ああ、すまない」
岩井は浮かない顔だ。
「かみさんとの仲がうまくいっていないのか。だいたい夫婦なんてものは――」
「いや、うまくいっている」
「そうか。それなら、なんで浮かない顔をしている。もしかして横田に愛想を尽かしたのか」
「そうじゃないんだ」
岩井が苛立ちをあらわに煙草を揉み消す。その動作が冷静さを欠いており、留吉のよく知る岩井とは違うような気がした。
「では、どうした。何か相談事があるなら言ってみろ」
「実はな、金を借りたいんだ」
「金か――」
留吉は親友の岩井だからこそ、金の貸し借りをしたくなかった。それは岩井も同じだと思っていたが、それでも借金を申し入れてきたのだから、よほどのことなのだろう。
「そうなんだ。ちょっと困ったことになってね」
「困ったことだと。横田からは十分にもらっているだろう。ほかの客の顧問契約と合わせれば、食べるには困らないはずだ」
「それが少し背伸びをしてしまったんだ」
「背伸びだと」
「うん。土地付きの家がほしいと家内が言うんでね。それで株に手を出したんだ」
「そういうことか。それで損失を被ったんだな。いい勉強になったろう」
「いや、それなら損をして終わりだが、信用取引に手を出したんだ」
「何だと」
信用取引とは、現金や株式を担保として証券会社から金を借り、株式を売買する行為のことで、最大預けた担保の評価額の三・三倍まで取引が可能となる。
「何を担保としたんだ」
「平塚の家と土地だ」
兄の戦死によって親の財産を継承した岩井だが、酒屋をやっていた土地と古い家だけなので、さしたる額にはならなかっただろう。
「しかし信用取引なら、担保を取られてしまいじゃないのか」
「それが信用取引だけではないんだ。高利貸から金を借りていた」
「金を借りて株をやっていたのか」
「ああ、株というのは上がるものだと思っていたからな。それだけでなく商品取引もやっていた」
「米とか大豆とかの相場を読むやつか」
「そうだ。そっちの方でしくじったのが大きかった」
留吉や岩井のような高度成長期の真っただ中を生きる者たちにとって、株も商品も多少の上下動をしながらも、じわじわと上がり続けるものだった。ところが昭和恐慌によって、株価は低落傾向に歯止めが掛からなくなっていた。
「では、横田と同じように金利がかさむだけではないか」
「ああ、そういうことになる。それで金を借りたいと思ってね」
「しかし俺の給料なんて多寡が知れてるだろう。それでいくら用立てればいいんだ」
「一千万だ」
「ええっ」
留吉に言葉はなかった。
「俺が、そんな金を持っているわけがないだろう」
「やはりそうか。もしかすると、横田から報奨金をもらっていると思ったんだがな」
「横田がそんな気前のいい男ではないのを知っているだろう」
岩井が苦笑いを浮かべる。
「お前から借りられないとしたら、俺は終わりだ」
「お前はそれでよいとしても、自分の顧問弁護士が破産したとなれば、横田の信用もガタ落ちだ」
「知ったことか」
「そういうわけにはいかない。お前にも社会的責任がある」
岩井が肩を落として嗚咽(おえつ)する。
「みんなに迷惑をかけてしまう」
「その通りだ」
「お前の知り合いで、低利の金を融資してくれる人はいないか」
「俺の知り合いは、横田の知り合いでもある。つまりお前が個人的に金を借りれば、横田に筒抜けだ。そうなれば、お前は顧問弁護士の座を失う」
「それでは食べていけないし、俺の信用もガタ落ちになる。横田に関係のない人物で、金を貸してくれる人はいないか」
留吉の脳裏に、一人の人物の顔が浮かんだ。
Synopsisあらすじ
戦争が終わり、命からがら大陸からの引揚船に乗船した坂田留吉。しかし、焦土と化した日本に戻ってみると、戦後の混乱で親しい人々の安否もわからない。ひとり途方に暮れる留吉の前に現れたのは、あの男だった――。明治から平成へと駆け抜けた男の一代記「夢燈籠」。戦後復興、そして高度成長の日本を舞台に第2部スタート!
Profile著者紹介
1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学卒業。『黒南風の海――加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で第1回本屋が選ぶ時代小説大賞を、『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞と第1回高校生直木賞を、『峠越え』で第20回中山義秀文学賞を、『義烈千秋 天狗党西へ』で第2回歴史時代作家クラブ賞(作品賞)を受賞。
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