夢燈籠 狼を野に放て第52回


 岩井の態度はよそよそしかった。かつて尾津から金を借りてやり、窮地を救ってやったにもかかわらず、逆に岩井は遠ざかっていったような気がする。その屈折した心理を分析しても仕方ないが、留吉に借りを作ってしまったがゆえの口惜しさや恥ずかしさが、おそらくない混ぜになったものなのだろう。
 岩井がぶっきらぼうに問う。
「こんな条件でいいのか」
「ああ、構わない。だって成功報酬は、その都度決めるのだろう」
「そうだ。しかし商法上、役員というのは責任を取らされる」
「分かっている。身ぐるみ剝がされる場合もあると言いたいのだろう」
「そうだ。横田が悪質なことをやった場合、君が介在していなくても、善管注意義務違反という過失によって、損害賠償責任が生じる可能性がある」
 ――そんなことを気にしていられるか。
 留吉には、反骨心のようなものが芽生えていた。
「構わない。こうでもしなければ、横田は俺を放しはしない。だが、そのうち一切合切の縁を切るつもりだ」
「そのうち、か」
「そうだ。長くて三年くらいと考えている。その頃になれば、横田も俺を必要としなくなるだろう」
 岩井が何かを考えているようにうなずく。
「それがよい」
「岩井、一つだけ聞かせてくれ」
 岩井の部屋には、ほかに誰もいない。
「な、何だよ」
「横田は、俺の知らないところで何か悪事を働いているのか」
「何かってどんなことだ」
「例えば、商法上、問題になるようなことだ」
「俺は知らん」
「そうか。それならよい。いいか――」
 留吉は一つ釘を刺しておくべきだと思った。
「いつも横田と銀座に繰り出しているようだが、奴に取り込まれるなよ」
「分かっている。弁護士の資格を失うようなことはしない」
「それならよい。たとえ商法上、問題のないことでも、阿漕(あこぎ)なことの片棒を担げば、必ず報いが来る」
「お前がそれを言うのか」
 岩井があきれ顔をする。
「そうか。お前からだと、俺は横田の片棒を担いでいるように見えるのだな」
「そこまでは言っていないが、尻拭いしているのは確かだろう」
「うむ。だが、それも今月までだ」
「しかしこの契約によると、呼び出されたら、また一緒に仕事をするのだろう」
 岩井が得意げに言う。
「場合によってだ。その選択権はこちらにある」
「まあ、いいだろう」
 留吉は基本契約書を熟読すると、印鑑を捺(お)した。
 ――これが横田と手を切る第一歩になる。
 留吉は横田の尻拭いばかりやらされてきた感はあるが、横田には恩義もある。それを十分に返せたと思ったから、こうして離脱の一歩を踏み出したのだ。
 岩井が不思議そうな顔で問う。
「それで、お前は何をやるんだ」
 一瞬、留吉は岩井に伝えようか伝えまいか迷った。
「言いたくなければ言わなくてもよい」
「いや、構わない」
『萬朝報』の一件を話すと、岩井が意外な顔をした。
「まだ尾津さんと絡んでいたのか」
「おい、尾津さんはお前の恩人だぞ」
「俺だって尾津さんには恩義を感じているさ。それでも金はきっちり返した」
「窮地を救ってもらったことは確かだろう」
 岩井がため息交じりに言う。
「おいおい、尾津さんはテキヤの親分だぞ。いつまでも腐れ縁を続けていると、墓穴を掘ることになるぞ」
「分かっている。だが、人は縁だ。これもチャンスだと思ってね」
「そうか。お前の人生だ。俺が心配するようなことではなかったな」
「すまない」
 留吉は素直に頭を下げたが、岩井との間に大きな溝ができたことを感じていた。
「これで滅多に会えなくなるな」
「そうだな。しかし、それも縁というもんだ。縁があれば、また一緒に仕事をすることもあるだろう」
 人と人は、大きな円を描いて軌道の上を回る星のようなものだと、留吉は思っていた。それが接近することもあれば離れていくこともある。岩井とは互いの軌道が長く交わってきたが、いよいよ離れる時が来たらしい。
「一緒に仕事をする機会があるかどうかは分からんな」
 どうやら岩井は留吉と離れたいようだ。
 ――それならそれで構わない。
 留吉は腰を上げた。
「奥さんとお子さんによろしくな。もう五歳くらいか」
 岩井が苦笑いを浮かべていった。
「実は、妻とは別れたんだ。娘とは二年ほど会っていない」
「そうだったのか」
 そんなことさえ、留吉は知らなかったのだ。
「まあ、これも人生さ」
「つまらんことを聞いてしまったな」
「いいさ。お前に告げなかった俺が悪い」
 岩井に見送られ、留吉は法務部を出た。最後に岩井が、若い頃のような笑みを浮かべていたのが印象的だった。

夢燈籠 狼を野に放て

Synopsisあらすじ

戦争が終わり、命からがら大陸からの引揚船に乗船した坂田留吉。しかし、焦土と化した日本に戻ってみると、戦後の混乱で親しい人々の安否もわからない。ひとり途方に暮れる留吉の前に現れたのは、あの男だった――。明治から平成へと駆け抜けた男の一代記「夢燈籠」。戦後復興、そして高度成長の日本を舞台に第2部スタート!

Profile著者紹介

1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学卒業。『黒南風の海――加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で第1回本屋が選ぶ時代小説大賞を、『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞と第1回高校生直木賞を、『峠越え』で第20回中山義秀文学賞を、『義烈千秋 天狗党西へ』で第2回歴史時代作家クラブ賞(作品賞)を受賞。

Newest issue最新話

Backnumberバックナンバー