夢燈籠 狼を野に放て第46回
十四
七月八日、五島から呼ばれた留吉が、渋谷にある東急グループの本社に赴くと、五島が不機嫌そうな顔で待っていた。
「横田君の具合はどうだね」
「病院に担ぎ込まれた時は危険な状態でしたが、それから次第に持ち直し、今は命の危険はなくなりました」
「それはよかった。東洋精糖の件は、まだ片付いていないからね。ここで死んでもらっては困る」
五島が笑みを浮かべる。横田の体の心配というより、この件で五島を巻き込んだ横田に死なれては、都合が悪いからだろう。
「仰せの通りです。それで横田が復帰するまで、横田産業の役員会で、当件については私に一任されました」
留吉がアタッシュケースの中から委任状を取り出して見せると、五島は一瞥(いちべつ)しただけで関心なさそうに押し返してきた。
「君もたいへんだね」
「まあ、慣れていますから。で、今日はその件ですね」
「ああ、まずはこれを見てくれ」
五島が押しやってきた書面を見た時、留吉は愕然とした。
「これは安藤からのものですね」
「そうさ。あの小僧、人を舐めやがって」
その書面には、こう書かれていた。
一、 東洋精糖の乗っ取りから一切手を引け
二、 横田英樹の尻拭いをせよ
三、 三日以内に一億円を現金で届けよ
この三点を守らず警察に通報したら、組織の全力を挙げて五島一族の命を絶つ。
要は、横田のような目に遭いたくなければ、一億円を払えということだ。ちなみに「横田英樹の尻拭い」とは蜂須賀夫人への借金返済のことだ。
「そこでだ。君に値切ってきてもらいたいんだ」
「値切るって、安藤にですか」
「そうだよ。これも乗り掛かった船だろう」
「それはそうですが、安藤はメンツを重んじます。値切るなんてことをしたら逆効果です」
「確か、横田君は値切ろうとして撃たれたんだね」
「値切るどころか、払おうとしなかったのです」
五島が膝を叩いて笑う。
「さすが横田君だ。俺より何枚も上だな」
「私は何度も注意したんですが、横田はどこ吹く風で。命よりも金の方が大事なんでしょう」
「君も言うね。見直したよ」
五島が手を叩かんばかりに喜ぶ。これまで留吉は、横田の忠実な下僕のように思われてきたのだろう。だが捨て鉢になって一家言あるところを見せたことで、五島からも一目置かれるようになったのだ。
「私は横田の下で働く一介のビジネスマンです。しかしいつかは、大きな飛躍をしたいと思っています」
「そうか。そいつはいい。どうだ、今回の値切りがうまくいったら、私のところで面倒を見てやってもいいぞ」
「面倒というと――」
「独立起業させてやる」
「それは本当ですか」
「私は嘘はつかん。君の腕試しも兼ねて、安藤と交渉してくれ」
五島はうまく留吉をおだて、安藤から譲歩を勝ち取ろうとしているのは明らかだった、だが、横田から独立したい留吉にとって、この話に乗らない手はない。
「それで、いくらで交渉しますか」
「三千万円だ。たぶん初めは安藤も難色を示すだろう。だが、これで蜂須賀夫人へも顔が立ち、自分にも手数料が舞い込んでくる。もちろん横田君の借金なんだから、これは立て替えだよ」
「つまり後で横田に返させると――」
「当たり前じゃないか。そもそも横田君が襲われたのは、横田君が借金を踏み倒そうとしたからだ」
五島は脅されて金を支払うのではなく、蜂須賀夫人の借金の立て替えという方便を考えていた。しかも後で横田に返させるので、自分に損はない。
「逃走資金にも限りがあるだろうから、安藤は必ず乗ってくる」
「では、東洋精糖の乗っ取りから手を引けというのはどうしますか」
「そこはうまく曖昧にしておけ。『分かりました』と言って、相手のメンツを立てれば済む話だ」
五島が豪快に笑った。やはり五島は、横田の何枚も上手だった。
七月十四日、万年を介して安藤に連絡が取れたので、万年に教えられた安藤の潜伏場所となる神奈川県葉山町の別荘に行ってみた。そこは廃屋同然で、隠れ家にするには絶好の場所だった。だが久方ぶりに再会した安藤には、かつての鋭利な面影は一切なかった。
安藤は頬がこけて無精髭(ぶしょうひげ)が生え、酒の臭いをぷんぷんさせていた。
「金は持ってきたか」
それが第一声だった。
「持ってきていません」
「だったら用はない。さっさと帰れ。さもないと、お前も消すぞ」
その言葉の激しさと裏腹に、安藤が憔悴(しょうすい)しきっているのは明らかだった。おそらく子分が酒や煙草を届けているのだろう。だが、なすこともなく日々を過ごすことは難しく、自然、酒量が多くなってしまったに違いない。
――これでは、五島氏の襲撃など夢のまた夢だな。
五島は警察官出身のボディガードも雇っており、こんな状態の安藤がつけ狙ったところで、返り討ちに遭うのが関の山だ。
「それで、五島さんが言うには、安藤さんに三千万円を払うので、それで手を打たないかということです」
「三千万だと。東洋精糖の件はどうする」
「東洋精糖からも手を引きますが、すぐには無理です」
「どうしてだ!」
「ご存じのように、株が絡んでいる話は、そう簡単ではないからです」
さすが大学中退だけあり、安藤もそこのところは分かるようだ。
「では、横田の尻拭いはどうする」
「それは、五島さんと私で何とかします」
「三千万円、耳をそろえて持ってくるんだろうな」
「もちろんです。五島さんにとって三千万円などはした金ですから」
「そうだよな。それだけは頼む」
安藤が少し頭を下げた。その態度は、追い詰められた男のものだった。
「分かりました。では、明日一日は金を用意するのにあてますので、明後日に持参します」
安藤が寂しげにうなずいた。
翌十五日のことだった。警察が葉山の別荘に踏み込み、安藤は逮捕される。五島が警察に手を回したのかどうかは分からない。だが、あまりのタイミングのよさに、その可能性は大だった。もしそうだとしたら、五島は警察の準備が整う時間を稼ぐために、留吉を使ったことになる。だが、それは永遠の謎だろう。
同年十二月、安藤は懲役八年の実刑を言い渡された。実行犯の千葉は懲役六年という判決だった。
五島が三千万円を立て替えるという話が雲散霧消(うさんむしょう)したため、留吉は蜂須賀夫人に借金と金利、そして迷惑料を含めて三千万円を返済するために役員たちを説得した。横田が復帰する前にそれをやらないと、また横田が支払いを渋るからだ。
これを聞いた横田が後に怒ることになるが、ここで筋を通したことで、闇社会での留吉の信用は高まっていった。
横田の負傷の影響は大きかった。横田が株を買い占めている俗に「横田銘柄」と呼ばれている企業の銘柄、例えば大和毛織や東海汽船といった銘柄が、軒並み暴落を始めた。つまり横田が追加で買い進めることが当面できないと知り、投げ売りが始まったのだ。
それでも東洋精糖だけは五島の影がちらついていることから株価の推移は堅調で、暴落を避けられた。こうした一連の事件に気をよくしたのが秋山父子だった。
Synopsisあらすじ
戦争が終わり、命からがら大陸からの引揚船に乗船した坂田留吉。しかし、焦土と化した日本に戻ってみると、戦後の混乱で親しい人々の安否もわからない。ひとり途方に暮れる留吉の前に現れたのは、あの男だった――。明治から平成へと駆け抜けた男の一代記「夢燈籠」。戦後復興、そして高度成長の日本を舞台に第2部スタート!
Profile著者紹介
1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学卒業。『黒南風の海――加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で第1回本屋が選ぶ時代小説大賞を、『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞と第1回高校生直木賞を、『峠越え』で第20回中山義秀文学賞を、『義烈千秋 天狗党西へ』で第2回歴史時代作家クラブ賞(作品賞)を受賞。
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