夢燈籠 狼を野に放て第40回
八
どのような世界で生きようと、その前に立ちはだかるのが、その世界に巣くう既得権益層だ。戦争という大きなリセットが働けば、その焼け野原の中から、尾津のような傑物も出てくる。また三島由紀夫のような、それまでの文学を覆すような天才も出現する。
――横田もそんな一人なのか。
だが、横田は少し生まれるのが遅かった。そのため自分が大物になる前に、戦前の亡霊のような者たちが蘇る時間的余裕を与えてしまった。
そのため横田でさえ、既得権益層の壁を突き破るのに苦労している。それは小佐野も同じで、二人は五島という財界のフィクサーを梃子にして、厚い壁を突き破ろうとしていた。
――そして俺は横田を梃子(てこ)にしていくのか。
そうせざるを得ないのは確かだが、かつて大陸で、自力で人生を切り開いていこうとした留吉にとって、それはあまりにスケールが小さい気がする。
――だが、今はビジネスの時代なのだ。その枠の中で戦っていくしかない。
人は、若い頃に抱いていた無限の野望を次第に縮小させていかねばならない。それが現実でもあるからだ。留吉が伝手(つて)のある中国は、今や共産主義の閉ざされた国家となり、両国を股に掛けたビジネスなどできる状態になかった。
――それでも、そのうちそれができればよいのだが。
留吉は大陸に無限の可能性を見出していた。かつてはそれが石油資源だったが、今は、あらゆるビジネスに可能性があると思えた。
昭和三十二年の暮れも押し迫った十二月三十日、東洋精糖は取締役会を開き、四億円から十億円に増資すると発表した。その方法は、既存株主には一株あたり一株を割り当て、四億円を賄い、それでも足りない二億円は一般募集すると発表した。しかし公募というのは名ばかりで、東洋精糖が二億円全額を出し、株を引き取るつもりでいるらしい。
これは横田の予想していなかったことで、買い増しの資金にまで手が回らない横田は、途方に暮れるしかなかった。
実は、ここのところ岩井が五島や小佐野にも可愛がられるようになったため、東洋精糖の次なる手を予想することがお留守になっていたのだ。横田は岩井に怒ったが、もはや後の祭りだった。
これにより横田の持ち株比率がぐんと下がり、全発行株式の四分の一以下になるため、重役を送り込むことができなくなった。
この危機に、横田は五島を頼るしかない。
昭和三十三年の新年早々、横田は留吉を引き連れて五島通いを再開した。
「という次第で、秋山一族の汚い手口には呆れました。かくなる上は、五島先生に資金援助いただき、東洋精糖から秋山一族を追い出したいと思っています」
「この前も言っただろう。砂糖の話はごめんだよ」
この時、五島が言った「砂糖の話はごめんだよ」という台詞(せりふ)は、横田が糸の切れた凧のように勝手に動き始めたことを揶揄(やゆ)した週刊誌の見出しになった。というのも五島は、東洋精糖の件に関与しておらず、これまでと違って批判的に見ていたからだ。
「会長、聞いて下さい。秋山は私に買収されるのを防ぐために、二倍強の増資を決定したのです。発行される新株一千二百万株の三分の一にあたる四百万株を、株主に割り当てず、自らが買い取ろうとしているのです。しかも名義書き換えの申請は一月十六日に迫っています。このままでは私は新株を引き受ける権利を喪失し、二百万株を無駄に持っていなければならなくなります」
「だから、どうしてほしいんだ」
五島が大儀そうに問う。
「私の株を引き取っていただきたいのです」
「それでどうする」
「私の代わりに秋山一族と戦ってほしいんです」
それは白木屋と同じ方法だった。
「おい、いい加減にしろよ。君は、俺に泣きつけば何とかなると考えているんだな」
「いえいえ、話を聞いて下さい。会長は百貨店という最強の小売業を所持しています。つまり製造元の東洋精糖から卸売を中抜きして仕入れ、百貨店で薄利多売すればよいのです」
これは、横田が留吉と練ってきた切り札とも言える提案だった。
「中抜きか」
「そうです。製造、在庫管理、流通、販売まで商品の流れを、一気通貫で掌握できるのは五島会長だけです。しかも造るのは今や生活必需品となり、これからも大幅な伸びが期待できる砂糖です。それを最適な生産調整で値崩れを防ぎ、卸売業者抜きで安く百貨店に卸し、適量を小売りの現場に置けば、たとえ薄利多売でも安定的な利益を稼ぎ出せます」
今日、こうしたビジネスモデルを垂直統合と呼ぶ。
「なるほどな。考えてきたな」
「いや、最初から東洋精糖を五島会長に献上するつもりで、ここまで戦ってきました」
五島が苦笑いを漏らす。
「それが嘘と分かっていても、それを言い切れるのが君だな。そしてブレーンは背後にいる男か」
五島が肩越しに留吉を指し示すと、横田は不服そうに首肯した。
「いえ――、まあ、そういうことです」
五島の関心はすぐに東洋精糖に戻った。
「なるほどな。一気通貫で把握できるようなビジネス形態を築ければ、それをあらゆる分野に適用できるだろうな」
五島の頭脳が回転し始めているのに、留吉は気づいた。それは留吉や横田の発想をはるかに上回るスケールなのだろう。
「その通りです。何事も試してみなければなりません。砂糖で一気通貫のビジネス形態を試し、それを多方面に展開していけばよいのです」
「まあ、一理あるな」
「そうですか。ぜひ一緒に戦って下さい」
「さっきは俺に任せると言ったじゃないか」
「いえ、まあ、その――、私にも少しはもうけさせて下さいよ」
五島が苦笑する。
「まあ、そんなことだろうと思ったよ」
「では、よろしいんで」
「まあ、待て。少し考えてみるので一人にしてくれ。後で連絡する」
そう言うと、五島は横田と留吉を制し、ボディガードと共に歩き去った。
Synopsisあらすじ
戦争が終わり、命からがら大陸からの引揚船に乗船した坂田留吉。しかし、焦土と化した日本に戻ってみると、戦後の混乱で親しい人々の安否もわからない。ひとり途方に暮れる留吉の前に現れたのは、あの男だった――。明治から平成へと駆け抜けた男の一代記「夢燈籠」。戦後復興、そして高度成長の日本を舞台に第2部スタート!
Profile著者紹介
1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学卒業。『黒南風の海――加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で第1回本屋が選ぶ時代小説大賞を、『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞と第1回高校生直木賞を、『峠越え』で第20回中山義秀文学賞を、『義烈千秋 天狗党西へ』で第2回歴史時代作家クラブ賞(作品賞)を受賞。
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