夢燈籠 狼を野に放て第35回

 岩井と共に、いつも通される居間で正座して待っていると、着流し姿の尾津喜之助が現れた。
「ご無沙汰いたしておりました」
「珍しいじゃないか。新聞で読んでいるが、横田もたいへんそうだな」
「はい。横田も勝負所を迎えています」
「あんたも、いつまでも横田の使い走りをやっていられないだろう。そろそろ身の振り方を考えた方がよい」
「仰せの通りです」
 尾津は悠揚迫らざる態度で、煙管(キセル)に煙草(タバコ)を詰め始めた。
「で、今日は何の用だい」
「ここに控えているのが、岩井という横田産業の顧問弁護士です」
 岩井の挨拶に、尾津がうなずいて答える。
「それで弁護士先生がどうした」
「お察しの通りです」
「金か」
 岩井が「は、はい」と言って畏(かしこ)まる。
「女かい」
「いえ、株です」
 尾津が紫煙を吐き出すと言った。
「今月で三人目だよ」
 留吉が問う。
「何がですか」
「決まってるじゃないか。株の信用取引で損をして金を借りに来た御仁さ」
「そうだったんですね」
 それを聞き、株式投資ブームが予想以上に広がっていると実感できた。
「でもな、俺は金貸しじゃない。だから俺が金を貸す場合は、トイチだと言っただろう」
「分かっています。しかし、われわれが頼れるのは、尾津さんしかいないのです」
「で、いくら借りたい」
「一千万円です」
「たいした額だな」
 留吉と岩井が頭を下げる。
「どうかお願いします」
「金貸しのところに行きたくないということは、低利で貸してほしいということだな」
 岩井がうなずく。
「はい。どうかお願いします」
「どのくらいの金利なら返せる」
 岩井は自分の収入と返済金をすでに計算してきていた。
「三ヶ月で一割ではいかがでしょう」
「おいおい、それでは、俺のもうけはなきに等しいじゃないか」
「それは分かっています。しかし岩井は、この金利でないと返済できないんです」
 尾津が苦笑いする。
「困ったな。道楽で金を貸すようになったらテキ屋もしまいだな」
 岩井が準備してきた計算書を渡す。
「こちらに返済計画があります」
「どれ」
 尾津が背後の引き出しから算盤を取り出すと、慣れた手つきで弾(はじ)き始めた。
「そうかい。三年で返せるっていうんだな」
 岩井が畳に額を擦り付ける。
「返します。必ず――」
「お前さんの方はどう思う」
 尾津が顎で留吉に返答を促した。
「私ですか」
「そうだよ。岩井君とは長い付き合いなんだろう。だったら、ここに書かれている通りに返せるかどうか分かるだろう」
 留吉は保証人同然の立場に追い込まれつつあった。
「この岩井という男は、これまで約束を違(たが)えたことはありません」
「つまり返せるというんだね」
「はい」
 尾津の視線が留吉の瞳をのぞきこむ。
 ――ここで自信のない素振りをしたら貸してくれない。
 その視線を受け止めると、留吉は深くうなずいた。
「よし、分かった。それ以上のことは聞くまい。その利息で貸してやるよ」
「ありがとうございます!」
 ひれ伏す岩井の背が歓喜で震えている。
「いいかい。俺もこの道で何十年も食べている。人を見る目だけは養われている。岩井さんとやら、あんただけならトイチでも金は貸さない。この男が保証したから貸すんだ。感謝するなら、この男にしな」
 尾津が高笑いする。
「なんで私を――」
「お前さんは、横田に貸した金をきっちり返したからな」
 確かに、留吉は尾津から借りた金を返した。横田が平和相互銀行から低利の融資を受けられたからだ。
「あれは幸いでした」
「幸いだろうが何だろうが、返した事実は変わらない。その信用があるからな」
「ありがとうございます」
 尾津が岩井に向き直る。
「岩井さんとやら、財布に穴を空けたのは、どうやら株だけじゃなさそうだな」
「えっ」と言って岩井が顔を上げる。
 ――まさか、岩井は俺に嘘をついていたのか。
「友だちにも、本当のことを言わないのはよくないぞ」
「も、申し訳ありません」
「やっぱりな。女か」
「はい。女に貢いでいました」
 啞然とする留吉を尻目に、尾津が厳しい口調で言う。
「嘘だけはいけない。嘘を一つつくだけで、人生は転落する。それを忘れちゃいけない」
「岩井、貴様――」
「すまない。もう二度と嘘はつかない」
 岩井が畳に額を押し付ける。
 ため息をつきつつ、留吉が尾津に詫びる。
「私が気づかず申し訳ありませんでした」
「嘘を見抜くには相手の目を見るんだ。自信なさそうに視線が揺れていれば、嘘をついている証拠だ。俺はそんな男を何人も見てきた」
「恐れ入りました」
「金は明後日だ。現金だとまずいだろうから、銀行で手続きしよう」
「ありがとうございます」
 震える声で岩井が何度も礼を述べた。

 この後、岩井は真実を語った。それによると夜の女に貢がされた挙句、金が足りなくなり、株や商品取引で取り戻そうと思い、借金をして株を買っていたという。
 留吉は呆れてものが言えなかったが、金の返済だけは滞りなく行うよう、岩井に釘を刺しておいた。
 岩井は留吉に何度も礼を言い、二度とこんなことのないようにすると誓った。だが一度壊した信用を回復するのは容易なことではない。留吉は岩井と距離を置こうと思った。

夢燈籠 狼を野に放て

Synopsisあらすじ

戦争が終わり、命からがら大陸からの引揚船に乗船した坂田留吉。しかし、焦土と化した日本に戻ってみると、戦後の混乱で親しい人々の安否もわからない。ひとり途方に暮れる留吉の前に現れたのは、あの男だった――。明治から平成へと駆け抜けた男の一代記「夢燈籠」。戦後復興、そして高度成長の日本を舞台に第2部スタート!

Profile著者紹介

1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学卒業。『黒南風の海――加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で第1回本屋が選ぶ時代小説大賞を、『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞と第1回高校生直木賞を、『峠越え』で第20回中山義秀文学賞を、『義烈千秋 天狗党西へ』で第2回歴史時代作家クラブ賞(作品賞)を受賞。

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