夢燈籠 狼を野に放て第20回

 三月九日、東京地裁は白木屋経営陣の提訴を認め、横田英樹と横田産業の株主としての権利に対し、議決権行使停止の仮処分を決定した。これにより三月末の株主総会で、横田は累積投票権を行使できなくなった。つまり白木屋に重役を送り込めなくなったのだ。
 社長室で横田は大荒れとなり、「裁判所も既成の財界人の肩を持つのか!」と怒鳴り散らし、居並ぶ役員に向かって「まずは金策だ!」と言って、それぞれのコネを生かして金を借りてくるよう命じた。というのも森脇から借りた金の金利がトイチなので、森脇から借りた分だけでも早急に返さねばならないからだ。
 しかも弱り目に祟り目で、四月十三日、公正取引委員会が横田産業を独占禁止法違反として審判手続きを開始した。
 横田が考える以上に、日本の守旧勢力の結束は強固だった。

 ――また、ここに来るとはな。
 留吉は新宿の角筈一丁目に立っていた。
 そこは以前と変わらず、「関東尾津組」と大書された看板が掛かり、その横には、「商品何でも買います」と殴り書きされた紙が貼りつけられていた。
 かつて横田は尾津を恐れていたが、背に腹は代えられず、留吉に尾津への金策を依頼した。
「ごめん下さい」
 大声で来訪を告げると、印半纏(しるしばんてん)をまとった若い衆が「いらっしゃいませ。お待ちしていました」と言って、尾津の応接室に案内してくれた。
しばらく待っていると、「待たせたね」と言いながら尾津が入ってきた。もちろん一人だ。
「用件は察しがつくよ。俺も新聞くらい読んでいるからね」
「ありがとうございます。お察しの通り、横田が追い込まれています」
 尾津は煙管を取り出すと、煙草(キセル)を詰めて吸い始めた。
「だから言わないこっちゃない。この世は自分の思い通りにはいかないもんさ」
 その言葉には、実際の経験から来る重みがあった。
「仰せの通りです。横田は予想外の事態と言っていましたが、相手にも頭があります。何の対策も打たずに、横田の思うままになるとは思えませんでした」
 留吉が事情を説明すると、尾津は何も聞き返さなかったので、すべて理解したのだろう。
「横田は得意満面だったろうね」
「そうです。『白木屋経営陣に手はない』と口癖のように言っていました」
「だが、相手陣営の誰かがその手を見つけた。おそらく敏腕弁護士が付いているのだろう」
「どうやらそのようです」
 岩井が人伝に尋ねたが、まだ白木屋側の弁護士の名は分からない。
「何事も希望的観測はいかん」
「仰せの通りです。返す言葉もありません」
「で、横田はわしに借金したいのだな」
「はい。問題は金利で、高い金を借りた相手に金を返し、適正な金利で借りたいのです」
「誰から金を借りている」
「森脇将光氏です」
 尾津が珍しい生き物でも見るような目を向ける。
「森脇だと。高利貸ではないか」
「はい。私は止めたのですが、横田が制止を聞かず借りてしまいました」
「ははは、森脇ということはトイチだな」
「そうです。それで横田は、早急に森脇に金を返したいのです」
「借り換えか。となると、新たな借り手からは、金利を五パーセント以下に抑えたいだろうな」
 留吉は体を固くして答えた。
「申し訳ありませんが、その通りです」
「横田という男は自分勝手だな」
「はい。それはもう」
 尾津が高笑いする。
「分かったよ。十日で五パーセントで構わない。借用書は横田の名義でいただくよ」
「ありがとうございます。それで――」
「いくら貸してくれるかだな」
「そうなんです。できれば五百万ほど――」
 尾津がゆっくりと煙管をふかしながら言う。
「兄さん、人というのは信頼関係だ」
「仰せの通りです」
「俺は、最初に会った時の兄さんの目つきや態度で、信頼できる相手だと思った。だがね――」
「横田は信頼できないと」
「まあね。俺は横田に会ったことがない。会ったことがない人間を、新聞記事や週刊誌を読んだだけで、どうこう言うつもりはない。俺は人の噂なんか信じない。悪口はもっとだ。信じられるのは自分の目だけだ」
 ここで言っている目とは、視覚という意味だけでなく、人間洞察力という意味も含まれているのだろう。
「その通りです。記者の意図が反映された記事や、人の噂を信じることほど愚かなことはありません」
 だが大半の人間は、それを信じてしまう。だから人は、少しでも悪口を言われないように生きねばならないのだ。しかし横田はそんなことを気にもせず、自分の思い通りに生きている。
「それが分かっているなら、俺が言うことはない。すぐに都合できるのは百万だ。それでもいいかい」
「それだけでも助かります」
 留吉は肩の荷が下りた気がした。
「『それだけでも』はよかったな」
「失礼しました」
「まあ、いいさ。だがね、この百万は俺だけではなく、マーケットで働く老若男女や尾津組の若い衆が、汗水垂らして稼いだ金だ。粗末に扱っちゃいけない」
「もちろんです。この私が責任を持って返済させます」
「ははは、そうでなければ困る。明日までに百万を用意しておくので、兄さんは横田の印が捺された借用書を用意しておけ」
何度も頭を下げながら、留吉が尾津の居室から去ろうとした時、尾津が一言言い添えた。
「分かっていると思うが、俺は尾津喜之助だ。それを忘れないよう、横田に伝えておきな」
「はい。間違いなく伝えます」
 そのドスの利いた声は、生死の境を何度も彷徨(さまよ)ったことのある留吉でさえ震え上がらせるに十分なものだった。

夢燈籠 狼を野に放て

Synopsisあらすじ

戦争が終わり、命からがら大陸からの引揚船に乗船した坂田留吉。しかし、焦土と化した日本に戻ってみると、戦後の混乱で親しい人々の安否もわからない。ひとり途方に暮れる留吉の前に現れたのは、あの男だった――。明治から平成へと駆け抜けた男の一代記「夢燈籠」。戦後復興、そして高度成長の日本を舞台に第2部スタート!

Profile著者紹介

1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学卒業。『黒南風の海――加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で第1回本屋が選ぶ時代小説大賞を、『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞と第1回高校生直木賞を、『峠越え』で第20回中山義秀文学賞を、『義烈千秋 天狗党西へ』で第2回歴史時代作家クラブ賞(作品賞)を受賞。

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