夢燈籠 狼を野に放て第3回
三
横田産業は石造りの三階建てビルに入っていた。まだ小さな商店のようなものだと思っていたが、どうやらビルを丸々借りているらしい。
横田らしい見栄なのか、横田産業と書かれた銅板のプレートは、一流企業に遜色ない大きさだ。
受付嬢などいないので、出入口付近を歩いている人を呼び止めて名乗ると、「中に入って言ってくれ」とのことだったので、勝手に社内に入って取り次いでくれそうな人を捜した。
その時だった。奥の部屋のドアが大きな音を立てて開くと、きれいに分けられた髪にポマードをべったりと塗った蝶ネクタイ姿の男が、書類を持って飛び出してきた。
「おい、関西の西山商店に、まだ商品が届いていないというぞ!」
若い社員が直立不動の姿勢で答える。
「すいません。すぐに確かめます」
「全くどいつもこいつもたるんでいやがる」
男が憤然として部屋に戻ろうとしたので、留吉が背後から声を掛けた。
「横田君、俺だ」
「俺って誰だ!」と言って振り向いた横田の顔色が変わる。
「ま、まさか。兄貴、生きていたんですか!」
「ああ、何とかな」
事務所のど真ん中で横田が抱きついてきた。
「兄貴、会いたかった」
事務員たちは、横田の芝居じみた態度に慣れているのか、平然と自分の仕事を続けている。
「俺もだが、とにかく奥に行こう」
「そうだ。そうしましょう」
愁嘆場を演じたくないので、留吉の方から横田の部屋へ誘った。
留吉を先に入れると、横田が事務員に怒鳴った。
「おい、コーヒーを持ってこい!」
客には手厚くするが、自分が雇っている人間には手厳しい経営者は多いが、横田もその口のようだ。
「どうぞ、そこにお掛け下さい」
横田が客用のシートを指し示す。
「上等なソファーを使っているんだね」
そのソファーは総革張りで重厚感があり、満州の金持ちの家でも、なかなかお目にかかれないものだ。
「進駐軍の将校が帰国するというので、譲ってもらったんです」
「そうか。横田産業は、もう進駐軍にも入り込んでいるんだな」
「社名を覚えていただき、ありがとうございます」
横田が名刺を出した。
「横田商店では小売専門のように思われるので、産業としました」
「まさか、卸もやっているのか」
「はい。卸どころか、製造も始めています」
「たいしたものだな」
横田の商魂は想像を上回るものだった。
「ところで坂田さんは、今までどこにいらしたのですか」
「満州だよ。満鉄調査部にいた」
「やはり満州でしたか。あちらで会えなかったですね」
「なんだ、君も召集されていたのか」
「ええ、まあ」と言いながら、横田は煙草を出すと一本勧めてきた。礼を言ってそれを受け取ると、金ぴかのライターで如才なく火をつけてくれた。
「私は昭和十四年の夏に兵隊に取られ、満州に行きました。一年半勤めて現役除隊となったので、その時の伝手を生かし、海軍衣料廠に制服などを納入していました」
横田は海軍中将にうまくとり入り、賄賂を渡すことで、御用商人のような立場を築いた。そして海軍陸戦隊の防暑服の納入を皮切りに、多くの衣類や備品を納入した。しかもミシンが足りないと某中将に泣きつき、日本軍が南方で接収した電動ミシンを何百台と無償で入手した。さらに中将を動かし、大宮の工場では女学生を勤労動員させた。つまり原材料費はかかるものの、設備費と労賃が無料なので暴利を貪ることができたという。
さらに繊維商品だけでなく、ガソリンの横流しまでやり、訳ありな相手の足元を見て支払いを遅延したので、危うく殺されそうになったと語った。
「転んでもただでは起きないのは、さすがだな」
「しかし開戦となったので、すぐに再召集され、今度は満州で憲兵軍曹になりました」
「君が憲兵か。世も末だな」
「ははは、その通りです。今度は陸軍に伝手を得たのですが、昭和十七年の五月に除隊となりました。外地にいたので、軍の事情にも精通でき、帰国後すぐに繊維製品の製造に全財産を投入しました」
内地ではなかなか心を開かない軍人も、外地では解放感からか、軍の機密まで漏らすことがある。横田自身が憲兵軍曹なので、身内として扱われたに違いない。
「つまり軍の制服とか備品が足りなくなってきたんだな」
横田が派手な音をさせて、運ばれてきたコーヒーをすする。
「そうなんです。そこに目をつけ、陸海軍に伝手もできたので、軍需省の管理工場にしてもらいました」
管理工場とは、陸海軍に優先的に軍需品を納入できる資格で、軍需品を最優先で製造しなければならない。設備の移転、拡張、縮小などに陸海軍大臣の認可が必要な反面、一般工場に比べ、発注価格から納期まで、あらゆる点で有利なので、暴利を貪ることができた。
「たいしたものだな」
「それでも、終戦の時は工場も焼けてたいへんでした」
「君のことだ。それも乗り切ったのだろう」
「ええ、まあ」
横田によると、海軍省の支払いが停止される直前、横田は親しい海軍将校と結託し、膨大な量の防暑服を軍に納入したという偽の書類を作成し、日銀から多額の金を騙し取ったという。日銀の職員も敗戦で捨て鉢になっていたのか、簡単に支払われたらしい。
「卸や小売りでのもうけは、高が知れています。それで製造に手を出したのです」
「さすが、よいところに目をつけたな」
「多くの軍需工場が、設備をそのままにして廃墟となりつつありましたからね。政府に掛け合って、『地域の産業を復活させ、雇用を増やしたい』と申し出ると、ただのような値段で払い下げてくれました。それで、あっという間に立ち直りました」
「呆れたな」
「今、うちの工場は東京の池上、埼玉の大宮、山梨の石和にあり、三千人の行員を雇っています」
横田が笑みを浮かべて胸を張る。この時代、労賃は雀の涙でも働きたいという者が多いので、横田はただ同然の給料で人を雇い、働かせているという。後で知ることになるが、すでに横田は田園調布三丁目に広大な土地と邸宅を十五万で購入し、そこで夫人と二人の子供と共に暮らしていた。その玄関には、いつも大きなリュックサックが十ばかり転がっており、その中から札束がはみ出ていたという。
「君は経営の天才だな」
「そんなことはありませんよ。何とか隙間に入り込んだだけです。この世には、もっと世渡りのうまい奴らがいますからね」
横田が謙遜する。おそらく横田は、戦後のどさくさに紛れ、暴利を貪った連中を多く知っているのだろう。
留吉は満鉄調査部などに行かされたことで二年近くも抑留され、戦後の混乱期という絶好の機会に何かをなすことはできなかった。だが、横田ほど欲も度胸もあるわけではないので、しょせんチャンスを生かせなかっただろう。
――戦争成金か。羨ましいな。
それが、明日のあてもない留吉の偽らざる本音だった。
「君は若いのにたいしたものだ」
横田は老けない顔なのか、少年のようにも見える。
「いえいえ、こんなもので満足はしていません」
「というと、次の事業計画でもあるのかい」
「もちろんです。実は進駐軍御用工場の指定を受けたので、これからは進駐軍の衣類や備品を独占するつもりです」
「そうか。それは凄いな」
横田のあまりの栄達ぶりに、留吉は舌を巻いた。
「そこで相談です」
「相談て、俺にか」
留吉は啞然とした。
「だって、仕事のあてはあるんですか」
「仕事のあてか。実は何もない」
横田がにやつきながら問う。
「だから、ここに来たんですよね」
「まあ、そういうことだ」
「ブン屋(新聞記者)に戻りたいのなら、朝日でも毎日でも口を利きますよ」
「いや、ブン屋はもうやめようと思っている」
元々、新聞記者になりたくてなったのではなく、行きがかり上なっただけなので、記者の仕事に未練はない。
「分かりました」と言うと、横田が威儀を正した。
「では、私の相談に乗って下さい」
「話だけでも聞こう」
「ありがとうございます!」と言うと、横田は背後の金庫に飛びつき、それを開けると、札束を抱えてきた。
「これをお受け取り下さい」
かなりの量の札束が留吉の眼前に置かれる。
「何もしないで、受け取るわけにはいかない」
さすがの留吉も、その芝居じみた態度に鼻白んだ。
「いや、これからしていただきます」
「何をしてほしいのだ」
「実は、ここにある一万円を元手に京都支店を開いていただきたいのです。もちろん京都支店長の座を用意しています」
この時代の一円は現代価値に直すと三百三十八円なので、一万円だと三百三十八万円になる。当時の物価を考えれば、支店一つ出すには十分な額だ。
「おい、待てよ。俺は一介の新聞記者上がりだ。こんな大金を託すべきではない」
「とんでもありません。坂田さんだから託せるのです」
「どうしてだ」
横田が真摯な眼差しを留吉に向ける。
「坂田さんは、満州の油田事業に粉骨砕身したと聞きました」
「ああ、そうだ。だけどな――」
「坂田さんなら、横田英樹の運命を託すに足ると信じています」
「この大金を持ち逃げするかもしれんぞ」
「その時は差し上げます」
「何だと――」
――こいつも真剣勝負なのだ。
留吉は横田の度胸に舌を巻いた。
「もしこの大金を坂田さんが持ち逃げしたら、それは私の人を見る目がなかったということです。ヤクザを使って追いかけたり、訴えたりはしません。何と言っても、坂田さんは命の恩人の上、石原将軍を紹介してくれたのですから、謝礼として一万円は安いくらいです」
石原の最終軍歴は中将なので将軍と呼んでもおかしくないが、そういう呼び方をする者は誰もいない。
「でも、あれは戦前のことだしな」
「この横田英樹、他人様から受けた恩義には必ず報いるのをモットーとしております」
「そうか。ありがたい申し出だが、私は繊維ビジネスには素人だ」
「ビジネスというのは、すべて同じです。安く仕入れて高く売る。この鉄則は不変なので、その原則を守っていれば失敗はありません」
「そういうものか」
「はい。そういうものです」
横田がテーブルに両手をつき、頭を下げた。
「どうか、この横田英樹を男にしてやって下さい」
――横田の申し出を断っても、何かあてがあるわけではない。これも運命なのか。
留吉は、ここが人生の岐路のような気がした。
「よし、やってみるか」
「ありがとうございます!」
横田が晴れ晴れとした顔で言った。
Synopsisあらすじ
戦争が終わり、命からがら大陸からの引揚船に乗船した坂田留吉。しかし、焦土と化した日本に戻ってみると、戦後の混乱で親しい人々の安否もわからない。ひとり途方に暮れる留吉の前に現れたのは、あの男だった――。明治から平成へと駆け抜けた男の一代記「夢燈籠」。戦後復興、そして高度成長の日本を舞台に第2部スタート!
Profile著者紹介
1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学卒業。『黒南風の海――加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で第1回本屋が選ぶ時代小説大賞を、『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞と第1回高校生直木賞を、『峠越え』で第20回中山義秀文学賞を、『義烈千秋 天狗党西へ』で第2回歴史時代作家クラブ賞(作品賞)を受賞。
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