夢燈籠 狼を野に放て第50回
第四章 かくも悲しく生きむ世に
一
昭和三十五年(一九六〇)、留吉は五十二歳になった。
横田との腐れ縁を断ち切れず、平凡な日々を送る留吉とは対照的に、時代は沸騰してきていた。
同年一月、岸信介首相らが米国に行き、改定された新安保条約に調印することで、国会は安保条約調印をめぐって紛糾し、労働組合、市民団体、学生からも、激しい反対の声が上がっていた。政治の季節がやってきたのだ。
そんな世間の騒ぎとは距離を置き、留吉は何者かになろうともがいていた。
人生は特急列車のように過去を置き去りにしていく。五十歳という節目の年を超えた留吉には、とくにそれが強く感じられた。
――人間(じんかん)五十年か。
戦国時代、天下取りまであと一歩のところで、織田信長は明智光秀の裏切りに遭い、本能寺で無念の死を遂げた。その時、信長は数えで四十九歳だった。
信長は幸若舞の「敦盛(あつもり)」を舞うのを好んだが、最期の時も、「人間五十年、下天のうちに比ぶれば、夢幻のごとくなり」と謡(うた)い、舞ったという。
――その心中には、無念や悔恨(かいこん)と同時に「やるだけのことはやった」という達成感があったに違いない。
もし信長が本当に「敦盛」を舞ったとしたら、そこには様々な感情がないまぜになっていたに違いない。
――だが、俺はどうだ。
留吉がここで死んだとしたら、人生を無駄に生きた無念や悔恨だけが残るだけだ。
――俺は状況に流され、ただ生きてきただけだ。何一つ自分で選び取ってはいない。
それを思うと悲しさが込み上げてくる。
――俺には、もう一廉(ひとかど)の者になれるチャンスはないのか。
かつて知り合いだった中原中也は、若くして人生の灯を燃やし尽くした。同じく若くして名を挙げた三島由紀夫は、これからどんどん大きくなっていくだろう。
――だが俺は、しがないサラリーマンのままだ。
商法上の役員の上、人並み以上の給料をもらっているので、しがないというのは当たらないかもしれない。だが留吉は、平穏無事な生涯を送りたいのではなく、自分で人生を選び取っていける一廉の者になりたいのだ。
何事か呟(つぶや)きながら、横で女が寝返りを打った。名前さえ何というか定かでない行きずりの女だ。いや、正確には売春婦なのだろう。声をかけてきたのは女からだった。留吉のような中年の親父が、たとえ行きずりでも、バーで女を引っ掛けられるわけがないからだ。
――こんなことではだめだ。
そうは思いつつも、どうしても酒に逃げてしまう。そして酔えば、寂しさを紛らわせるため、行きずりの女か売春婦を買っている。
女の安っぽい化粧の臭いが鼻につく。そんなにひどいレベルの女ではないが、年は四十前後なのだろう。日々の生活の疲れが顔に表れている。
――「かくも悲しく生きむ世に」、か。
かつて中原の詠んだ詩の一節が脳裏に浮かぶ。
――中原よ、そんなに悲しかったのか。
だが中原なら、傲然と胸をそびやかして言うだろう。
「悲しいさ。だがな、お前のみじめな人生を哀れむ余裕はある」
――その通りだよ、中原。俺の人生はごみ溜めだ。
留吉はベッドから起き上がり、三万円を女のバッグの上に置くと、ベランダに出て煙草を吸った。
空は白んで来ており、都会の喧騒(けんそう)が徐々に始まりかけているのが感じられる。
――でかいことをする必要はない。大金持ちになりたいわけではない。自分で道を選べることが大切なのだ。
横田産業のような二流会社でも、役員でいる限り生活は苦しくない。だが、ここで一念発起しない限り、自分で摑み取る人生は遠のいていくような気がする。
空は橙(だいだい)色に染まり、どこかの工場のものか、夜勤明けのチャイムが聞こえる。
その時、背後のサッシ戸が開き、女の「帰るわ」という声が聞こえた。留吉が振り向かず、「ありがとう」と言うと、女は「こちらこそ」と返してサッシ戸を閉めていった。
――三万円なら十分だろう。
女といくらでディールしたかなど覚えていない。だが金で揉めるのが嫌なので、相場に少し色を付けておいた。それで女は満足なのだろう。
二本目の煙草に火をつけようとした時、あることが閃(ひらめ)いた。
有給休暇を取っていたので、横田産業に出社すると、誰もが怪訝(けげん)な顔をした。だが次の瞬間、「また、社長から呼び出されたんだな。気の毒に」という顔に変わった。
――俺は横田の腰巾着のように思われているからな。
横田から重用されていることで、社員の顔には嫉妬ややっかみに近いものもある。だが留吉の仕事内容を知る者は、「気の毒に」と思ってくれるはずだ。
秘書に取り次いでもらうと、横田の了解をすぐにもらえた。
社長室に入ると、横田が意外そうな顔で言った。
「あれ、今日は休みではなかったのかい」
「休みでしたが、あることを申し上げようと思いまして」
「何だね」
横田が書類に目を落とす。留吉の言うことなど関心がないと言わんばかりだ。
「そろそろ身を引かせてもらおうかと――」
「また、それかい」
すでに何度か「退社したい」ことを横田に告げていたので、横田も驚かない。
「はい。今度はよい提案を持ってきました」
「どんな提案だい」
「社長は、米国に社外取締役という制度があるのを知っていますか」
「そんなものは初耳だね」
横田が煙草に火をつけた。明らかにうんざりしている。
「まずは聞いて下さい。社外取締役というのは――」
留吉が説明を始めたが、横田はいかにも退屈そうな顔をしている。
「米国の株式会社では、取締役会が経営陣の支配下に置かれ、独立性を欠いていました。つまり経営陣イコール取締役だったのです。そのため内部統制が脆弱で、不正行為を抑制することができませんでした。つまり不正会計や横領が横行していたのです。また株主の権利が軽視され、社会的責任も欠如していました」
「おい、おい、それは君の専門分野ではないだろう」
「分かっています。いいから最後まで聞いて下さい」
横田がため息を漏らす。
「それで米国では、経営陣から独立した社外取締役を取締役会に加えることで、経営陣の監督を強化し、経営の健全化を図ろうとしたのです」
「余計なことだ。うちには要(い)らん」
「分かっていますが、まず前提として、そうした制度があることを知っていただきたかったのです。それを応用すれば、私の名を取締役として残したまま、私に自由を与えることができるはずです」
横田産業の信用は、留吉で持っていると言ってもよかった。そのため横田は留吉を手放したくない。そのため留吉は、名を残しながら独立できる方法を考えてきた。
「おいおい、うちの仕事をしない者に給料は払えんよ」
「役員報酬のことですね。それは要りません」
「そんなことが、法律上、許されるのかね」
「許されます。会社法や法人税法で、役員報酬の設定は会社の裁量に任されており、報酬をゼロにしても、私さえよければ取締役に名を残せます」
横田が煙草を乱暴に揉み消すと、身を乗り出してきた。
「では、君はもう私のために働かないんだね」
「そうは言っていません。一つの事案、つまり英語で言うと、プロジェクトごとにお手伝いし、働いた分に見合った報酬を頂きます」
そうなれば、外から見た時、これまでと何ら変わらず、留吉は横田を手伝うことができる。
「つまり普段は自分の仕事をし、私から依頼された時だけ、うちの仕事を引き受けるというのか」
「そうです。特定のプロジェクトだけお手伝いします」
「もしも私が、それは駄目だと言えば――」
「今月で失礼させていただきます」
横田がため息をつく。
「うちにとって君は必要なんだよ。これまでもよくやってくれている。報酬も引き上げようと思っていたところだ」
それが思いつきの嘘なのは、これまでの横田の言動から明らかだが、留吉は礼を言った。
「ありがとうございます。しかし私には、やりたいことがあるんです」
「それは何だね」
留吉は言おうか言うまいか迷ったが、どのみち知られることなので明らかにした。その方が横田も変な勘繰(かんぐ)り、つまりライバル企業に移るとか、独立して横田と同じような乗っ取り屋になるといった邪推をしないからだ。
「新聞です」
「えっ、あの朝日とか毎日の新聞かい」
「そうです。実は、ある新聞社の経営者に誘われていまして」
「つまり社長になるのか」
「はい。もちろん小さな新聞社ですが、頑張れば大きくできます」
横田が笑いながら首を左右に振る。
「そんな仕事はもうからないよ」
「分かっています。それでもよいのです」
「そうか。君は新聞記者をやっていたからね。それが志(こころざし)だったんだね」
元を正せば、偶然から新聞記者になったのだが、こうなってしまえば嘘も方便だ。
「はい。それが若い頃からやりたかったことなんです」
「そうか。それなら仕方ないな」
ようやく横田が納得してくれた。
「では、許していただけますね」
「言うまでもないことだが、うちに名を残すからには、基本契約を取り交わしてもらうよ」
「もちろんです」
横田から望まれて残るのだが、この場は反論しても仕方がない。
「契約条件は岩井さんに伝えておく。後は二人でやってくれ」
「分かりました。ありがとうございます」
社長室を出ると、これまで感じたことのない解放感に包まれた。
――これが自由というものか。
何物にも囚(とら)われないことが、こんなに気分がよいことだとは知らなかった。
思わず笑みがこぼれる。それを不思議そうな顔で見る社員たちを尻目に、留吉は外に出た。すると、もっと強い解放感が襲ってきた。
――俺は自由だ!
心の中で快哉を叫びつつ、留吉は公衆電話に走った。もちろん尾津喜之助に連絡するためだ。
Synopsisあらすじ
戦争が終わり、命からがら大陸からの引揚船に乗船した坂田留吉。しかし、焦土と化した日本に戻ってみると、戦後の混乱で親しい人々の安否もわからない。ひとり途方に暮れる留吉の前に現れたのは、あの男だった――。明治から平成へと駆け抜けた男の一代記「夢燈籠」。戦後復興、そして高度成長の日本を舞台に第2部スタート!
Profile著者紹介
1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学卒業。『黒南風の海――加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で第1回本屋が選ぶ時代小説大賞を、『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞と第1回高校生直木賞を、『峠越え』で第20回中山義秀文学賞を、『義烈千秋 天狗党西へ』で第2回歴史時代作家クラブ賞(作品賞)を受賞。
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