夢燈籠 狼を野に放て第49回
十七
八月八日、秋山側の反撃が始まった。東急側新社長の職務停止仮処分申請が出されたのだ。そして十日、東京地方裁判所では、秋山側の申請を全面的に認める判決が下される。この時代、こうした判決は乗っ取り側に対して圧倒的に不利だった。
これを受けて十三日、臨時株主総会が開かれた。この時、東洋精糖の総発行株式二千万株のうち、秋山側は九百十万株、東急側は横田所有のものも含めて八百六十万株で、やや秋山側が有利だったが、第一生命と安田火災海上の百八十五万株が東急側となる予定なので、それを合わせると東急側が一千株、すなわち過半数を超えることになる。
ところが東急側が主張した秋山利郎の代表取締役解任動議は、三分の二の賛同を得られずに否決され、秋山側の主張する第一生命と安田火災海上の寝返り役員二人の解任動議も同様に流れた。
双方は痛み分けとなったが、東急側は薄氷を踏む思いだった。実はこの頃、五島慶太が危篤状態に陥っていたからだ。もしも臨時株主総会の直前に亡くなっていれば、不利になることは確実だった。
そして翌十四日の午前二時頃、五島慶太は息を引き取る。波乱に満ちた七十七年の生涯だった。死因は糖尿病などから来る脳血管系疾患だった。
これにより事態は大きく動き出す。
「何だって! 五島さんがお亡くなりになっただと!」
十四日の午前八時、留吉と東洋精糖をめぐる件で打ち合わせしていた横田の許に電話が入った。
――やはり持たなかったか。
今日明日が山場と聞いていたので、その旨を横田に知らせていたが、横田は「人は死ぬ死ぬと言いながら、三ヶ月や半年は持つものだ」と言ってうそぶいていた。
「こいつはまいった」
横田が頭を抱える。
横田にとって大恩ある五島の死を悼むよりも、東洋精糖の法廷闘争が不利に働くことの方が頭の痛い問題のようだ。
「慶太氏は後任の五島昇氏に引き継ぎを終わらせていると聞いています。心配は無用では」
慶太の長男の昇は四十三歳の働き盛りで、すでに父から帝王学を学び、政財界でも顔が売れていた。
「だといいんだがな」
「何か懸念でも――」
「風の噂なんだが、昇氏は私のことをよく思っていないらしい」
「たとえそうだとしても、ビジネス面での付き合いですから、割り切って考えているはずです」
「そうかな。人というのは感情の生き物だ。とくにトップとなることを宿命づけられている者は、周囲からちやほやされてきているので、『これもビジネス』と割り切って考えることをしない」
この時の横田の懸念は、間もなく現実となる。
八月二十四日、慶太の葬儀などが一通り終わったので、昇は東急本社の大会議室に社員を集め、「本業回帰」をテーマとした訓辞を垂れた。金を稼げるなら何にでも首を突っ込んだ慶太と違い、昇は生真面目な一面があり、無理をしないことをモットーとしていたからだ。
九月一日、側近たちに「東洋精糖を切る」ことを告げた昇は、横田の思いなど一顧だにせず、仲介役の大映社長・永田雅一を介して児玉と話し合い、八百五十万株を一株三百円として二十五億円五千万円で売却することで合意した。
その話が決まってから、昇の側近から横田に電話が入り、横田の持ち株も売却するかどうか打診があった。すべてを慶太に任せていた横田には、再び戦うだけの気力も財力もなかった。そのため売却に合意せざるを得なかった。
九月十日、東洋精糖と東急の和解の調印式が行われた。東洋精糖側は秋山利郎、東急側は五島昇、斡旋人として永田雅一と児玉誉士夫も同席した。
双方は調印を済ませ、最終的には秋山側が守り切った形になった。だがこの席で、有頂天になった利郎が、昇と握手している写真をマスコミに撮らせることを求めたが、昇はやんわりと拒絶した。そこには、東洋精糖など相手にしていないという東急グループ総裁の矜持(きょうじ)があった。
かくして東洋精糖の一件は落着した。慶太の死という衝撃を、新たな時代の幕開けとした昇は大いに男を上げたが、その逆に、慶太の死によって急激に坂道を転がり落ちていく男がいた。言うまでもなく横田である。
そして人生の名利に迷い込んでしまった留吉も、それは同じだった。
Synopsisあらすじ
戦争が終わり、命からがら大陸からの引揚船に乗船した坂田留吉。しかし、焦土と化した日本に戻ってみると、戦後の混乱で親しい人々の安否もわからない。ひとり途方に暮れる留吉の前に現れたのは、あの男だった――。明治から平成へと駆け抜けた男の一代記「夢燈籠」。戦後復興、そして高度成長の日本を舞台に第2部スタート!
Profile著者紹介
1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学卒業。『黒南風の海――加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で第1回本屋が選ぶ時代小説大賞を、『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞と第1回高校生直木賞を、『峠越え』で第20回中山義秀文学賞を、『義烈千秋 天狗党西へ』で第2回歴史時代作家クラブ賞(作品賞)を受賞。
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