夢燈籠 狼を野に放て第26回

十四

 ――知らぬ間に、俺も闇の世界に足を踏み入れてしまったんだな。
 朝日がわずかに反射する天井の節目を見つめつつ、留吉はぼんやりとしていた。
 ここのところ、留吉の心の中に江ノ島の燈籠は現れない。それは留吉から迷いがなくなったとも考えられるが、燈籠から見捨てられたとも取れる。
 ――まあ、いいさ。奴は突然現れる。
「何を考えているの」
 下着姿の女が煙草を吸いながら問うてきた。
「何も考えていないさ」
「その顔は、何か考えているとしか思えないわ」
 それには何も答えず、留吉も煙草に手を伸ばした。
 女は昨夜、新宿の盛り場で引っ掛けてきただけで、付き合っているわけではない。女から話しかけてきたので、半ば売春婦なのだろう。
 ――女か。
 過去の恋愛が蘇る。だが今は、たまに盛り場で引っ掛けた女を抱くだけで満足している。一方、岩井は茨城あたりの農家の娘を見合いでもらったと言っていたが、披露宴をしないのでご祝儀も出しそびれている。
 ――そういえば、岩井とも距離ができたな。
 一緒に仕事をしているとはいえ、仕事の話が大半を占めるうちに、逆に岩井と距離ができた気がする。
「あんたは不思議な人ね」
 女が唐突に言う。
「何が不思議なんだい」
「寂しさを紛らわせるでもなく、性欲を満たすでもなく、何のために女を抱くの」
「ははは、そのどちらでもないと思ったのかい」
「うん。あんたの心は虚ろ」
「虚ろか。随分難しい言葉を知っているんだな」
 留吉は煙草を深く吸い込むと、紫煙を吐き出した。それが女の顔に掛かりそうになったので、女が手で払った。
「馬鹿にしないでよ。私だって本くらい読むわ」
「どんな本だい」
「三島由紀夫よ」
 留吉はどきりとしたが、それを隠して問うた。
「三島のどんなのを読んだ」
「友だちが『仮面の告白』という本を貸してくれたの」
「それはよかったな。で、どうだった」
「何だかよく分からなかったわ」
 留吉はつい噴き出してしまった。
「君は正直でいい」
「だから、馬鹿にしないでよ」
「ごめん、ごめん。それで君は『仮面の告白』を読んで虚ろ、つまり虚無を感じたのかい」
「うん。実を言うと、貸してくれた友だちに、『この作品は、何が言いたかったの』と聞いたのよ」
 女はベッドに腰掛け、二度目を望むかのように流し目を送ってくる。だが留吉は、そんな気はとうに失せ、ただ会話を楽しんでいたかった。
「そうか。友だちっていうのは男性だね」
「そうよ。だから何さ」
「で、その友だちとやらは何と答えた」
「彼は、『この作品には、自分が憧れていた強くて美しい人間になれなかった虚無感が描かれている』だって」
 それを聞けば、その男が作品内容やテーマをしっかり把握していると分かった。
「当たらずとも遠からずだな。それで――」
「それで私は『虚無感って何さ』って聞いたの」
「それが虚ろってわけか」
「そう。『人は皆、虚ろの中でもがいているだけ。いわば金魚鉢の中の金魚のように、一生脱出口を探し続けている』とも言っていたわ」
「なるほど、確かにその通りだ」
 女が横たわる留吉の足を撫でながら問う。
「あんたは『仮面の告白』を読んだの」
「うん」と答えようとした留吉だったが、首を左右に振った。
「いいや」
「じゃ、あれは何なの」
 女の指さす先の本棚に『仮面の告白』の背表紙が見えた。
「買ったけど、難しそうだから読む気にならなくてね」
 めんどうなので、留吉は嘘をついた。
「やけに偉そうに言うから、読んだものと思っていたわ」
 女はベッドから立ち上がると、「そろそろ行くわ」と言って洋服を着始めた。それを見た留吉は枕元の財布を手に取り、一万円札を出した。
「これでいいかい」
女は笑みを浮かべて「ありがとう」と言った。おそらく十分な額なのだろう。
女はバッグに一万円札を収めると、バッグを肩に担ぐようにして聞いてきた。
「それで、あんたは三島を読む気になった」
「いいや」
「そうね。あんたには向かないかもね」
 そう言い残すと、女は出ていった。
 ――三島は戦後の日本社会に対して虚無感を抱いている。何か浮ついた平和のようなものの中に、自分の生きる場所はないと感じているのではないか。逆に少年時代の戦争体験が鮮烈に過ぎ、それが彼の生涯を決定づけているんだ。
 三島にとって「生きている」という感覚は、生きるか死ぬかの瀬戸際で過ごした戦中にあったのだろう。もう少し早く生まれていれば、志願してゼロ戦のパイロットにでもなったかもしれない。
 ――俺のような穴掘りではなくてね。
 留吉は自嘲すると、灰皿で煙草をもみ消した。
 いくつかの偶然から、大陸の資源開発に全力を尽くした留吉だったが、それは空(むな)しい努力に終わり、日本は南方に資源を求め、やがてそれが引き金となって太平洋戦争に突入せざるを得なくなった。その結果は、誰も想像できないほど悲惨なものだった。
 ――そして今、俺はまたドツボにはまりそうになっている。
 留吉はため息をつきたい気分だった。
 時計を見ると、九時を指している。ここのところ土日もない忙しさだったので、今日は有給休暇を取っている。だがいつ何時、横田に呼び出されるか分からない。
 ――やはり、そろそろ身を引くべき時だな。
 危険な道に踏み出してしまった留吉だが、今ならまだ引き返せる気がした。
 ――ここで下りれば、何者にもなれない人生になりそうだが、危ない橋を渡るよりはましかもな。
 留吉の中で、ある決意が凝固しつつあった。
 その時、電話が鳴った。

夢燈籠 狼を野に放て

Synopsisあらすじ

戦争が終わり、命からがら大陸からの引揚船に乗船した坂田留吉。しかし、焦土と化した日本に戻ってみると、戦後の混乱で親しい人々の安否もわからない。ひとり途方に暮れる留吉の前に現れたのは、あの男だった――。明治から平成へと駆け抜けた男の一代記「夢燈籠」。戦後復興、そして高度成長の日本を舞台に第2部スタート!

Profile著者紹介

1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学卒業。『黒南風の海――加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で第1回本屋が選ぶ時代小説大賞を、『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞と第1回高校生直木賞を、『峠越え』で第20回中山義秀文学賞を、『義烈千秋 天狗党西へ』で第2回歴史時代作家クラブ賞(作品賞)を受賞。

Newest issue最新話

Backnumberバックナンバー