夢燈籠 狼を野に放て第14回
第二章 餓狼たちの宴
一
日本は大きく変貌を遂げようとしていた。
昭和二十年の終戦に始まり、同二十一年の昭和天皇の人間宣言と「日本国憲法」の公布によって新生日本は立ち上がり、昭和二十五年を過ぎる頃には、しっかりとした足取りで歩み始めていた。
昭和二十六年(一九五一)二月、昨年から活動を開始していた留吉と岩井は、着々と実績を挙げていた。
白木屋では毎年、一月末の決算の度に株主名簿が更新されるので、それを入手し、ある程度の株数を保有している個人株主の許を訪問し、プレミアムを載せて株の譲渡を申し入れる。中には買い占めをやっているのかと察し、値上がりを待つために譲渡を渋る株主もいたが、そうした者の許はあっさりと去るので、逆に連絡をしてくるのが常だった。というのも、買い占めが始まれば白木屋の株が上がるのは事実だが、この頃はどの株も暴騰を続けており、ある程度の額で買ってくれるなら、いつになるか分からない白木屋の株が上がり始めるのを待つよりも、別の株に乗り換えた方が得をするからだ。または株価が上がり始めたら、また買えばよいのだ。
だいたい白木屋の株を持っている個人株主は、さほど株に熱心ではなく、買い占めが始まれば、株価が暴騰することを知らない人も多かった。
この日、留吉は一人、復興著しい新宿に来ていた。新宿もほかの東京の街同様、無差別爆撃によって八割ほどが焼失していた。新宿は戦前から繁華街となっていたので、罹災者は二十二万人に及んだ。それに対して政府は何もできず、罹災者は個々に何とかしなければならなくなっていた。
――この辺りか。
新宿の角筈(つのはず)一丁目には以前に来たことがあるが、都内の各所と同じく、戦前とは様相が一変していた。
「ごめんよ」と言いながら、大八車に荷を載せた老爺が通り過ぎていく。それが止まった先には、「関東尾津(おづ)組」と大書された看板が掛かり、その横には「商品何でも買います」と殴り書きされた紙が貼りつけられていた。
――ここに株主がいるのか。
門が開け放たれていたので中に入ると、先ほど追い抜いていった老爺が、「関東尾津組」と背中に書かれた印半纏(しるしはんてん)をまとった若者と向き合っている。
「いくらうちでも、こんなものは買えねえよ」
「そこを何とかしておくんなさい。これが売れないと、嬶と二人で心中せにゃならんのです」
「こっちの知ったこっちゃねえよ。さっさと帰れ」
どうやらその老爺は、表に書いてある「商品何でも買います」という貼り紙を見てきたらしい。
その時、奥から着流しの男が出てきた。
「何をやっている」
身長百八十センチメートルに達するかと思えるほどの巨漢だ。
「あっ、親分、この親父さんが、廃品を金に換えてくれって言ってきたんで」
「どれ」
親分と呼ばれた男が、大八車の上に載っているものを確かめる。そのどれもが焼け跡から掘り出してきたような古い家財道具だ。
「これは引き取れねえな」
「そこを何とか」
「仕方ねえな」
親分は懐に手を入れると、金らしきものを取り出した。
「これで、嬶とうめえもんでも食いな」
「あ、ありがとうございます」
「親分、よろしいんで」
「おめえは黙ってろ!」
大八車の上のものを下ろそうとする老爺の手を親分が押さえる。
「これは要らねえ。持ち帰ってくんな」
「へ、へい」
老爺は何度も頭を下げながら、大八車を引いて去っていった。
それを見送っていると、二人の視線が留吉に据えられているのに気づいた。
若者が勢い込んで聞く。
「あんたも何か売りに来たのかい!」
「いや、買いに来たんです」
親分が笑って言う。
「それじゃ、お客さんじゃないか。まあ、上がんなさい」
「失礼します」
玄関らしき場所に靴を脱ごうかどうかためらっていると、親分が言った。
「靴は盗まれないよ。なんてったって、ここは地獄の一丁目だからね」
――地獄の一丁目とはどういうことだ。
大笑いする親分の後に続いて、留吉は中に入っていった。
どうやら留吉は倉庫となっている裏に来てしまったらしく、そこから表の居住スペースに案内された。
「で、何を買いに来た」
畳敷きの居間に座ると、親分が問うてきた。
留吉は気後れしながらも、名簿に書かれた名の本人か確かめた。
「あの、尾津喜之助(きのすけ)さんですか」
「ああ、名乗り忘れたな。そうだよ。俺が尾津喜之助だ」
「私は――」と言って、留吉も名乗る。
「そうか。それで何の用だ」
留吉が用件を話す。
「なるほどね。それであんたは、どれほど俺のことを知っている」
「あっ、いや、何も知りませんでした」
留吉は一人の株主という認識でしかなかったが、確かに相手のことを調べずに来たのは迂闊だった。
その床の間の様子を見ると、「南無阿弥陀仏」と六字名号が大書された掛け軸が掛かり、その下には中国製の香炉のような置物がある。その右の違い棚には、南画のようなものが描かれた大皿が飾られ、その下には花が活けてある。それらの品々は一般家庭と変わらないが、どことなく違和感があるのは、堅気でないことの証左だろう。
――とんだところに入ってしまった。
だが、今更どうにもならない。
「あんたも不用心だな。そんな話を俺にしたら、その横田さんとやらが困ることになるぞ」
「えっ、どうしてですか」
「俺の本業はテキヤだよ」
「テ、キ、ヤですか」
テキヤは香具師(やし)とも呼ばれ、縁日や盛り場で屋台や露店などを営む人々のことだ。テキヤは露天商や行商人の一種だが、庭場と呼ばれる縄張りが必要となることで、どうしても暴力的な解決手段を取らざるを得ないこともある。そのため組を作り、相互に守り合い、また徒弟制度によって親分子分の関係を築いている。
「なんだい、俺のことを全く知らねえんだな」
尾津が落胆をあらわにする。どうやら自己顕示欲の強い男のようだ。
「あっ、尾津喜之助と言えば『光は新宿より』の――」
「そうだよ。ようやく思い出したかい」
尾津が煙草盆から煙管(キセル)を取り出すと、煙草を詰め始めた。その手つきからして慣れたものだ。
「失礼しました」
尾津喜之助と言えば、戦後の焼け跡で「光は新宿より」という惹句(じゃっく)を掲げ、新宿駅東口駅前に闇市と呼ばれるマーケットを開き、戦災によって仕事を失った人々を雇い、良品を安く売った庶民の味方だ。それだけでなく無料の炊き出し、無料診療所、無料の葬儀屋などによって名を成した立志伝中の人物でもあった。
尾津は人の一歩先を行く先見の明があり、商才に優れている反面、こうと決めたら梃子(てこ)でも動かない頑固さも持ち合わせていた。また誇り高く面子(メンツ)を潰されることを極端に嫌う。いざとなればヤクザ相手でも一歩も引かず、暴力沙汰をも辞さないことで有名だ。
「分かればいい」
その人懐っこそうな顔を見ていると、留吉は恐ろしさよりも興味が湧いた。
「そんな方が、なぜ白木屋の株を買ったんですか」
「ははは、そんなに白木屋はひどいのかい」
「いえ、はあ、まあ、そういうことです」
「正直でいい。では、答えてやろう」
尾津は堂に入った手ぶりで、煙草盆に灰を落とすと、再び煙管に煙草を詰め始めた。
「新しい商いを学ぶためさ」
「つまりデパートの商法を学ぶためですか」
「そう。たかだか二万株だが、持っていれば株主総会にも出られる。そうなればデパートの商売とやらも学べるというわけだ。だから三越株も持っている」
「では、将来的にデパートでもやるつもりですか」
「それを考えていた時期もあったんだけどね。でも今は、金を遊ばせておくなら働かせた方がよいと思ってね」
――そうか。金は寝かせるのではなく働かせるのか。
留吉は一つ学んだ気がした。
「なるほど。よく分かりました。では、これから日本はどうなりますか」
「えっ」と言って尾津が細い目を見開く。
「兄さんは、株を売るのかどうか尋ねると思っていたが、日本の先行きを俺に見通せというのかい」
「申し訳ありません。でも尾津さんの見通しを聞きたいんです」
「そうかい」と言って煙管をうまそうにふかした後、尾津が語った。
「未曾有(みぞう)の好景気となる」
「でも、国の取り締まりが厳しくなり、都内の闇市はなくなるという話を聞きましたが」
昭和二十四年、GHQは都内六千の露店を翌年三月までに撤去するよう、日本政府に命じた。この「戦災復興土地区画整理事業」を聞きつけた露天商たちは反対運動を行ったが、都内公道上の露店は順次廃されていった。新宿、渋谷、池袋などの駅前にあった旧闇市、すなわちマーケットも解体が始まった。露天商たちは低利の融資を受け、ドブ川べりの寂しい場所へと移転していった。
「日本は好景気に沸き立ち、チャンスは、そのへんの石ころのように転がっている。その石ころを拾うも拾わぬも、その人次第だ」
――その通りだ。チャンスは拾わなければ、石ほどの価値もない。
「俺も、いつまでも露店商の元締めというわけにはいかないからな」
「では、何をやられるので」
「そこが難しい。俺のようなどこの馬の骨とも分からない者に、金を貸してくれる銀行はないからね」
--横田と同じだな。
尾津は明治三十一年(一八九八)、東京本所相生町に生まれた。父は鋳物工場を営んでいたので比較的裕福だったが、酒と女で身を持ち崩し、尾津が二歳の時に母親は家を出た。それ以後、尾津は実母と会っていない。継母との折り合いも悪く、十五の時に喧嘩で人を傷つけてから暴力の中で過ごした。だが、このままではいけないと思い、叔父の支援で築地の工手学校(現・工学院大学)に入り、手に職を付けようとするが、結局、愚連隊を結成し、喧嘩の日々を過ごした。そして戦後、焼け跡で地道に商売し、気づけば成り上がっていた。
留吉が明治四十一年(一九〇八)の生まれなので、ちょうど十歳年長になる。
「つまり白木屋の株は、デパート事業を行わないなら、持っていても役に立たないということですね」
「まあね」
「では、その株を売っていただけますか」
それには何も答えず、尾津は意外なことを聞いてきた。
「その横田ってのは、正しい行いをする人間なのかい」
――ここで嘘はつけない。
留吉は正座する膝頭を摑みながら言った。
「横田は戦後の闇の中でのし上がってきた男です。必ずしも正しい行いをするとは限りません」
「そうかい。じゃ、兄さんはどうだい」
「わ、私ですか」
「そうだよ。お前さんだ」
尾津の眼光が鋭くなる。
「私は、これまでの人生で一度も法律に反したことをしていません。これからもそうするつもりです」
「法律じゃねえ。道義上だ」
「はい。道義に反したことは一度もありません」
「そうかい。じゃ、売ってやる」
「えっ、よろしいんで」
あまりの呆気(あっけ)なさに、留吉は拍子抜けした。
「俺の相手はあんただ。その横田って奴じゃない」
――ここでもそうなのか。
企業や組織の概念が浸透していないこの頃、何事も相対する人間への信頼で動いていた。
「ありがとうございます」
「ただしだ。兄さんが悪いことに手を染めたら、ただじゃすまねえぞ」
「とは言っても、株は私のものではなく横田のものです」
「それくらいは俺にも分かる。だがな、こうして相対したあんたにけつをまくられたら、俺は面子を潰されたことになる。だから、あんたが横田に悪事を働かせないようにせねばならねえ」
尾津がうまそうに紫煙を吐き出す。
「つまり私にも責任があるというのですね」
「もちろんさ。尾津が売った株で、横田なる者が誰かを苦しめたり、いじめたりしたら容赦はしない」
「その誰かとは弱い者ですね」
「ああ、よく分かっているね。資本家や血筋・学閥に胡坐(あぐら)をかいている連中を苦しめるのは、いっこうに構わない。だがな、弱い者をいじめるのはいけねえ」
「尤もなことです」
尾津が安心したようにうなずく。
「約束できるかい」
「できる限り――、いや、約束します」
「それが聞きたかった」
「では、株の売買手続きですが――」
その後、事務手続きの話になった。尾津は経理担当を呼ぶと思ったが、自分一人で話を聞いていた。おそらく何かを人に任せるのが嫌いな上に、聡明で勉強熱心なのだろう。
かくして留吉は、尾津の持つ二万株の購入に成功しただけでなく、尾津という闇社会の顔役とも知己を得た。
Synopsisあらすじ
戦争が終わり、命からがら大陸からの引揚船に乗船した坂田留吉。しかし、焦土と化した日本に戻ってみると、戦後の混乱で親しい人々の安否もわからない。ひとり途方に暮れる留吉の前に現れたのは、あの男だった――。明治から平成へと駆け抜けた男の一代記「夢燈籠」。戦後復興、そして高度成長の日本を舞台に第2部スタート!
Profile著者紹介
1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学卒業。『黒南風の海――加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で第1回本屋が選ぶ時代小説大賞を、『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞と第1回高校生直木賞を、『峠越え』で第20回中山義秀文学賞を、『義烈千秋 天狗党西へ』で第2回歴史時代作家クラブ賞(作品賞)を受賞。
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