夢燈籠 狼を野に放て第5回

列車が京都駅に着くと、緊張が漲(みなぎ)ってきた。舞鶴経由で帰国した時には、京都はただの経由地だったが、これからは、ここが留吉の戦場になるからだろう。
京都は爆撃を受けておらず、戦前からの日本の風情を残していた。しかし生活は楽ではないようで、仕事のなさそうな労働者が何ヶ所かに集まり、郊外から荷車を引いてきたと思しき農民が、何かをどこかに運ぼうとしている。それでも東京に比べれば殺伐とした雰囲気はなく、人々の顔には笑みさえ浮かんでいた。
 京都ステーションホテルに荷物を下ろした留吉は、近くの不動産屋に入り、京都支店にふさわしい物件を探した。烏丸御池(からすまおいけ)や四条烏丸(しじょうからすま)にも小さな雑居ビルは多数あったが、これから福井方面に出向くこともありそうなので、物件は京都駅周辺で見つけることにした。京都駅から福井には直通電車が走っているからだ。
 何軒も見て回ったが、最後に行った古びたレンガ造りの古いビルの一室を借りることにした。続いて電話を引く手続きをした。また中古の家具屋に行き、机や備品をそろえた。そして最後に、女性事務員を一人雇い、電話番とした。
 それで事務所の体裁だけでも整えた留吉は、横田から渡されたリストを基に、早速、福井に出掛けることにした。繊維ビジネスのイロハも分かっていないのに無謀だと思ったが、横田の言うように、単なる取引だと思えば、やってやれないことはないと思い直した。
 横田の送ってきたメモによると、このリストは、資金繰りが苦しいと推定できる企業順だという。
 ――福井製糸工業か。
 製糸業とは、養蚕農家が生産した繭から糸を手繰って生糸を作る事業で、かつては日本の外貨獲得に重要な産業だった。留吉は緊張しながらも、福井製糸工業に電話をかけて趣旨を説明し、面談したいと告げると、意外にもすぐに面談の約束が取り付けられた。
 勇躍して汽車に乗って福井に着いた留吉は、宿に荷物を置くと、その日は宿に籠もって繊維産業のイロハが書いてあるという本を熟読し、翌日の面談に備えた。
 福井の町も空襲を受けたので、中心地域は壊滅したようだが、福井製糸工業は郊外に工場を構えていたので、空襲による損害はないようだった。

 応接室で待っていると、薄くて熱い茶が運ばれてきた。それをすすっていると、一人の紳士が姿を現した。
「総務部長の額田五郎(ぬかだごろう)です」
「横田産業京都支店長の坂田留吉です」
 名刺を交換した際、額田と名乗った男の手が震えていた。すでに用件は電話で伝えてあるので、警戒心を解いていないのだろう。
「私が電話を受けたのですが、わが社の在庫を買い上げていただけるとか」
「はい。その通りです」
「軍向けに加工した生糸は転用しにくいので助かります」
「はい。存じ上げております」
 軍向けの場合、国防色と呼ばれる茶褐色に糸を染めるので、ほかに転用しにくい。とくに戦後になり、戦前と戦中を否定するような雰囲気が広がり、その象徴の茶褐色は避けられるようになった
「で、どのくらいあるのです」
「トンでお答えするなら、約十二トンです」
 横田から事前に、福井製糸工業が約十二トンの在庫を抱えて困っていると、留吉は聞いていた。
「そんなにおありなんですか」
「はい。倉庫に眠っていますが、場所を取るので困ります」
 煙草を吸いながら、額田五郎が高笑いする。だが、その笑いに余裕はないように見受けられた。
「なるほど、戦争によって軍が消滅したので、お困りでしょうね」
「はい。突然のことだったので驚きました。東京と違って福井は情報に疎くて――」
「分かりました。すべて買い取りましょう」
「ありがとうございます」と答え、満面に笑みを浮かべた額田は、持ってきたソロバンを弾くと、それを留吉に見せた。
「今の生糸相場からすると、卸値が百斤で千二百円なので、十二トンだと、しめて二十四万円になります」
 百斤は〇・〇六トンなので、十二トンだと二百倍、すなわち二十四万円になる。
「なるほど。今の相場だとですね」
「はい。もちろん生糸は相場相当の金額で取引しますので――」
「しかし、それでは取引になりません」
「と、仰せになられると――」
「われわれが出せる金額、十二トンで四万円です」
「えっ」と言って、額田が愕然とする。
「もう一度言いますが、十二トンで四万円ならすべて引き取らせていただきます」
「ちょっと待って下さい。それでは原価割れもはなはだしい」
 留吉は悠揚迫らざる態度で、自分の煙草に火をつけた。
「それは分かっています。しかしこれは、横田社長から指定された額ですから、私の一存ではどうにもなりません」
 額田が震える手で煙草をもみ消す。その心中は怒りに震えているのだろう。
「相場の六分の一なんて、うちではちょっと――」
「しかし今、茶褐色の生糸を国内でさばくのは難しいですよね」
「その通りです。しかし六分の一ではお売りできません」
「そうですか。それでは取引が成立しませんね」
「待って下さい。社長と相談します」
 そう言い残すと、額田は室外に消えた。だがその様子から、留吉は手応えを感じていた。
 ――十二トンで三万円としておけばよかったかな。
 横田の熱にやられたのか、留吉がそんなことを考えていると、初老の紳士を伴って額田が戻ってきた。
「お待たせしました。わが社の社長の友野健三(とものけんぞう)です」
「友野です」と言って名刺を差し出した友野の手も震えていた。すでに福井製糸工業の財務状況は調べがついているが、資金繰りが苦しく、銀行から見放され、高利貸から金を借りている始末だった。
――つまり、いつ倒産してもおかしくないというわけか。
それを思い出した留吉は、これまで以上に余裕を持てた。
「うちの在庫を四万円でお引き受けいただけると、額田から聞きましたが、なにぶん軍からの発注品なので、最上級の糸を原料としていますので、四万円では難しいと考えています。十万円ではいかがでしょう」
 ――大きく出たな。
 相場で十二万のものを十万というのは、いくら何でも強欲だ。
「そうですか。われわれの出せる金額と大幅な開きがありますね」
「はい。しかし十万円でも、かなりお得だと思いますよ」
「いえいえ、何と言っても茶褐色の糸ですからね。東南アジアの某国が軍服用の生糸を求めているから購入するのであって、海外への運搬費用もかかりますからね」
「どちらの国ですか」
「それは貴社に関係のない話ですよね」
 こうした場合、どちらが有利な立場にあるかを相手に知らしめるため、強い口調で言うのが取引の基本だ。留吉はかつて満州で油田発掘事業に携わり、中国人と厳しい取引をしてきたので、そのあたりの呼吸は心得ている。
「失礼しました」
「いえいえ、こちらこそご無礼を」
「支払いは何カ月の手形ですか」
「手形とは言っていません」
 そう言うと、留吉は切り札の現金をアタッシュケースから取り出した。
「ここに二万円あります。これを今この場でお渡しします。半分は納入後にお支払いするということで、いかがでしょう」
 現金を見た友田の顔色が変わった。おそらく近々落とさねばならない手形があるのだろう。
「うーむ」と言って腕を組んだ後、友田が言った。
「社内にいる者たちと協議してきますので、しばしお待ちを」
「分かりました。次の約束があるので三十分以内でお願いします」
 そんな約束などないが、そうでも言わないと、いつまでも決められないと思った。
 ――劣化すれば破棄せざるを得ない生糸だ。必ずこの条件をのむ。
 本棚に置かれていた社史などを読みながら時間を潰していると、友野と額田が再び姿を現した。
「五万円ではだめですか」
「友野さん、私は単なる支店長です。社長の横田からは、四万円しか出せないと言われています。つまり四万円を少しでも上回る価格でないと取引できないと仰せなら、この取引はなかったものとさせて下さい」
「待って下さい。その横田社長と電話で話をさせていただけませんか」
「それでは、私は子供の使いではありませんか」
「申し訳ありません」
 友野が肩を落とす。
「友野さん、数日前、面談の約束を取る際に電話で名乗ったので、横田産業については調べがついているはずです。今、飛ぶ鳥を落とす勢いなのはご存じの通り」
「は、はい。そのようですね」
「進駐軍の御用工場の指定も受けました」
「はい。知っています」
「われわれと取引を開始するのは、貴社の将来にとってもプラスになるのではありませんか」
 友野の顔が徐々に険しいものになっていく。
 ――やはり四万円では無理だったか。
 だが案に相違して、友野はうなずいた。
「分かりました。四万円で結構です」
「よかった。では、契約を締結しましょう」
 その後は円滑に進んだ。友野は次第に機嫌を直し、留吉を夕食に誘った。留吉にも否はなく、大いに飲んで、大いに盛り上がった。
 ――これほど容易なものだとは思わなかった。
 留吉はビジネスの面白さに有頂天になっていた。

夢燈籠 狼を野に放て

Synopsisあらすじ

戦争が終わり、命からがら大陸からの引揚船に乗船した坂田留吉。しかし、焦土と化した日本に戻ってみると、戦後の混乱で親しい人々の安否もわからない。ひとり途方に暮れる留吉の前に現れたのは、あの男だった――。明治から平成へと駆け抜けた男の一代記「夢燈籠」。戦後復興、そして高度成長の日本を舞台に第2部スタート!

Profile著者紹介

1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学卒業。『黒南風の海――加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で第1回本屋が選ぶ時代小説大賞を、『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞と第1回高校生直木賞を、『峠越え』で第20回中山義秀文学賞を、『義烈千秋 天狗党西へ』で第2回歴史時代作家クラブ賞(作品賞)を受賞。

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