夢燈籠 狼を野に放て第12回

十三

 三月、横田産業の会議室で取締役会が行われた。その席で、横田は取締役たちを相手に熱弁を振るっていた。そこにいるのは横田産業の役員たちに加えて留吉と岩井だ。役員たちは縦長のテーブルに就いているが、二人は会議室の後方の壁際に置かれたパイプ椅子に腰掛けていた。
「日本橋という一等地にこれほどの資産を有し、デパート業界で一位の座を奪える可能性があるにもかかわらず、白木屋は業績不振が続いています」
 横田がガリ版刷りの資料を配布した。そこには白木屋の直近五年の業績が、棒グラフで描かれていた。
「しかも年々、業績は悪化しています。にもかかわらず経営努力をせず、下請けいじめに精を出しています。こんな会社は早々に淘汰(とうた)されるべきでしょう」
 白木屋は納入業者泣かせで知られていた。一般的にデパートはメーカーや問屋泣かせが当たり前だが、白木屋は度を越していた。約束手形は五カ月もの長期で、それも遅れることが度々あった。そのため納入業者は、売れ残りや流行遅れの品々を納品していた。そうなると売れない品々が店頭に並ぶことになり、売り場あたりの売り上げがさらに減る。そうした悪循環に陥っているので、業績が悪化の一途をたどるのは当然だった。
「これは経営不在以外の何物でもありません。私が経営者になれば、業績を急回復させてみせます」
 自信満々の横田に、財務担当役員が恐る恐る問う。
「つまり、これまでの内部留保も株の買い占めに使うのですね」
「その通り。この横田英樹、一世一代の勝負のために有り金をはたきます」
 横田英樹の義父、すなわち夫人の父親で役員の一人の佐藤哲が苦言を呈する。
「どうして、そんな危険なことをするんだ。今の事業を地道に続ければいいじゃないか。まさか以前、白木屋に足蹴にされたことを根に持ち、意地になっているんじゃなかろうな」
「足蹴にされた」とは、横田産業が納入業者として卸値を叩かれたことを指している。
「お父さん、私は意地になっているわけではありません。産業界に風穴を開けたいのです」
 どうやらこのワンマン企業では、佐藤だけが横田に意見できるようだ。というのも当初、佐藤は横田を見込んで娘を嫁にやり、些少ながら事業資金を提供したからだ。
「風穴だと。いったいどういうことだ」
佐藤は義父だけあって言葉遣いがぞんざいだが、横田は気にしていないようだ。
「戦後、進駐軍のおかげで財閥が解体され、実業界は実力だけで勝負できる時代が来たと思いました。しかし進駐軍の手綱が緩み始めると、またぞろ戦前の亡霊どもが復活し、江戸時代の株仲間のような排他的なグループを作り、成り上がろうとする者たちを蹴り落とそうとしているのです」
 進駐軍とはGHQのことだ。
 横田の熱弁は続く。
「その巣窟(そうくつ)こそ白木屋デパートなのです。まずは役員名簿を見て下さい。これを見ただけでは二十人近い役員の名が記されているだけで、その経歴は分からないでしょう。しかしこちらの『紳士録』を見ると一目瞭然です」
 横田が背後の書棚から、分厚い「紳士録」を取り出してきた。この本は社会的地位のある人々の氏名が、あいうえお順で並べられ、出身地、住所、学歴、経歴、趣味や家族まで記された日本の財界の大事典だ。
「これで引いていくと、役員の大半は東京帝大をはじめとした一流大学の出身です。つまり白木屋は権威社会の象徴のような会社なのです」
 ――そうだったのか。
 隣の岩井を見ると、岩井も「知らなかった」という顔をしている。
「紳士録」自体、慶応の創設者である福澤諭吉の提唱で編纂(へんさん)が始まったものだが、福澤は仕事の便宜のために作ろうと提唱しただけで、日本の政財界を代表するエスタブリッシュメント、すなわち支配階級を一般人と区別するために作ったわけではない。だが今、「紳士録」に掲載されるかどうかで、社会的信用に大きな差が出ていた。掲載される基準は納税額の上位者で、当初は二万三千人だったが、後のピーク時(二〇〇七年)には、八万人もの名が掲載されることになる。
 自分の弁舌に酔っているのか、横田の顔が紅潮してきた。
「人の能力ややる気など一切考えず、無能な者だけで寄り集まり、権益を守っていく。そんな企業を生き残らせてよいのでしょうか。いや、私が何をしなくても、おそらく遠からぬ将来、そうした企業は淘汰されるでしょう。しかし、それでは江戸時代から続いた暖簾(のれん)が、もったいないとは思いませんか」
 横田が言っている暖簾とは、財務諸表に書かれている数字以外に企業が保持している価値、すなわち企業の名声や信用のことだ。
 佐藤が苦虫を嚙み潰したような顔で言う。
「それは分かるが、今まで稼いだ全財産をそれに賭けるのか」
「賭けます。しかも自分の金だけでは戦えないので、この大義に賛同してくれる方々に協力をお願いします」
 大義があっても、他力本願のところが横田らしい。
「つまり借金をするのか」
「借金をするかもしれませんが、できれば投資していただき、買収に成功した暁(あかつき)には、それなりの地位を用意していきます」
「よく分からんな」
 佐藤は腕組みし、口を真一文字に結んだ。
 ――この程度のレベルなんだな。
 横田商店から横田産業と企業名を変えても、役員まで優秀な人材は雇えない。しかも横田は血族しか信じないので、こんなレベルでも役員に居座れるのだ。
 ――白木屋とどっちもどっちだな。
 これでは白木屋を攻撃できないと、留吉は思った。
「よろしいですか。白木屋はその含み資産の大きさに比べ、資本が過小です。土地は三千五百坪、建物は二万坪、しかも日本橋の一等地ということもあり、不動産屋の査定によると、百億円前後の資産となります。これに対し、発行済み株式は四百万株。つまり一株五十円なので二億円にすぎません。つまり価値の高さに比べ、これほど買収しやすい物件はありません」
 土地に対して建物面積が大きいのは、九階プラス屋上のフロア面積を合算しているからだ。
 別の役員が問う。
「で、買い占める株式の目標は、どれくらいになりますか」
「完全子会社化ができる百パーセントです」
 役員たちからため息が漏れる。
「もちろん、それは最終目標となります。相手がギヴアップすれば、株を手放さざるを得なくなるからです。ですから、当面は三分の二になる二百六十六万八千株の取得を目指します」
 ――単純計算で一億三千三百四十万円が必要になるわけか。
 横田産業単独では、とても無理な金額だ。
 買収側の持ち株比率が三分の二を超えた段階で、被買収企業の経営権を掌握できるので、今回のように経営権の掌握を目指す買収なら、すべての株式を取得する必要はない。それでも横田が百パーセントと言ったのは、自らの本気度を示すためだろう。
「それで、どうやって株を買い占めていくのですか」
「まずは個人株主を狙います。まだ白木屋の株は一株五十円前後なので、それに少しプレミアを付ければ売るはずです」
 財務担当役員が問う。
「白木屋は上場しているので、公開買い付けという方法もあります」
 これは不特定多数の株主に対し、買い付け期間や買い付け数量と価格を提示し、買い付けの申し込みを受ける、ないしは売り付けの勧誘を行うことを言う。
「もちろんです。しかし、ある程度の株式数を押さえていないと、公開買い付けは効果的ではありません。そのため水面下で買い増ししていき、ここぞという時に公開買い付けを行います」
 ――賢い方法だな。
 それなら、条件次第で応じてくれる個人株主はいるかもしれない。だが、草木も靡(なび)くようにはならないだろう。勢いをつけるためには、それなりの株数を押さえてからでないと、公開買い付けの効果は薄い。
 役員の一人が問う。
「水面下と言っても、買い付けを行っている最中にばれるのではありませんか」
「確かに噂話には出るかもしれませんが、株主名簿が決算のために締め切られ、名義の書き換えが行われるまではばれません」
 岩井が留吉の耳元で呟く。
「その通りだ。白木屋の鈍感な経営陣では、株価が上がっても、自分たちの将来性が見込まれて買われているとしか思わず、誰が買い占めを進めているかは、名義の書き換えまで分からないはずだ」
「そこまで無能なのか」
「ああ、そうでなかったら、業績がここまで悪化するはずがない」
 その時、横田が二人を見ながら言った。
「まずは、密かに買い付けを始めるわけですが、それは彼ら二人に任せたいと思います」
 役員たちの顔が一斉にこちらを向く。
 ――そんなことは聞いていないぞ。
 皆の前なので断らせないようにするためか、その場の思いつきなのか、横田の指名を受けたからには、返事をせねばならない。
 だが、留吉がどう答えようか考えている間に、岩井が「はい」と答えていた。
 横田が得意そうに岩井のことを紹介する。
「岩井先生には商法に反しないように注意していただき、株式売買の実務を担当いただきます。買い付けは坂田さんにお願いします。坂田さん、よろしいですね」
「は、はい」
「よかった。これで態勢が整った。いざ、出陣です!」
 横田が高笑いする。
 ――たいへんな仕事を引き受けさせられたな。
 留吉はため息をついた。

夢燈籠 狼を野に放て

Synopsisあらすじ

戦争が終わり、命からがら大陸からの引揚船に乗船した坂田留吉。しかし、焦土と化した日本に戻ってみると、戦後の混乱で親しい人々の安否もわからない。ひとり途方に暮れる留吉の前に現れたのは、あの男だった――。明治から平成へと駆け抜けた男の一代記「夢燈籠」。戦後復興、そして高度成長の日本を舞台に第2部スタート!

Profile著者紹介

1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学卒業。『黒南風の海――加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で第1回本屋が選ぶ時代小説大賞を、『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞と第1回高校生直木賞を、『峠越え』で第20回中山義秀文学賞を、『義烈千秋 天狗党西へ』で第2回歴史時代作家クラブ賞(作品賞)を受賞。

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