夢燈籠 狼を野に放て第43回
十一
年が明けて昭和三十三年(一九五八)の二月、珍しく三島から呼び出されたので、その邸宅に行ってみると、三島はいつになく上機嫌で、自慢の名刀・関孫六(せきのまごろく)を手入れしていた。
三島は真冬でも半袖姿で、その毛深い二の腕を剝き出しにしている。三年ほど前に始めたボディビルの効果が出始めているためか、会う度に二の腕が太くなっている気がする。
「いつ見ても素晴らしい刀ですね」
「君にも刀が分かるかい」
三島は留吉より十七も下だが、どうしても立場が逆転してしまう。文豪の風格がそうさせるのかは分からないが、三島も無理に敬語は使わない。おそらく年上の編集に慣れているからだろう。
「いえ、全く分かりません」
「全く分からないはよかったな」
三島が満面に笑みを浮かべる。
「お恥ずかしい話ですが、美術品や工芸品の審美眼はからっきしで――」
「だからいいんだよ。下手に知恵ばかり付けて、評論家のような口を利く輩(やから)が多いからね」
「そうならないようにします」
「実は、この刀の通称は関孫六だが、正式には『後代兼元』という銘(めい)で、さほど価値のあるものではない。兼元も初代と二代は数百万の価値はあるが、これは三代以降なので、せいぜい数十万だ」
三島が、さもうれしそうに刀身に打粉をかけている。
「それをどうして――」
「そんなに大切にしているかっていうのかい」
「はい。すみません。三島さんなら、もっと高価な刀を購入できるのでは」
「いや、刀でも美術品でも、その価値を決めるのは自分だからね。他人がどうこう言っているのを聞いて、さも分かったように高いものを買ったり、賛美したりするのは成金趣味にすぎない」
三島には確固たる審美眼が備わっているのだろう。そうでなければ、こんなことは言えない。
「なるほど、成金趣味ですか。分かるような気がします」
「いかに誉れ高き名刀でも、惹きつけられないものはある。それは人と同じだよ」
「なるほど、人と同じですか。私なんか、まさに無銘の駄刀ですね」
三島が高笑いする。
「ははは、いくら何でも、それは君に失礼だろう」
「そんなことはありません。私の価値などそんなものです」
「自分を卑下(ひげ)するなよ」
「しかし私は、もう五十に手が届かんとしているのですが、何かを成したわけでもなく、これから何かを成せるとも思えません」
三島が真剣な顔つきになる。
「私だって同じ草莽(そうもう)だ」
「それは違います。三島さんは、あれだけのものをお書きになったのです。しかも文壇の寵児(ちょうじ)として、これからも名作や傑作を書き続けることでしょう」
「あれだけのものって『金閣寺』のことかい」
昭和二十五年に起こった金閣寺放火事件に材を取った小説『金閣寺』は、昭和三十一年の十月に刊行され、十五万部のベストセラーになっていた。
この事件は鹿苑寺(ろくおんじ)の青年僧・林養賢(はやしようけん)が国宝の舎利殿(しゃりでん)、すなわち金閣寺に放火し、その貴重な建築物や収蔵されていた宝物を焼失させた事件に材を取っている。しかし三島は実際の事件の真相に迫るとか、新解釈を施すといったことではなく、金閣の放火と焼失という枠組みだけを借り、戦後社会を生きねばならない己の苦悩と葛藤(かっとう)を描き出そうとした。つまり主人公の内面に潜むものは、三島と限りなく近いと読者は考える。
「そうです。日本近代文学を代表する傑作だと、誰もが言っています」
三島が関孫六を鞘に収めると、缶入りピースを開けて留吉に勧めた。
「いただきます」
三島が欧州製と思(おぼ)しきライターを近づけ、留吉の咥える煙草(タバコ)に火をつけてくれた。
三島と同じ煙草を吸うことで、一緒に悪だくみをしている気がしてきた。
「坂田さんは、『金閣寺』を読んでくれたんだね」
「はい。読みました」
「で、どう思った」
「ですから、名作だと――」
「どんなところが――」
「まず魅了されたのが文体です。あの華麗なレトリックには驚きました」
三島が苦笑する
「そのレトリックとやらは、たとえば『美は細部で終り細部で完結することは決してなく、どの一部にも次の美の予兆が含まれていたからだ。細部の美はそれ自体不安に充たされていた。それは完全を夢みながら完結を知らず、次の美、未知の美へとそそのかされていた』といったものかい」
三島は『金閣寺』の一節を正確にそらんじた。
「そうです。その華麗できらびやかなレトリックです」
「そのほかには」
「金閣寺に象徴される美だけが心の拠り所になっている主人公の孤独ですね。そしてそれは、戦後社会をどう生きていくか模索している三島さんの内面へとつながっていくのです。その構造は実に巧みで、それで三島さんが、自らの肉体を鍛え上げることで、堅固な精神世界との乖離(かいり)を抑えようとしていることが理解できました」
「なるほど、模範解答だね」
「違いますか」
「違わないよ。多くの文芸評論家や作家も同じことを言っているからね」
留吉は思わず赤面した。
「そうですね。恥ずかしながら、私もそうした言辞に影響されていたかもしれません」
「あなたはいいんだよ。小説で食っているわけではないからね。だが他人の作品を、ああでもないこうでもないと言うだけで飯を食っている文芸評論家の連中は困ったものだ」
「どうしてですか。彼らの論評によって、われわれ素人は、作品の読み方や真の価値を知ることができます」
三島が逆に問う。
「では問うが、君にとって美とは何か」
「美、ですか」
そう問われて即答できる留吉ではないが、懸命に答えを探した。
「美とは自分が美しいと思ったものです」
「では、饐(す)えた臭いのする路地裏の水溜りも美しいかい」
「人によってはそうでしょうが、大多数の人は美しいとは思わないでしょう」
「それはそうだ。では、問い方を変えよう。君にとって金閣寺は美しいかい」
それで留吉も気づいた。
「まさか三島さんは、金閣寺を美の象徴とは思っていないのですか」
「金閣寺は法隆寺や平等院ではないからね。日本の文化が爛熟(らんじゅく)して腐り始めた室町時代初期の建築物だよ」
――まさか三島さんは、あの作品を強烈な皮肉で彩りたかったのか。
それですべてを理解できた気がした。
三島がピースをうまそうに吸いながら言う。
「金閣寺なんてものは、成金趣味の陳腐(ちんぷ)な楼閣さ」
「そう言い切ってしまっていいのですか」
「ああ、文芸評論家や作家たちは好き勝手に解釈しているが、誰も本質が見えていない。もちろん誰かが見抜くのを待っていたんだがね。残念ながらいないようだ」
「つまりあの作品は、強烈なアイロニーなんですか」
「そうだよ。これからも後知恵で、勝手な解釈をする者が出てくるだろう。金閣を絶対的な美の象徴とし、それを絶対的なものへと転化し、天皇のメタファーにしようとしたとかね」
「そこまで見越しているのですか」
「ああ、『金閣寺』は私の仕掛けた壮大な罠だ。その罠は私の死後まで続く」
留吉は息をのんだ。
「むろん小説なんてものは受け手次第だ。受け手が何を思おうと勝手だ。しかしプロを自称する文芸評論家たちの勝手な解釈を真に受けて、それを拡大再生産しようとする素人たちには困ったものだ。そのために金閣の潮音洞の奏楽は永遠に鳴りやまず、究竟頂(くっきょうちょう)の鳳凰(ほうおう)は永遠に飛び続けねばならない」
三島が、見事なレトリックで強烈なアイロニーを放った。
「あの見事に構築された美の世界が、そんな書き割りのようなものなんですか」
「書き割りはよかったな」
三島はひとしきり笑った後、真顔で続けた。
「君、小説なんてその程度のものだよ。私は尤(もっと)もらしいことを平然と言う馬鹿を炙(あぶ)り出すために、あの作品を書いたとも言えるんだ」
「そこまで卑下してよろしいんですか」
「ああ、構わない」
三島が再び関孫六を手に取る。
「君たちはビジネスの最前線で、少しでも多くの金を得ようと必死だ。その方が、おかしな理屈をつける連中よりも、よほど純粋だと思えるんだ」
「私や横田がですか」
「そうだ。金を求める者は名誉や名声を求めない。だが、われわれ作家や書評家は、それを求める。人から尊敬されたいからだ。それだけで純粋とは言えない」
「なるほど、一理ありますね」
「まあ、横田氏の戦いは面白い。横田氏も私も戦後社会をいかに泳いでいくかを考えている点では、同じ穴の狢(むじな)だからね」
「三島さんと横田が同じ狢ですか」
「ああ、そうだよ。何一つ変わらん。互いに戦後昭和という大穴から頭を出そうともがいている狢さ」
三島が関孫六を眺めながら高笑いした。
この四ケ月後の六月、三島は唐突に結婚する。三月に紹介され、四月に見合いをし、六月に結婚という早さだった。そして翌年五月には、大田区馬込にビクトリア風コロニアル様式の新居を建て、そこに移り住むことになる。
さらに六月には長女が誕生、映画『からっ風野郎』に出演するなど、三島は公私共に多忙になる。そのため留吉の足も次第に遠ざかることになる。
Synopsisあらすじ
戦争が終わり、命からがら大陸からの引揚船に乗船した坂田留吉。しかし、焦土と化した日本に戻ってみると、戦後の混乱で親しい人々の安否もわからない。ひとり途方に暮れる留吉の前に現れたのは、あの男だった――。明治から平成へと駆け抜けた男の一代記「夢燈籠」。戦後復興、そして高度成長の日本を舞台に第2部スタート!
Profile著者紹介
1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学卒業。『黒南風の海――加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で第1回本屋が選ぶ時代小説大賞を、『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞と第1回高校生直木賞を、『峠越え』で第20回中山義秀文学賞を、『義烈千秋 天狗党西へ』で第2回歴史時代作家クラブ賞(作品賞)を受賞。
Newest issue最新話
- 第43回2025.12.11
Backnumberバックナンバー
- 第42回2025.12.04
- 第41回2025.11.27
- 第40回2025.11.20
- 第39回2025.11.13
- 第38回2025.11.06
- 第37回2025.10.30
- 第36回2025.10.23
- 第35回2025.10.16
- 第34回2025.10.09
- 第33回2025.10.02
- 第32回2025.09.25
- 第31回2025.09.18
- 第30回2025.09.16
- 第29回2025.09.04
- 第28回2025.08.28
- 第27回2025.08.21
- 第26回2025.08.14
- 第25回2025.08.07
- 第24回2025.07.31
- 第23回2025.07.24
- 第22回2025.07.17
- 第21回2025.07.10
- 第20回2025.07.03
- 第19回2025.06.26
- 第18回2025.06.19
- 第17回2025.06.12
- 第16回2025.06.05
- 第15回2025.05.29
- 第14回2025.05.22
- 第13回2025.05.15
- 第12回2025.05.08
- 第11回2025.05.01
- 第10回2025.04.24
- 第9回2025.04.17
- 第8回2025.04.10
- 第7回2025.04.03
- 第6回2025.03.27
- 第5回2025.03.20
- 第4回2025.03.13
- 第3回2025.03.06
- 第2回2025.02.27
- 第1回2025.02.20
