夢燈籠 狼を野に放て第42回
十
六月十一日、三人の男が銀座八丁目のメインストリートに面した東洋郵船の入るビルにやってきた。
東洋郵船とは、横田が始めようとしている観光船事業のために創設した会社のことだ。横田は日本郵船より大きくしたいという願いを込めて、東洋郵船と命名したのだ。言うまでもなく、東洋精糖とは全く関係がない。
やってきたのは、誰あろう安藤昇だった。
今回はアポイントなしの突然の訪問だったが、安藤がやってきたというので、留吉だけで会うつもりでいた。しかし安藤の機嫌を損ねたくないと横田が言うので、横田も同席することにした。
「いやー、安藤さん、いらっしゃい」
ドアまで出迎えたのは留吉だけで、横田は大型のデスクの向こうにある社長室の椅子に座ったままだ。
「ご無沙汰しております」
言葉は丁寧だが、安藤の迫力は以前と変わらない。
「安藤さん、そちらの応接セットでしばしお待ち下さい。これから五分ほど報告を聞かねばならないのです」
そう言うと、横田は内線で秘書に「呼んでくれ」と告げた。
誰が来るのかと思いきや、部屋に入ってきたのはミニスカートに制服姿の十人ほどの女性だった。彼女たちは、横田が東京湾上に浮かべて営業する予定でいる興安丸のキャビン・アテンダントだ。
たまたまこの日、彼女たちが研修で来ているというので、安藤を驚かせようと横田があえて呼んだのだ。
案の定、突然の美女軍団の登場に、安藤と二人の男は啞然としている。
女性の代表が研修の報告を簡単に済ませると、横田が二言三言、激励の言葉をかけた。
それで儀式めいた報告会は終わった。その後、女性は一人ひとり安藤たちの前で立ち止まり、「失礼します」と挨拶してから出ていった。
それを安藤らは茫然と見送った。
「いやー、お待たせしました。彼女たちはこれから研修でね。時間が決まっているので、始まる前に『しっかりやるように』という訓示を垂れておきたかったんですよ」
コーヒーが運ばれてきて、横田が安藤たちの向かいに座した。それを見た留吉も横田の隣に腰を下ろした。
「安藤さん、その節はお世話になりました。それでお二人は――」
安藤と一緒に来たのは、三栄物産社長の元山富雄とボディガード役の熊谷成雄という男だ。
安藤が二人の紹介を終えると、横田はソファーに深々と座りながら言った。
「それで今日のご用ですが、総会のお仕事のことですね。六月二十八日に予定されている東洋精糖の株主総会は、事前に話がついているので荒れることはないんですよ。そのため今回は、田島さんにも声をかけていないんです」
留吉と横田は、安藤らが総会屋仕事をもらいたくてやってきたものと思い込んでいた。
「実は、その件ではないんですよ」
安藤が「ハイライト」に火をつけると、おもむろに言った。
「私らがここに来たのは、債権回収の件なんです」
――サルベージか!
サルベージとは、本来は沈没船などの引き上げ作業を意味するが、そこから転じて、個人や金融機関などから委託を受けた業者が、債権の回収をする意味で使われるようになった。
留吉がすかさず口を挟む。
「そういうことでしたら、社長は多忙なので私が話を聞きます。どうか別室へ――」
「いや、あなたでは話にならないのを知っています。ですから、横田さんに直接相談したいのです」
横田が大儀そうに問う。
「いいでしょう。で、どこの件ですか」
「それだけ多くの債務を焦げ付かせているのですね」
「それは、あなたに関係ないでしょう。それより、どこの件ですか」
「蜂須賀侯爵家の件です」
――俺は知らないぞ。
留吉とて、横田の債務のすべてを知らされているわけではない。横田は金が必要になれば、あらゆる手筋を利用して借りているからだ。
「ああ、あの件ですか。まずは取り立て委任状を見せてもらえますか」
元山が鞄の中から取り立て委任状を出した。そこには依頼人として蜂須賀チエと書かれ、印鑑が捺されていた。
「なるほど、蜂須賀夫人は元山さんに回収を依頼し、元山さんは安藤さんに手伝ってもらっているという構図ですね」
安藤の眼光が鋭くなる。
「その通りです。あなたも多忙なら、われわれも多忙です。その金庫から金を出してもらえれば、受領証を書いておしまいです。横田さんとは知らない仲ではないんだ。さっさと済ませて飲みにでも行きましょう」
横田が額に手を当てて笑う。
「あなたたちも騙されましたね」
横田の言葉に、安藤と元山が顔を見合わせる。
「では、背景を整理しましょう」
元山が提案する。
「いいですよ。こちらの話と噛み合わないところも出てくるかもしれませんからね」
「では」と言って、元山が経緯を説明し始める。
そもそも六年前の昭和二十七年の師走、正確には元侯爵で元貴族院議員の蜂須賀正氏が、三田綱町にある約一千坪の敷地を売り出した。土地はすぐに売れたのだが、その話を耳にした横田は、蜂須賀に三千万円の借金を申し入れた。当時、横田は白木屋の買い占め騒動で、喉から手が出るほど現金を必要としていたからだ。
横田は蜂須賀に「三千万円ほど貸していただけるなら、年二割の利息を支払います」と言い、「一年後、私は白木屋の社長になっています。そうなれば三千万円など容易にお返しできます」とまで言い、蜂須賀から三千万円を借りた。
しかし横田は約束の期日が来ても、元金はもとより利息さえ返そうとしない。蜂須賀家では人を介して盛んに催促し、一千万円だけ返済してもらった。だが、そこで蜂須賀元侯爵が五十歳の若さで急死してしまう。
相続人となったチエ夫人は引き続き催促するものの、横田は馬耳東風でいっこうに返す気配はない。侯爵本人なら政財界に伝手もあるので、横田も無下にはできないが、相手が夫人となったので舐めて掛かったのだ。
そこで昭和三十年、夫人は訴訟を起こしたが、横田も柔ではない。双方は控訴と上告を繰り返しつつ最高裁まで上がり、翌年、最高裁は横井に残額二千万円と利息の支払いを命じた。結果は横田の敗訴だった。
だが横田は、最高裁の判決を無視した。チエ夫人は差し押さえ請求を起こしたが、差し押さえられたのは三万数千円だけだった。
横田は、岩井の入れ知恵によって資産隠しをしていたのだ。
――岩井の奴!
岩井は、横田と二人で何事か語り合っていることが多くなっていたので、留吉も嫌な予感はしていたが、おそらく横田に口止めされていたのだろう。岩井はこの件を一切留吉に語っていない。
――何て奴だ。不正の片棒を担いでいたのか!
怒りで頭が沸騰する。
元山が確かめる。
「以上ですが、われわれが何か思い違いしている点はありますか」
「まあ、そんなところでしょう」
横田が窓の外を眺めながら、冷めた口調で答える。
安藤が苛立ちもあらわに言う。
「それで、蜂須賀夫人から元山さんに相談がありましてね。われわれがお邪魔したという次第です」
「ああ、そうでしたか。しかし、この件は裁判で決着がついていますからね」
「そうですよ。だからさっさと払っていただきたいんです」
安藤や元山とて義理と人情で来たわけではない。二千万円プラス利息の一割から二割は礼金としてもらえるのだろう。
――これは危険だ。
彼らの懐に入る金がある限り、彼らも引くつもりはないだろう。仮に慈善事業で来たとしても、ヤクザや愚連隊は面子を潰されることを極端に嫌う。つまり手ぶらで帰すわけにはいかないのだ。
「ですから安藤さん、この件は裁判で話がついています」
「だからその判決に従い、支払ってもらいたいんですよ」
「今は、返済資金の手当てをしている段階です。そのうち支払います」
「そのうちとはいつですか」
「さてね」
「おい」
遂に安藤がドスの利いた声を出した。
「かつて雇われていた誼(よしみ)で下手に出ているんだ。払うのか払わないのかどっちなんだ!」
「君たちに、それを告げる義務はない。何なら警察を呼んでもいいんだよ」
「何だと!」
留吉が割って入る。
「安藤さん、お待ち下さい。私が事実関係を把握し、蜂須賀夫人の言っていることが正しければ、横田に支払わせます」
横田が顔色を変える。
「坂田君、何を偉そうなことを言っているんだ。君は私の部下なんだよ」
「社長、社内ではそうでも、社会には倫理というものがあります。不正行為を働いている会社は、やがて淘汰(とうた)されます。この場は私にお任せ下さい」
「論外だ。坂田、出ていけ!」
安藤が右手を前に突き出し、横田を制する。
「待ちなよ、横田さん。俺はあんたを信頼していない。だが、坂田さんは信頼している。だから坂田さんを外すことはさせない」
「社内のことだ。君の命令は受けない」
「何を言っているんだ。企業は社会の公器だ。あんたが白木屋でそんなことを言っていただろう。社内云々ではない。これは男と男の話し合いだ。その仲立ち役として、俺は坂田さんを指名しているんだ」
話がずれてきたので、元山が口を挟む。
「つまり横田さんは、蜂須賀夫人に残金を払うつもりがないというのですね」
「私は、そんなことは言っていない」
安藤が横田の蝶ネクタイを摑まんばかりに言う。
「だったら、その金庫まで行き、二千万円と利息を出してこい!」
「だから君たちに支払う金はない。私が払うのは蜂須賀夫人だけだ」
元山が鼻白む。
「横田さん、われわれは正式な委任状を持参してきたんだ。当事者を連れてくる必要はない」
「私は君たちを信用していないんでね」
「何だと」と目を剝(む)く安藤の袖を、元山が押さえる。
「では、夫人を連れてくれば払うというんだな」
横田が「やれやれ」という顔をする。
「私は法律に従うだけです」
安藤がまくしたてる。
「それでは答えになっていない。てめえがいくら金を持っているか知らないが、もう少し人間らしいことをしてみろ。蜂須賀夫人はな、今は困窮して借金生活だ。貴様に貸した金が戻ってくれば、そんな生活から脱せられる」
「いつまでも華族のつもりで、生活レベルを下げないからそうなるんだ」
「金を借りておいて何という言い草だ。てめえは人間じゃねえ!」
遂に安藤が立ち上がった。横田は悠然と座ったままなので、留吉が立ちはだかり、間に入った。
「安藤さん、落ち着いて下さい」
「おい、横田、たいがいにせいよ。お前にとって二千万円なんてはした金だろう!」
安藤がコーヒーカップを投げたので、高価な絨毯にコーヒーがぶちまけられた。
「ああ、絨毯が台無しだ。この絨毯(じゅうたん)は二百五十万円もしたんですよ。これで利子はなしですね」
「おい、チビ。舐めるのもたいがいにしろよ!」
次の瞬間、横田の顔色が変わった。横田は、容姿のことを指摘されるのを何よりも嫌うからだ。
「人がおとなしくしていれば、つけあがりやがって、このチンピラが!」
「チ、チンピラだと!」
まさかチンピラ呼ばわりされるとは思っていなかったのか、安藤は驚きで二の句が継げない。
「そう。お前はチンピラの借金取りだ。それ以外のことは何もできない人間さ」
「何てことを言うんだ」
安藤は少なからず傷ついたようだ。
――もうだめだ。
横田は短気な人間ではなかった。しかし次第に頭角を現し、さらに五島が背後に付いてから、傲慢(ごうまん)で短気な人間に変貌してきた。
安藤の眼光が鋭くなる。
――これはヤクザの目だ。
留吉でさえ背筋に寒気が走った。
「分かったよ、横田さん。自分の口から出た言葉は忘れないでおけよ」
そう言い残すと、安藤たちは出ていった。
ドアが強く閉められると、留吉は横田に向き直った。
「社長、何てことをしたんですか。相手はヤクザですよ」
「坂田君、すぐに絨毯屋を呼んでクリーニングさせてくれ。それから大沢さんに電話して、若いのを数人寄越してくれるよう頼んでくれ」
大沢とは、大沢武三郎というヤクザで、愛国社という政治結社を立ち上げていた。政治的には反共暴力団だが、その勢力はさほどでもなく、万年東一や安藤昇と敵対するなど考えようもなかった。ここのところ横田とのつながりを強くしており、用心棒のレンタルサービスのようなことをやっていた。
「安藤を怒らせたら、大沢さんも手を引きますよ」
「だったら、君が何とかしろ!」
「誰が安藤と戦争するのです!」
「知ったことか。君が俺の身を守れ!」
「いい加減にして下さい。自分で喧嘩の種を蒔き、その尻拭いを俺にやらせようというんですか!」
互いに興奮して怒鳴り合いになったが、突然、横田が猫撫で声に変わる。
「なあ、坂田君、私は君だけが頼りなんだ。何とか助けてくれよ」
それが横田得意の泣き落としだと分かっていても、留吉はひとまず横田を守らねばならないと思った。
「今更どうしろというんです」
「安藤君に詫びを入れてくれないか」
「私がですか」
「そうだ。行ってくれ」
「もう無理です。それより安藤と喧嘩しても守ってくれるヤクザを雇うしかないでしょう」
「そんな者がどこにいるんだ」
「その通りです。かくなる上は、安藤さんの兄貴分の万年さんに一千万円持っていき、仲裁役となってもらうしかないでしょう」
「一千万円なんて払えるか。五百万円にしろ」
「社長は殺されるかもしれないんですよ。ここで金を使わなければ、どこで使うんです!」
「しかし一千万円は辛(つら)い」
――この男は、自分の命より金が大切なのか。
その言葉に、留吉は天を仰ぎたい心境だった。
Synopsisあらすじ
戦争が終わり、命からがら大陸からの引揚船に乗船した坂田留吉。しかし、焦土と化した日本に戻ってみると、戦後の混乱で親しい人々の安否もわからない。ひとり途方に暮れる留吉の前に現れたのは、あの男だった――。明治から平成へと駆け抜けた男の一代記「夢燈籠」。戦後復興、そして高度成長の日本を舞台に第2部スタート!
Profile著者紹介
1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学卒業。『黒南風の海――加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で第1回本屋が選ぶ時代小説大賞を、『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞と第1回高校生直木賞を、『峠越え』で第20回中山義秀文学賞を、『義烈千秋 天狗党西へ』で第2回歴史時代作家クラブ賞(作品賞)を受賞。
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