夢燈籠 狼を野に放て第16回
四
安アパートで天井の節目を見つめながら、留吉は考えに沈んでいた。
――おい、留吉。
その時、唐突に燈籠の姿が脳裏に浮かんだ。
――久しぶりだな。
――ああ、お前も成長したからな。もう登場することもないと思っていた。
――ということは、俺が危なっかしいとでも思っているのか。
――当たり前だ。横田は油断できない男だ。
――そんなことは分かっている。しかしここで横田の船を降りれば、一生冷や飯を食うことになるかもしれない。
――だが、横田の船に乗り続ければ、様々な責任が生じてくる。共に汚名を着ることになるかもしれないが、その覚悟はできているんだろうな。
――ああ、覚悟の上だ。
――そうか。それならよい。それもお前の選択だからな。
消えていきそうになる燈籠を、留吉は呼び止めた。
――選択か。俺は自分で選択できる男になったんだな。
――そうだ。お前の母親が求めていたであろう男になった。だが、選択というのは難しい。
――分かっている。この選択が裏目に出るかもしれない。
――そうだ。裏目に出れば挽回するのはたいへんだぞ。
――だろうな。それでも泥水を飲まねばならない時がある。
――分かった。お前の選択が正しいことを祈る。
燈籠の姿が思い出の彼方に消えていった。
――江ノ島か。懐かしいな。
今でも留吉は、あの頃の家族の姿をはっきりと思い出せた。だが、様々な事情から一家は離散し、それぞれの人生を歩み始めた。
父の善四郎は自殺し、継母のいさは姉の登紀子と共にブラジルに渡り、かの地で客死した。長兄の慶一は満州で行方知れずとなり、次兄の正治は肺病を患って死んだ。連絡を取ろうと思えば、登紀子には取れるかもしれないが、戦争の混乱で、それどころではなくなってしまった。
しかもいさの弟で唯一、いさたちと留吉の間をつないでいた又吉健吉は死去した。それを知ったのは死去から随分と経った頃だったので、遺族に電話しかできなかった。その時、健吉の息子が電話口に出たが、戦後になってからはブラジルから頼りは届いておらず、健吉の死を知らせる手紙を登紀子たちにおくったが、その返信は届いていないという。そのため留吉は、登紀子に連絡するのをなおざりにしていた。
――それでいいんだ。登紀子姉さんも生きるのに精いっぱいだろう。俺と同じように。
留吉の脳裏に江ノ島の日々が次々と蘇った。だがその中心にあるのは、常にあの燈籠だった。
――あの家も燈籠も、もう人手に渡ってしまっただろうな。
父の善四郎が認知症に罹患し、知人に印鑑を盗まれたことで、留吉一家は家と土地を手放さねばならなくなった。そのため江ノ島を去ることになったが、その時以来、江ノ島には行っていない。
――少年の頃は、あの生活がずっと続くと思っていた。しかしこの世で、変化しないものなどないのだ。
家が壊されていれば、あの古い燈籠もどこかに捨てられ、瓦礫と化しているだろう。それも時の流れだと思えば、致し方ないことだ。
留吉は起き上がると時計を見た。まだ早かったが、会社に出掛けることにした。
昭和二十八年(一九五三)一月、留吉は横田と共に、京橋の本社からキャデラックに乗って、日比谷の日活国際会館に赴いた。
有楽町一丁目という一等地にあるこの建物は、昨年、日活がノースウエスト航空と組んで建てたもので、地上九階、地下四階、総建坪一万五千坪という、この時代の東京で最大級の威容を誇っていた。
その豪奢な応接室に案内された留吉は息をのんだ。アール・デコ調の内装で全体が覆われ、家具類はすべてマホガニー製で、微細な彫刻が施されている。社長の机の背後に飾られた印象派風の絵画は、おそらく有名画家の手になるものだろう。しかし美術に疎い留吉には、誰の作品だか分からない。
さすがに映画会社の総帥らしく、すべてに調和が取れており、悪趣味なものは一つとしてない。
だが横田は、そんなことに一切の関心がないようで、しきりに書類を見ては独り言を呟いている。
――この人にとっては、ここが人生の勝負所だからな。
だが、留吉にとっても人生を左右する大勝負なのだ。
やがて秘書らしき女性がお茶を持ってくると、しばらくして堀久作が姿を現した。
「いやー、わざわざお越しいただき、ありがとうございます」
堀は小柄な上に頭が禿げ上がっており、一見すれば中間管理職風の風貌だが、銀縁眼鏡(ぎんぶちめがね)の奥に光る瞳は、その聡明さと狡猾さを表していた。
この時、堀は五十二歳、横田は三十九歳なので、横田はいつも以上にへりくだっている。
「こちらこそ、ご多忙の折にもかかわらず、お時間を取っていただき、ありがとうございます」
横田が直立不動の姿勢で体を六十度近く曲げて挨拶した。留吉もそれに倣う。この時代、礼儀正しいか否かが、その人物の第一印象を決定していた。
「どうぞ、お座り下さい」
堀が人懐っこそうな笑みを浮かべる。
「いやー、堀さんとお会いできて光栄です」
「何を仰せですか。私こそ、時代の寵児ともてはやされる横田さんにお会いでき、実にうれしいです」
双方は互いに世辞を言い合った後、横田が留吉を紹介してくれた。
「ほほう、取締役の坂田留吉さんですか。よろしくお願いします」
――肩書の威力はたいしたものだな。
これまで政財界の大物に会って名刺交換してもらっても、歯牙にも掛けられなかった留吉だが、取締役という役職が付いただけで、堀ほどの男にも頭を下げてもらえるのだ。
「白木屋の乗っ取りに動いている方と聞いていたので、横田さんはもっと強面かと思っていましたよ」
「とんでもありません。私は一介のビジネスマンです」
横田はそのトレードマークとも言える蝶ネクタイに黒のタキシード姿だ。場末のキャバレーの支配人にしか見えないが、横田自身こうした恰好が好まれると信じているのだろう。
「いずれにしても、ご活躍のようで何よりです」
「堀さんこそ、素晴らしいビルを建てられましたね。羨ましい限りだ」
横田は相手が何を言われて最も喜ぶか、即座に見抜く力がある。しかも歯の浮くような世辞を言っても、横田なら嫌みに聞こえないのを十分に心得ている。
「このビルを建てる時には、私も苦労しました。まず千葉銀行頭取の古荘四郎彦頭取の支援を受けたのですが、それだけではとても足りません。そこでアメリカ輸出入銀行から金を借りるために、GHQのマッカーサー元帥に直談判したんです」
「ほほう、そうだったんですか」
横田は相槌の打ち方が絶妙だ。
「するとマッカーサー元帥は『日本の発展のために手を貸そう』と言い、話をつけてくれたんです」
「それは素晴らしい!」
「それでも足りないと泣きついたら、日本路線の確保とバーターで、ノースウエスト航空が資金援助してくれました。もちろんこちらもマッカーサー元帥のおかげです」
これでノースウエスト航空の資本参加も、マッカーサーの肝煎りだと分かった。
「さすがです。私だったら外資の導入など考えもつきません」
「普通はそうでしょうね。でも私はほしいと思ったら、決してあきらめないんですよ。あきらめたら、そこまでです。しかしあきらめなければ、活路が見出せることもあります」
堀は叩き上げの人物だった。東京経済大学の前身の大倉高等商業学校卒業後、株屋の店員や金融業の番頭のようなことをしながら仕事を覚えた堀は、東京ガス常務の松方乙彦の秘書となり、政財界に知己を得て頭角を現し、松方が日活の社長になったのを引き継ぎ、昭和二十年から社長の座に就いた。つまり横田同様、家柄も学閥もなく、徒手空拳でのし上がってきたことになる。
「さて、堀さん、今日はお願いの筋があって参りました」
横田がおもむろに切り出す。
「そのようですね。その筋とやらの予想はつきますが」
二人が高笑いする。
「お察しの通りです。私と手を組みませんか」
「白木屋の件ですね」
「はい。私の百二万株に堀さんの七十七万株を足せば、百七十九万株になります。総発行株数は四百万株なので、それで半数近くを抑えたことになります」
堀は何も答えず、にこやかな笑みを浮かべながら茶をすすった。
「本来なら、私の百二万株だけで累積投票ができ、わが陣営から重役を送り込むこともできます。しかしそれでは、ここまで買い進めてきた堀さんに失礼だ。そこで手を組んで、双方から役員を出したいと思っているのです」
累積投票とは、取締役を選任する際、議決権を有する各株主が、その有する株一株につき、選任する取締役の数と同数の議決権を認める投票方法で、少数の持ち株でも、その割合に応じて取締役を出すことができる、いわば少数株主の救済措置のことだ。
「でもね、私は白木屋を手に入れたいから株を買ってきたわけではないんですよ」
「えっ、そうなんですか」
「経営を安定させるために資本参加してほしいと、古荘さんから頼まれましてね。古荘さんの依頼は、全銀連の依頼も同然ですから」
全銀連とは全国銀行協会連合会のことで、護送船団方式で既存企業を守るために、株式の持ち合いや資本参加を仲介していた。それぞれ窓口となる銀行があり、日活の場合、それが千葉銀行になる。
「なるほど。そういうことだったのですね」
堀くらいになると本音を言わない。つまり本気で経営参加する気があるかないかは分からない。だが全銀連が黒幕として、日本の各産業の主要企業をコントルール下に置こうとしているのは間違いないようだ。これが後に護送船団方式と呼ばれ、諸外国の株式投資家から嫌われる日本の悪しき慣習になる。
「まあ、それはそれとして、白木屋にも困ったものですね」
「その通りです。鏡山一派は、戦後の日本の発展を妨げる悪の象徴です」
横田は、ここでも白木屋の現経営陣に対する怒りをぶちまけた。
「横田さんのお怒りは尤(もっと)もです。鏡山氏のように毛並みのよさだけで今の地位を手に入れ、仕事らしい仕事もせず政財界との付き合いにだけ精を出す人物は、白木屋にとって百害あって一利なしです」
「その通りです。日本のために、われわれは立たねばならないのです」
横田が自分の言葉に酔っているかのように言う。
「分かりました。やりましょう」
堀は呆気なく了承した。
「えっ、検討せずともよろしいので」
「はい。この件はすでに古荘頭取と打ち合わせ済みです。頭取は『横田君のことをよろしく頼む』と仰せでした」
「そうだったんですね。ありがとうございます」
横田は立ち上がると、堀の手を強く握った。その瞳には涙さえ浮かんでいた。
Synopsisあらすじ
戦争が終わり、命からがら大陸からの引揚船に乗船した坂田留吉。しかし、焦土と化した日本に戻ってみると、戦後の混乱で親しい人々の安否もわからない。ひとり途方に暮れる留吉の前に現れたのは、あの男だった――。明治から平成へと駆け抜けた男の一代記「夢燈籠」。戦後復興、そして高度成長の日本を舞台に第2部スタート!
Profile著者紹介
1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学卒業。『黒南風の海――加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で第1回本屋が選ぶ時代小説大賞を、『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞と第1回高校生直木賞を、『峠越え』で第20回中山義秀文学賞を、『義烈千秋 天狗党西へ』で第2回歴史時代作家クラブ賞(作品賞)を受賞。
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