夢燈籠 狼を野に放て第27回

十五

 タクシーで会社に駆けつけると、女子事務員から「すぐに社長室に行って下さい」と告げられた。 
 ノックをして入室すると、横田は見知らぬ男と対座していた。
「やっと来たか。安藤さん、彼が坂田君です」
「初めまして。坂田です」と、安藤と呼ばれた男に会釈すると、安藤はソファーに深く座したまま少し頭を下げた。
「安藤です」
 安藤は、きっちり背広を着こなした端正な顔立ちの男だった。年の頃は、まだ三十にも満たないくらいだ。ただその左頬には、短刀か何かで斬りつけられたと思(おぼ)しき傷痕が残っていた。それだけ見れば、この男が何を生業(なりわい)としているかが分かる。
「安藤さんとは、まさかあの――」
 留吉が名刺を差し出すと、さすがに安藤も立ち上がって名刺を出した。そこには「東興行代表取締役 安藤昇」と書かれていた。
「初めまして。安藤昇と申します」
 安藤昇といえば、法政大学を中退したインテリヤクザとして有名だ。一昨年に東興業(後の安藤組)という会社を設立し、用心棒稼業や賭博を主とした事業をしている。東興業は従来の暴力団やヤクザとは一線を画し、全員背広を着用し、刺青と指詰めを禁止した新時代のヤクザとして知られていた。
 横田は揉み手をせんばかりに笑みを浮かべている。
「安藤さん、よくぞ、おいでいただきました」
「今日は緊急とのことで駆けつけましたが、兄貴にも話を通していただかないと困りますよ」
「もちろんです。後で坂田君に連絡してもらいます」
 慌てて留吉が問う。
「兄貴というのはどなたですか」
「ああ、ご存じない。万年東一氏ですよ」
 ――冗談ではない。
 安藤の兄貴分は愚連隊の元祖で、インテリヤクザとしても有名な大日本誠一会会長の万年東一だ。万年は東京高等工学学校卒業、明治大学中退という経歴の持ち主で、安藤とは兄弟分の杯を交わしていた。万年は四十六歳になる。
留吉が横田に問うた。
「で、社長、事務の方から電話をもらい、『とにかく来い』と言われて駆けつけてきたのですが、どうしたんですか」
「休み中に悪かったね。実は昨夜というか今朝方、玄関に石を投げつけられてね。その石には、こんなものが貼りつけられていた」
 横田から手渡された手紙のようなものには、朱字で「斬奸状」と書かれていた。内容を読むと、白木屋の件から手を引かないと、横田か家族を殺すといったことが書かれている。
「これは脅迫状ではないですか」
「そうなんだ。ビジネスの世界にこうしたものを持ち込むとは、全く困ったものだ」
 安藤が煙草を吸いながら言う。
「それで私が呼ばれたのです」
 留吉が横田に問う。
「で、私には何をしろと――」
「これから安藤さんが、私を守ってくれることになった。それで君に安藤さんの便宜を図ってもらいたいのだ」
「それなら警察に相談したらいかがですか」
 安藤が気を悪くしないように、留吉は慎重に言ったが、横田は歯牙にも掛けない。
「警察はあちらの味方だ。全く頼りにならない」
 横田は思い込みが激しい。自分がこうだと信じたら、なかなかそれを覆すことをしない。これまでの人生で、警察には嫌な思いをさせられてきたのは分かるが、何も愚連隊を頼むことはないという気がする。
 安藤が煙草を揉み消しながら言う。
「坂田さんはご迷惑なようですよ」
 この時代、煙草を揉み消すことは「帰ります」という意味になる。
 横田が慌てて引き留める。
「そんなことはありません。なあ、坂田君」
「あっ、はい」
「しかし坂田さんの仰せのように、まずは警察に行ったらいかがですか」
「安藤さんもご存じのように、警察というところは、何かのきっかけがあると根掘り葉掘り聞いてきて、痛くもない腹を探ります。これまで私は、何度も煮え湯を飲まされてきました。とくに今回のように何の証拠もない事案では、損をするのは私の方ですからね」
 安藤が初めて笑みを浮かべる。
「ははは、それが警察というものです。しかし私が出張るとなると、何があるか分かりませんよ」
「というと――」
「相手は博徒の阿部重作でしょう」
 阿部は住吉一家三代目総長を務め、関東の博徒を束ねていると言ってもよい。
「そうです。鏡山は総会を乗り切るため阿部さんを雇いました。つまり昨夜の件も――」
「早計はいけません。何も証拠がないのに、こちらから先に手を出せば、双方血を見ることになります」
 横田と安藤のやり取りを聞いていて怖くなった留吉は、ここで引き返さないとたいへんなことになると思った。
「待って下さい。私が適任とは思えません」
 その言葉に、横田が癇癪(かんしゃく)を起こした。
「坂田さん、そんなことは分かっている。では、ほかに誰がいるんだ。うちの会社は、みんなピンボケばかりで物の役に立たない。あんただけが安藤さんの相手をできると見込んだんだ!」
「そうなんですか。それはよかった」
 安藤が陽気に笑うと続けた。
「坂田さん、われわれは愚連隊と呼ばれている。だが、暴力は極力使わない。なぜかと言えば、暴力は使わないからこそ存在価値があるからです。博徒や暴力団のように、暴力をやたらと使えば、暴力というものの価値が下がる。われわれがそいつを使う時は――」
 安藤が一拍置くと言った。
「死ぬか生きるかの時だけです」
「つまり安藤さんたちは抑止力ということですね」
「そうです。われわれが睨みを利かすだけで、阿部さんの手下どもは、容易には手が出せなくなる。総会でもその舌鋒は鈍るはずです」
 その言葉を信用できると思った留吉は覚悟を決めた。
「分かりました。私も社員ですから社長の命令には従います。安藤さん、私が窓口を務めさせていただきます」
「よろしくお願いします」
 相変わらず、ソファーに座ったまま会釈するだけだが、安藤も留吉には悪い印象を抱いていないようだ。
 安藤が問う。
「で、横田さんのお望みは、フルタイムのボディガードですね」
「そうです。家族は田舎(いなか)の親類に預けるので、私だけを守っていただきたい」
「いつまでですか」
「株主総会までです」
「となると約二カ月ですね」
 横田がうなずく。
「うちの若いのを常に付けます。ご自宅も横田さんがいる限りは守ります。ご不在の時に放火されても知りませんが」
「それで結構です」
「二カ月なので二百万いただきます。前金で百万、株主総会が終わったら百万。それでどうですか」
「えっ」と言って横田が絶句する。
「二百万で命が守れるなら安いもんですよ。何と言っても相手は阿部さんだ。その下には、鉄砲玉なんて掃いて捨てるほどいます。奴らは十年くらいムショに行かされても屁(へ)でもない」
 横田がため息をつくと答えた。
「結構です。坂田君、すぐ百万円を用意してくれ」
 留吉が経理課に行って百万円を用意させ、それを安藤に渡すと、安藤はにやりとして「長い付き合いになりそうですね」と言った。
 安藤を送り出すと、外には三人の若い衆が待っていた。安藤が出てくると、さっと車のドアを開けたが、そのいでたちや立ち居振る舞いは、どこから見ても上場企業の若手社員にしか見えない。
社長室に戻ると横田は不機嫌になっていた。
「致し方ない。これも必要経費だ」
「その通りです。何を措(お)いても社長の身が大切です」
 その言葉は横田の身を気遣ってのことではなく、ここで横田がいなくなれば、会社も留吉も終わりだからだ。
 横田は留吉の言葉を聞き流しながら言った。
「鈴木さんのところに行く。電話で予定を確かめてくれ」
「分かりました。松本先生はよろしいのですか」
「ああ、あの先生は腰が引けてきた。岩井君を頼む」
 どうやら松本弁護士にも財界の体制派の手が伸びているらしく、ここ数日、多忙を理由に横田と会おうとしない。
 鈴木と岩井のスケジュールを調整した留吉は数日後、横田と岩井と共に、鈴木の事務所に赴くことになった。

夢燈籠 狼を野に放て

Synopsisあらすじ

戦争が終わり、命からがら大陸からの引揚船に乗船した坂田留吉。しかし、焦土と化した日本に戻ってみると、戦後の混乱で親しい人々の安否もわからない。ひとり途方に暮れる留吉の前に現れたのは、あの男だった――。明治から平成へと駆け抜けた男の一代記「夢燈籠」。戦後復興、そして高度成長の日本を舞台に第2部スタート!

Profile著者紹介

1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学卒業。『黒南風の海――加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で第1回本屋が選ぶ時代小説大賞を、『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞と第1回高校生直木賞を、『峠越え』で第20回中山義秀文学賞を、『義烈千秋 天狗党西へ』で第2回歴史時代作家クラブ賞(作品賞)を受賞。

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