夢燈籠 狼を野に放て第38回
六
ところが事は、そう容易には運ばない。品薄株の投機的売買が激しくなると、一般投資家に思わぬ損害を与えかねないため、証券取引所によって「株価の変動値幅の制限、信用取引証拠金の引き上げ、信用取引による新規売買停止措置」といった措置が取られた。
これに勢いを得た一部の投資家は、横田がどこかで売りを浴びせてくると読み、空売りを仕掛けた。
これで横田の買収工作も暗礁に乗り上げたかに見えたが、市場の横田への期待はそんなもので終わらなかった。
各証券会社の東洋精糖の貸株は百二十万株以上不足し、現物株を持たない売り方の買い戻しが殺到、株価は連日ストップ高を付けた。
貸株とは、信用取引で株を空売りしたい投資家に証券会社が株を貸し出すことで、現物を保有している顧客は、貸し出すだけで利息がもらえるという仕組みのことだ。
取引所の措置は焼け石に水どころか、買い方に有利に働くばかりだった。その逆に売り方、すなわち空売りした方は、逆日歩と呼ばれる利息料が発生し、日に日に金利負担が大きくなっていった。
買い方の横田にとって、これは朗報だった。百万株の買建玉に毎日五十万円の金利が付くのだ。この株券を担保にすれば、銀行金利の十倍ほどの高利でも金利負担はなくなるので、横田が圧倒的に有利になる。
横田は信用取引の買建玉を片っ端から引き取ったので、市場から現物は消え去ってしまった。というのも東洋精糖側の株が五割強あり、投機的利益を得るために売買される浮動株は、すべて合わせても百三十万から百四十万株しかないからだ。
東洋精糖株の取り引きを扱った証券各社は危機に陥ったが、現物がないことにはどうしようもない。
横田は証券会社に対し、「株券を渡せ。渡さなかったら取引所と証券会社を告訴する」と言い張った。この逆日歩は七カ月も続き、横田は逆日歩だけで一億数千万円の利益を上げた。そのため空売りをしていた投資家の中には、自殺者まで出る始末だった。
昭和三十二年(一九五七)十一月、五島の招待を受けた横田は、留吉と岩井を引き連れて築地の料亭「分(わけ)とんぼ」を訪問した。
鹿威(ししおど)しの音だけが庭から聞こえる静寂の中、畏(かしこ)まる三人とは対照的に、五島は上機嫌だった。
「横田君のおかげで、私も随分ともうけさせてもらったよ」
「いえいえ、五島さんが背後に付いているという看板代ですから、当然のことです」
紫煙を吐きながら、五島が噴き出す。
「看板代か。うまいことを言うな。確かにそうかもしれんが、今回のことは、ひとえに横田君とそのチームの功績だ。それで今日は、横田君のブレーンだという君たちを連れてきてもらった」
留吉と岩井が恐縮しながら自己紹介する。
「そうか。二人は同じ高校だったのか。それは腐れ縁だな」
留吉が恐縮しながら答える。
「はい。おかげさまで持ちつ持たれつで、何とかここまでやってこられました」
「なるほどな。これからも横田君を支えてくれ。とくに君――」
五島が顎で指したのは、岩井の方だった。
「岩井君、いや、岩井先生か。今回の一連の売り抜けや買収工作の陰の仕掛人は君だってな」
「いえ、まあ、はい」
五島を前にして、緊張した岩井は太った体を縮ませて頭を下げた。
「横田君も、いい人材を見つけたな」
横田が言い添える。
「そうなんです。こちらの岩井先生が買収と見せかけてサヤ抜きするという戦法を編み出したのですが、これには巨額の資金が要るので、私は当初難しいと思っていたのですが、五島さんがバックに付いているというだけで、一般投資家が提灯買いしてくれるので、面白いようにもうかりました」
「そうか。優秀な弁護士がいてよかったな」
――本当にそうなのか。
確かに岩井は商法が専門だが、それを専門とする弁護士は多い。しかし彼らは、下手をすると財界から糾弾されかねないような危ない橋を渡ろうとはしない。なぜかと言えば、もう地位が確立されているからだ。
――だが、岩井は渡った。もしかすると――。
岩井がまだ賭博的な投資や女と切れていないのではないかという疑念を、留吉は抱いた。
五島が大好きな日本酒をうまそうに飲みながら言う。
「それで、もう一人の――」
「坂田ですか」
「そう。坂田取締役はどうだ」
「彼も優秀ですが、専門は企画や営業なので、今回のような荒事は専門外です」
横田は、買収と見せかけてサヤ抜きするという戦法を荒事と表現した。確かにその通りなので、留吉は内心可笑(おか)しかった。
「坂田君は、いつも君と一緒だね」
「そうなんです。彼がいないと私が暴走してしまうので」
「つまり止め役か」
「それです。『忠臣蔵』で言えば――」
「ああ、梶川与惣兵衛(よそべえ)だな」
「そう。彼は梶川なんです」
二人が爆笑する。
梶川与惣兵衛とは、浅野内匠頭(たくみのかみ)が殿中で刃傷沙汰(にんじょうざた)に及んだ時、たまたま居合わせて内匠頭を背後から押さえた旗本のことだ。この時代には、抑え役の代名詞として使われていた。
――俺はそんなものなんだな。
岩井のように専門領域を持つ者と違い、留吉は生きるのに必死だったので、資格一つ持っていない。それが、ここに来て響いてきていた。正直な話、若い頃に苦学して弁護士の資格を取った岩井が羨ましかった。
五島が煙草を吸いながら問う。
「そうだ。今日は、ある人たちを紹介したいと思ってね」
「あっ、ぜひ」
横田が威儀を正す。というのも五島が紹介してくれる者なら、マイナスはないからだ。
「ある人たち」を呼ぶことは、最初から予定されていたらしく、五島の隣には二つの席がセットされていた。
五島が仲居を呼ぶと、「二人を呼んでくれ」と言った。
しばらくすると、二人の男が入ってきた。一人は短躯(たんく)、一人は長身だが、二人共人としての迫力があるので、思わず三人は座布団を払って深く頭を下げた。
「どうだ。この二人が誰か分かるかい」
五島の問いに、横田が首を左右に振る。
「申し訳ありません」
「ははは、君たちの顔もさほど売れていないな」
二人が照れ臭そうに笑みを浮かべる。
「こっちの大きい方が、この店のオーナーでもある小佐野賢治君だ」
「小佐野です。よろしくお願いします」
「あっ、小佐野さんでしたか。これはご無礼を」
横田が恐縮する。
小佐野賢治は大正六年(一九一七)に山梨県で生まれた。横井の四つ年下になる。八畳一間と土間があるだけの極貧農家で生まれ、戦時中は大陸に出征するが、負傷して帰国後、賄賂によって陸軍省に食い込み、戦後は自動車部品業で頭角を現した。この頃はホテルや観光関連会社の買収で、横田同様、業界の風雲児となっていた。横田より早く五島に取り入り、その資金も横田の数倍はあった。
「そしてこちらのチョビ髭が、田中角栄君だ」
「田中です」
「えっ、こちらが今年、郵政大臣に就任したばかりの田中先生ですか」
横田が細い目を見開く。まさか大臣を呼び出しているとは思わなかったので、留吉も啞然とした。
――五島というのは、大臣まで呼び出せるのか。
五島のフィクサーぶりには、開いた口が塞がらない。
「いや、いや、どうも、どうも。あの高名な横田さんと知り合えて光栄です」
田中は大臣とは思えないほど腰が低い。
「こちらこそ、田中先生と知り合えるなんて望外の喜びです」
横田は最近語彙(ごい)が増えてきた。
「それでだ」
五島手ずから、小佐野と田中の二人のコップにビールを注ぎながら言う。
「これからはチームで事を起こそうと思っている」
横田が早速合の手を入れる。
「それはいいですね。資金力があれば財界の天井を突き崩せます。それで田中大臣を総理大臣にまで押し上げることもできます」
「いや、いや、私なんて――」
演説で潰したらしき嗄れただみ声でそう言いながら、田中もまんざらではないようだ。
「天井か。小佐野君も見えない天井には苦労してきたんだよな」
「はい。横田さんも感じていると思いますが、戦後になり、財閥が解体されたにもかかわらず、いつの間にか昔ながらの日本企業が息を吹き返し、われわれのような新たな起業家を締め出そうとしています。このままでは戦前と同様の閉鎖的で活力のない企業社会が蘇るだけです」
横田がここぞとばかりに腰を浮かせる。
「仰せの通りです。いまだ日本は戦前の亡霊に支配されています。彼らは家柄と学閥だけを重視し、お仲間だけで旧態依然とした経営を続けています」
――横田も小佐野も、そんな企業社会に風穴を開けたいんだ。その気持ちは痛いほど分かる。だが正攻法では木っ端微塵(みじん)にされるだけだ。それゆえどんな手を使っても、自分を肥大化させていくしかないんだ。
五島がうれしそうに口を挟む。
「その通りだ。私も旧態依然とした経営者の一人かもしれないが、このままでは日本が駄目になると思い、小佐野君や横田君が頭角を現すのを助けたいと思っている」
「ありがとうございます」
二人が声を合わせる。
「そして田中大臣、君も政界の天井を突き破るんだ」
「はい!」
田中が迫力のある声を絞り出す。
「それで二人もご存じの通り、横田君は今、東洋精糖という会社を買収しようとしている。そのための資金も、これまでのサヤ抜きで十分に手にしている」
二人が同時に笑った。それほど横田のサヤ抜きは有名なのだ。
「それほどでもありませんが――」
横田が本音を垣間見せる。
「ところが今回は本気で買収に乗り出した。東洋精糖はオーナー企業なので、政財界の伝手(つて)を使って邪魔をしてくるだろう。それでも私の影がちらつけば、政財界はあからさまなことはできない。しかし私も体面上動きにくい。その時は小佐野君、助けてやってくれ」
「はい。もちろんです」
「それで田中君は政界の方の抑えを頼む」
「えー、任せて下さい」
横田が額を畳に擦り付ける。
「よろしくお願いします」
もちろん二人を動かせば、それなりの見返りが必要な上、これからも持ちつ持たれつの関係を築いていくことになる。
――それで引き合わせたんだな。
五島の狙いが分かってきた。
「それでだ。雑談に入る前に、もう一つ話がある」
三人が「何でしょう」という顔を五島に向ける。
「ここにいる岩井弁護士だが――」
突然、話を振られ、岩井が息をのむような顔をしている。
「白木屋の買収騒動から今回の一連のサヤ抜き、そして東洋精糖の買収まで、横田君のブレーンとして岩井君が知恵を絞り出してきた。だが、岩井君は横田産業の社員ではないので、条件次第で誰でも契約できる。な、そうだな」
横田が致し方なさそうに答える。
「はっ、そういうことです」
「だから、君らも何かあったら、岩井君に知恵を借りなさい。もちろん私もそうさせてもらう」
岩井がすかさず頭を下げる。
「よろしくお願いします」
――岩井も調子がいいな。
だが、岩井の前に大きな道が開けたのは間違いない。
「よし、話はここまでだ。小佐野君、芸者を呼んでくれたまえ」
その後は、どんちゃん騒ぎとなった。
この頃、五島と小佐野の連合軍は、田中を巻き込み、新潟の交通事業を担う三社をまとめて乗っ取ろうとしていた。バス事業は小佐野が詳しく、鉄道は言うまでもなく五島が詳しい。それゆえ新潟に地盤のある田中が暗躍し、長岡鉄道、栃尾鉄道、中越自動車三社を合併させ、越後交通として再出発させていた。この件は新潟県を故郷とする田中が五島に勧めたもので、田中自身も越山会(田中の後援会)の会員を動かして買い占めに奔走していた。
Synopsisあらすじ
戦争が終わり、命からがら大陸からの引揚船に乗船した坂田留吉。しかし、焦土と化した日本に戻ってみると、戦後の混乱で親しい人々の安否もわからない。ひとり途方に暮れる留吉の前に現れたのは、あの男だった――。明治から平成へと駆け抜けた男の一代記「夢燈籠」。戦後復興、そして高度成長の日本を舞台に第2部スタート!
Profile著者紹介
1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学卒業。『黒南風の海――加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で第1回本屋が選ぶ時代小説大賞を、『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞と第1回高校生直木賞を、『峠越え』で第20回中山義秀文学賞を、『義烈千秋 天狗党西へ』で第2回歴史時代作家クラブ賞(作品賞)を受賞。
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