夢燈籠 狼を野に放て第39回


 昭和三十一年(一九五六)の「経済白書」に書かれた有名な言葉に、「もはや戦後ではない」というものがある。その一言は、戦後復興が完了したので、日本は新たな一歩を踏み出さねばならないという号令でもあった。この言葉を旗印として、日本は未曾有の経済成長へと突き進み始める。
 露天商の元締めからスタートし、本格的な実業家への道を歩み始めていた尾津喜之助は、昭和三十二年に埼玉県越谷市に二千七百坪の土地を買い、そこに別荘を建てた。
 その閑雅(かんが)な別荘を、留吉と岩井は訪問した。
 岩井が笑みを浮かべながら、アタッシュケースを開けた。
「利息も含めて、全額返済させていただきます」
「そうか。ボーナスでも入ったのかい」
「はい。私は横田産業の社員ではないので成功報酬をもらえたのです。それで、こうして一括返済できることになりました」
 横田をもうけさせたことで、岩井は多額のボーナスをもらっていた。岩井は一連のサヤ抜きや買収においての成功報酬を、事前に横田にのませていたので、横田も渋々ながら払わざるを得なかった。
「そうだったのか。君はやり手だね」
「いや、そんなことはありません」
「それにしても横田は一筋縄ではいかない男のようだ。君たちも気をつけろよ」
「はい」と二人が声を合わせる。
「それで君らは、これからどうする」
 その問いに顔を見合わせると、岩井が答えた。
「私は、横田だけでなく様々な方の顧問弁護士として活躍したいです」
「それで」
「自分の能力を世に問いたいのです」
「なるほど。君も弁護士という階層社会で生きているんだな」
 尾津は岩井の立場を見抜いていた。
「その通りです。大企業や優良企業は既存の弁護士事務所と契約し、入り込む余地はありません。私のような者は、横田のような新興起業家と共に歩むしかないのです」
 本来なら岩井が師匠と呼んでいた金井弁護士が健在なら、岩井はその下で修業し、顧客のおすそ分けにも与(あずか)れただろう。だが金井が病いによって逝去することで、岩井は弁護士界という荒海を一人で航海せねばならなくなった。それゆえ業界から弾き出されるリスクを背負ってでも、ぎりぎりのことをせねばならないのだ。
 尾津がうまそうに茶を飲みながら言う。
「どんな世界でも既得権益層は存在する。その壁を突き破っていくのは容易ではない。しかし君は、横田を梃子(てこ)にして突き破れそうなのだな」
「はい。お陰様で横田以外の財界の著名な方々からも、顧問にならないかというお誘いを受けています」
 財界の著名人と言っても、それは横田とさして変わらぬ小佐野ら新興の起業家たちだった。
「それはよかった。健闘を祈る。だがな――」
 尾津は一拍置くと、 煙管(キセル)に煙草を詰めながら続けた。
「あいつらの世界は、こちらの世界と何ら変わらん。汚いものも見ねばならんし、多くの誘惑もある」
「はい。二度と過ちは犯しません」
「岩井君は既婚者だったな。奥さんとの仲はうまくいっているのか」
「は、はい。もうすぐ子供も生まれます」
 それは留吉も初めて聞く話だった。それだけ岩井との距離ができていたのだ。
 尾津が慣れた手つきで灰を落とすと、再び煙管に煙草を詰め始めた。
「さてと、そちらの兄さん」
「はい。坂田留吉です」
「兄さんの名前は知っているよ。それで、兄さんはこれからどうするんだい」
「もうしばらく横田の近くにいようと思っています」
「どうしてだい」
「横田の近くにいると、勉強になりますし、様々な方と知己になれます」
 いかにもうまそうに、尾津が紫煙を吐き出す。
「そうか。そうしたことを続けているうちに、チャンスを摑もうってわけだな」
「まあ、そんなところです」
「だが、横田というのは食えない男だ。腐れ縁にならないうちに手を切った方がよい」
「そ、そうですね」
 確かに尾津の言う通り、横田は危険な男だ。一蓮托生になる前に、横田のサポート役から脱しなければならない。
「まあ、いいさ。また遊びに来い」
「はい」と二人が声を合わせたが、おそらく岩井が何の用もなく尾津に会いに来ることはないだろう。それは留吉にも言えることで、これで縁が切れてしまうには惜しい人物だが、住む世界が異なるので致し方ない一面もある。
 二人は尾津に何度も礼を言い、越谷の別荘を後にした。

夢燈籠 狼を野に放て

Synopsisあらすじ

戦争が終わり、命からがら大陸からの引揚船に乗船した坂田留吉。しかし、焦土と化した日本に戻ってみると、戦後の混乱で親しい人々の安否もわからない。ひとり途方に暮れる留吉の前に現れたのは、あの男だった――。明治から平成へと駆け抜けた男の一代記「夢燈籠」。戦後復興、そして高度成長の日本を舞台に第2部スタート!

Profile著者紹介

1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学卒業。『黒南風の海――加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で第1回本屋が選ぶ時代小説大賞を、『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞と第1回高校生直木賞を、『峠越え』で第20回中山義秀文学賞を、『義烈千秋 天狗党西へ』で第2回歴史時代作家クラブ賞(作品賞)を受賞。

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