夢燈籠 狼を野に放て第36回
四
七月八日、横井が起こした訴訟、すなわち鏡山派の総会会場変更手続きの不備による決議取り消し訴訟の判決が下った。
それは、「東京會舘での横田派の延会は無効」「鏡山派の延会の決議も招集手続きの不備により無効」「鏡山派の提出した横田らの取締役職務執行停止の仮処分」といった内容だった。
これにより、いよいよ追い込まれた横田は、資産の切り売りを始めた。かつて五千万円で買った京橋の角にあった旧大都ビルを二億四千万で売却した。大きな利益が出ているとはいえ、買ってばかりの横田が売却したという情報は、横田の苦しい状況を世間に公表したも同じだった。
続いて横田は、五島に不動産を買ってくれと泣きついた。五島も見るに見かね、田園調布、青山、池上などにあった不動産を、折り合いのつく価格で買ってやった。
こうしたビジネス上の関係を作っておいてから、横田は改めて五島に白木屋株の肩代わりを頼んだ。
実はこの頃、財界からも五島の許に「白木屋の件を終わらせてくれ」という依頼が来ていた。というのも白木屋問題が世間にも知られるようになり、財界としても無視できなくなってきたからだ。つまりこうした問題を放置することにより、財界の処理能力のなさを露呈し、それが一般株主の株式市場への不信につながりかねなくなってきたからだ。
五島は横田に内緒で調査を開始した。そして十月、横田を突然、築地の「新喜楽」に呼んだ。
嬉々として駆けつけた横田に五島は言った。
「白木屋株を買ってもいいぞ」
横田は正座すると「ありがとうございます」と答えた。
しかし、そこからが一苦労だった。価格の折り合いがつかないのだ。
当初、双方の希望価格には相当の開きがあったが、五島の「君が過半数の二百十万株を集めてきたら、一株三百六十円で買おう」という一言に、横田も折れた。
「それで結構です」
横田は再び頭を下げたが、留吉は横田の袖を引いた。
「社長、とりあえず別室で相談しましょう」
五島が悠揚迫らざる態度で言った。
「そうしたまえ」
致し方なさそうに別室に入った横田が言った。
「おい、決まりかけた話だったのに、五島さんの気が変わったらどうするんだ」
「お待ち下さい。一株三百六十円だと莫大な損失が出ます」
一株四百二十円でプラスマイナスゼロという計算を、すでに留吉はしていた。
「一株三百六十円だと、どれくらいの損失になる」
「二百十万株ですから、一億二千六百万円です」
「えっ」と言って横田が絶句した。おそらく横田も損失が出るものと思っていたのだろう。だが、それが一億二千六百万円となると話は別だ。
横田が顔をしかめる。
「損は覚悟していたが、そんなに出るのか」
「相手は大金持ちです。もう少し交渉したらいかがでしょう」
「うーん」
横田は額に汗をかきながら考え込んだ。
「俺が五島さんに交渉など十年早い。機嫌を損ねてしまえば、まとまる話もまとまらなくなる。ここは損切りしよう」
「それで鈴木さんたちも構わないのですね」
「ああ、私に一任されている」
「では、戻りましょう」
五島のいる部屋に戻った横田は、にこにこしながら答えた。
「一株三百六十円でお願いします」
「そうか。君も大人になったな。もう少し早く大人になっていれば、白木屋株などという下らんものに手を出さなかったものを」
「はい。これも勉強だと思っています」
「それならよい。では、まずこの場は約定書を取り交わし、後日、正式調印を行おう」
二人は店に筆と紙を依頼し、その場で簡単な約定書を交わした。
「ありがとうございました。これで東急学校に入学したと思ってよろしいでしょうか」
「ははは、いいだろう」
「少し高い入学金ですが、これで五島さんとお近づきになれたので、安い買い物でした」
これ以降、横田は「私は五島学校の入学金として五億四千万払った」と吹聴して回った。つまり損失額の一億二千六百万円ではなく、全投資額の五億四千万円にすり替えて言うことで、自分を大きく見せようとしてたのだ。これについて五島が文句を言った形跡はない。
「そういう考え方もできるな。これからは持ちつ持たれつだ」
どうやら五島も、横田のことを気にいったようだ。
「ところで、君に影のように付き従っている役員だが――」
「ああ、坂田ですか」
突然、自分に話が振られ、留吉は戸惑った。
「どうやら切れ者らしい。大事にしろよ」
「もちろんです」
五島が留吉の何を見て切れ者と思ったのかは分からない。だが五島ほどになると、相手の顔つきや立ち居振る舞いだけで、どの程度の人間だか値踏みできるのだろう。
翌日、東急本社の会長室で、双方は正式調印を済ませた。さらに五島は三信建物という会社に渡っていた堀久作の株も買い取り、白木屋の発行株式四百万株の三分の二を上回る三百二十万株を手中にした。これで定款の改正と重役の刷新が行えることになった。
さらに翌日、白木屋に乗り込んだ東急グループの役員たちは、鏡山にこの事実を伝えた。これにより、同年十二月末をもって鏡山と重役たちは、白木屋を去ることになる。
横田の「肉を切らせて骨を断つ」粘り強さによって、遂に白木屋に巣くっていた守旧勢力は一掃されることになった。しかし横田が白木屋の代表取締役の座に就くことはできず、世間では痛み分けといった評価が一般的だった。
かくして白木屋騒動は落着したが、横田・鏡山双方にとって、何ら得るところのない不毛な戦いとなってしまった。
結局、白木屋は日本橋東急として再出発を果たすことになる。
Synopsisあらすじ
戦争が終わり、命からがら大陸からの引揚船に乗船した坂田留吉。しかし、焦土と化した日本に戻ってみると、戦後の混乱で親しい人々の安否もわからない。ひとり途方に暮れる留吉の前に現れたのは、あの男だった――。明治から平成へと駆け抜けた男の一代記「夢燈籠」。戦後復興、そして高度成長の日本を舞台に第2部スタート!
Profile著者紹介
1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学卒業。『黒南風の海――加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で第1回本屋が選ぶ時代小説大賞を、『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞と第1回高校生直木賞を、『峠越え』で第20回中山義秀文学賞を、『義烈千秋 天狗党西へ』で第2回歴史時代作家クラブ賞(作品賞)を受賞。
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