夢燈籠 狼を野に放て第10回
十一
行きつけのバーに着いた横田は、奥まった場所にあるボックスシートに座ると、早速切り出した。
「先ほどの話ですが、実は、具体的に考えている物件があります。坂田さんは社員なのでよいのですが、岩井さんは秘密を守れますか」
「えっ、いや、そんな大事な話をしていただかなくても――」
「いや、聞いていただきたいのです。誰にも話さないでいただければ、それで結構です」
「わ、分かりました」
この雰囲気では、そう答えるしかない。
「実は、私は大物を釣り上げようとしています」
「大物、ですか」
岩井は横田の話に関心はあるようだ。
「そう。今までは、売りに出ている物件を購入して値上がりを待つという形でしたが、これからは違います」
留吉もさすがに不安になってきた。
「社長、売りに出ていない物件を、どうやって買うというのですか」
「坂田さん、世の中の仕組みは実によくできている。売りたくない人から買う方法があるなど、私も最初は知りませんでした。しかしあるのです」
岩井がため息をつきつつ言う。
「敵対的買収ですね」
「さすが岩井先生だ」
「まあ、商法が専門なので――」
留吉が岩井に問う。
「どういうことだ」
「株式会社というのは、誰でも株を売買できるだろう」
「当たり前だ」
「買収者が買収対象会社の同意を得ないで、買収を仕掛け、株の過半数を押さえ、会社の経営権を支配できる議決権を取得するということだ」
「つまり相手に知られずに、密かに株を買い集めるのか」
「最初は、そういうことになる」
「しかしそんなことで、相手の会社を経営できるのか」
横田がにこやかな顔で答える。
「できます。業績が伸びず、社員に十分な給料を払えない会社では、役員と社員は一体ではありません。そんな時は逆に社員から喜ばれます」
「つまり商法上も問題なく、社員からも歓迎されるかもしれないんですね」
「その通り。経営努力を怠れば、こうした罰を受けるのが株式会社なのです」
得意満面の横田に、留吉は思い切って問うてみた。
「で、社長には具体的な狙いがあるのですか」
「あります」と言って、左右を見た後、横田は小声で言った。
「デパートです」
「はあ」
予想もしなかった横田の言葉に、留吉と岩井は顔を見合わせた。
「で、どこのデパートですか」
「皆さん、ご存じ日本橋の白木屋デパートです」
「白木屋ですか」
思わず留吉は聞き返してしまった。
「そうです。白木屋は江戸時代の日本橋で創業された呉服屋が母体となり、そこから発展して今に至ります」
関東大震災で全焼するという大きな被害を受けた白木屋デパートだったが、昭和六年(一九三一)、新装開店して復活を遂げた。鉄筋コンクリート七階建てで売り場面積は一万坪に上るこのビルは、「東洋一の百貨店」と呼ばれた。しかし翌昭和七年十二月、死者十四人を出す火災を起こしてしまい、いったん業績が悪化した。しかしすぐに持ち直し、戦前から戦後にかけて、日本橋三越とデパート業界の覇を競っていた。
「しかしながら、これだけの伝統と資産を有し、また日本橋という立地にも恵まれていながら、三越と比べて業績は芳しくありません」
横田によると、三越が坪あたり二十五万円、従業員一人あたり九十五万円の月次実績を挙げていながら、白木屋は坪あたり十一万四千円、一人あたり五十万円しか挙げられず、この数字は高島屋、東急、大丸などより下で、デパート・ランキングの十位内にぎりぎり入るくらいだという。
「しかも、こうした業績の悪化を企業努力で乗り切ろうとせず、納品業者いじめで乗り切ろうとしています」
横田の口調がしんみりとしたものに変わる。
「私はね、白木屋には、煮え湯を飲まされたことがあるんですよ」
横田によると、かつて白木屋と取引していた頃、横田は仕入れ価格を叩きに叩かれた挙句、五ヶ月の長期の約束手形で支払われた。それでも白木屋に入り込みたかった横田は、白木屋側の一方的な要求に従わねばならなかった。その時の購買担当の居丈高な態度が、横田の反骨精神を呼び覚ました。それが白木屋社長の鏡山忠男への憎しみに転化していくのに、さほどの時間はかからなかったという。
「全財産を使っても白木屋を乗っ取り、私が鏡山に代わって経営者となり、白木屋をよみがえらせたいのです」
留吉が首をひねる。
「しかし、なぜデパートなんですか。もっと有望な業種はあるはずです」
この頃の日本は高度成長期に入る前なので、何をやっても成功は約束されていた。とくに製造業は国が力を入れていることもあり、デパートに比べ、はるかに将来性があった。
「坂田さん、これからデパートは伸びます。誰もが購買意欲を持つ時代が来るからです。確かに製造業は、もっと伸びるかもしれません。しかしデパートには、広告宣伝効果があります」
「どういうことですか」
「例えば、何を造っているか分からない製造業を買っても、誰もピンときません。しかしデパートなら、『ああ、あのデパートのオーナーか』という感じで、誰でも分かります。つまり横田産業の名が日本全国に知れわたるのです。そうなれば信用が生まれます。その信用を基にし、さらなるビジネスを展開していけるのです」
――なるほど、そういうことか。
横田の深慮遠謀に、留吉は舌を巻いた。
岩井が恐る恐る問う。
「白木屋を買収するとなると、多額の資金が必要なだけでなく、売ってくれる株主も必要になります。勝算はあるのですか」
「あります。まず個人投資家が買っている浮動株を密かに買っていき、その後、敵対的買収がばれたら、大株主を順次攻略していきます」
「ああ、なるほど」
岩井はそれ以上突っ込まないが、留吉が重ねて問うた。
「株主への戦略は分かりましたが、買収資金はどうするのです」
「そこです」と言って、横田が前のめりになる。
「買占めを始めると、株価が上がっていきます。そうなると資金が足りなくなります。そこでお二人に相談があるのです」
岩井は興味津々という体で、横田の次の言葉を待っている。
「今のうちに、金を貸してくれそうな先を物色しておいてほしいのです」
「つまり金融機関ですか」
「まともな金融機関は難しいでしょうな」
「どうしてですか」
「奴らは持ちつ持たれつだからです」
大企業と大銀行は門閥や学閥で手を握っており、新参者が割り込む隙はない。つまり「金を貸してくれ」と言っても、白木屋に味方して貸さないことが考えられるのだ。
「では、闇金から借りるのですか」
闇金とは、貸金業への登録の有無を問わず、刑罰が科される出資法の上限金利を超える金利で貸し付けを行う違法な金融業者のことだ。
「それも覚悟せねばなりません」
「しかし先だっての光クラブ事件で、闇金業者は利子率を法定内に抑えていると聞きますが――」
光クラブ事件とは、東大生の山崎晃嗣(やまざきあきつぐ)らが始めた光クラブという貸金業者が、年利率約十八パーセントという高利で資金を集め、さらに「トイチ(十日で一割)」という高利で、経営が苦しくなった中小企業や商店に金を貸し、たいへんな勢いで急成長していった。しかし警察に目をつけられ、山崎が物価統制令違反で逮捕されることで流れが変わる。山崎は見事な弁舌で不起訴を勝ち取るが、出資者の信用を失って業績が悪化し、この十一月、多額の負債を抱えたまま自殺を遂げた。
「若造たちのおかげで、金融事情が厳しくなったのは知っています。しかし蛇の道は蛇です。闇の世界に高利貸はいます。それを今のうちから探しておいてほしいのです」
「待って下さい」
もじもじしているだけの岩井に代わり、留吉が言った。
「岩井は手堅い商売をしています。巻き込みたくはないのですが」
「それは岩井さんが決めることでしょう。今回の買収がうまく行けば、坂田さんと岩井さんを、白木屋の役員と監査役として送り込むつもりです。いや、つもりではなく、約束しましょう」
横田が細い目を大きく見開く。
――この男は、本気で人生の勝負をかけようとしている。
その覚悟は、横田の顔から伝わってくる。
「さて、岩井さん、どうしますか。ここで下りますか。それとも――」
「やらせて下さい」
「さすがです」
これには留吉の方が驚いた。
「弁護士といっても上には上がいて、すべての企業を押さえています。私などは中小企業や商店を相手に日銭を稼ぐので精いっぱいです。それなら勝負しようかと――」
「それが男というものです」
横田がオレンジジュースの入ったグラスを掲げたので、岩井が水割りの入ったグラスで応じた。
――岩井にも欲があったのだ。
留吉の前では常に余裕を見せている岩井だが、チャンスを摑もうと必死になっていたのだろう。
「で、坂田さんは協力してくれますか」
「一つだけ約束して下さい」
「何なりと」
「法を犯すようなことはしないでいただきたい」
「もちろんです。この横田英樹、今の今まで、一度も法を犯したことはありません」
それは事実だった。しかし法律内で他人を困らせることを平気でするのが横田なのだ。
「法律の範囲内であっても、借金の支払いを遅らせるとか、誰かを困らせることはしないと約束できますか」
「はははは」と横田が笑った後に言った。
「高利貸相手にそれをやったら、私の命はいくらあっても足りません。高利貸以外でも、誰かを裏切るとか、揚げ足を取ると言ったことはしないと約束します」
さすがに横田も肚を決めているらしい。
「分かりました。それなら私もお手伝いします」
「よし、これで決まった!」
坂田ともグラスを合わせた横田はグラスを置くと、腕を前に突き出し、手の甲を上にした。
――この上に手を置けというのか。
横田は進駐軍にも出入りしているので、こうしたアメリカ人の習慣にも詳しいのだろう。
岩井がおずおずと手を重ねる。
――ここに手を置けば、もう抜けられないな。
だが白木屋の役員という地位は、戦争で若い日々を失った留吉にとって、十分に魅力的なものだった。
――やってやるか!
留吉が手を重ねた。
「よし、これで勝ったも同じだ。はははは」
横田が天にも届けとばかりに笑ったので、店内の視線が集まった。
それを気にも掛けず、横田はバーテンダーに「おい、オレンジジュースをもう一杯」と頼んでいる。
――人生はどうなるかは分からない。だが勝負してみないことには、いつまでも誰かに使われる身だ。
留吉がうなずくと、岩井も力強くうなずき返した。
Synopsisあらすじ
戦争が終わり、命からがら大陸からの引揚船に乗船した坂田留吉。しかし、焦土と化した日本に戻ってみると、戦後の混乱で親しい人々の安否もわからない。ひとり途方に暮れる留吉の前に現れたのは、あの男だった――。明治から平成へと駆け抜けた男の一代記「夢燈籠」。戦後復興、そして高度成長の日本を舞台に第2部スタート!
Profile著者紹介
1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学卒業。『黒南風の海――加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で第1回本屋が選ぶ時代小説大賞を、『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞と第1回高校生直木賞を、『峠越え』で第20回中山義秀文学賞を、『義烈千秋 天狗党西へ』で第2回歴史時代作家クラブ賞(作品賞)を受賞。
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