夢燈籠 狼を野に放て第51回

 以前に尾津邸に来たことはあるが、その時は庭を造っている最中だった。だが今、門の前に立った留吉は唖然(あぜん)とした。そこには二本の桜の大木があり、その間に尾津の銅像が立っていた。しかも台座は二メートル近くあり、その上にシルクハットにタキシード姿の等身大の銅像が載っている。まさに明治の元勲と見まがうばかりのその姿に、留吉は言葉もなかった。
 ――尾津さんは着流し姿がトレードマークだったが、テキヤから実業家に転身したことを周囲に示すために作ったのだな。
 この頃から尾津は実業家に転身し、浅草の料亭「可ぶき」、すき焼き割烹店「松阪城」、化粧品や健康食品を扱う「チャーミングコーナー」、刀剣を扱う「扇風堂美術店」といった事業を展開していくことになる。
 インターホンで来訪を告げようとすると、邸内から和服姿の美女がやってきて、「ご案内申し上げます」と言う。
 それに従ってついていくと、邸内ではなく中潜りのような木戸を開けて庭に案内された。
 その広大な庭を見た留吉に言葉はなかった。
 そこは池泉回遊式庭園で、様々な四季の樹木や植物が植えられていた。その中心には大池があり、その周囲に白砂利が敷かれ、屋形船が浮いていた。後にこの屋形船は三艘に増え、連日のように宴会が開かれていたという。
「どうだ。いい庭だろう。わしが設計したんだ」
 ぼんやりと庭を眺めていた留吉の背後から尾津が現れた。これまでと変わらぬ着流し姿だ。
「も、もちろんです。素晴らしい庭ですね」
 留吉は、庭をどう褒めていいか分からない。
「ははは、君にとっては何でも素晴らしいんだな」
「はい。表現力が拙(つたな)いもので――」
 尾津についてしばらく行くと、四阿(あずまや)が見えてきた。季節は春なので、その周囲には花々が咲き乱れている。
「今日は天気がよいので、あそこで休もう」
 尾津は腰掛けると、後方を歩いていた美女に「茶を頼む」と命じた。
「さて、早速その気になったんだね」
「はい。もう私も年ですから、自分のやりたいことをやらねばならないと思いました」
「そうか。これで新聞の件が片付いた。わしも心おきなく刑務所に行ける」
 尾津が笑みを浮かべつつ煙管(キセル)を吸う。
「これも尾津さんのおかげです」
「君の申し出を、横田がよくぞ受け容れたな」
 留吉が横田に告げた方法を伝えると、尾津は膝を打った。
「そうか。そんな手があったのか」
「そうなんです。横田としても、私に払う役員報酬がなくなったので、喜んでいるのではないでしょうか」
「そうか。横田は金に汚いからな。だが、社長とはいえ『萬朝報(よろずちょうほう)』の給料など雀(すずめ)の涙だぞ」
「覚悟の上です。自分の給料を上げたければ、自分の力で購読者を増やすだけです」
「その覚悟があれば大丈夫だ。で、どうやって購読者を増やすつもりだ」
 当然のことながら、社主として尾津はそこに興味があるのだろう。
「『萬朝報』の売りは、政治家や権力者のスキャンダルを報道することでした。それを当面は継続しつつも、次第に庶民に身近な情報を伝えていくというのはいかがでしょう」
「つまり庶民の情報誌という感じか」
「そうです。政治・経済・国際などは大手に任せ、社会面を拡幅し、そこから派生する様々な情報を届けていくのです」
「例えば――」
「米、野菜、肉の価格変動情報はもとより、どこでいくらくらいで売っているとか、どこに何の新店舗ができたとか、そうした庶民に身近な情報を提供するのです」
「それで売れるのか」
「売れると思います。庶民は情報を欲していますから」
「しかし地域限定となるな」
「はい。全国的な情報は共通させますが、先ほど申し上げたような細かい情報は、地域ごとになります」
 尾津が煙管の灰をポンと落とすとうなずいた。
「なるほど、『萬朝報』を情報誌にしていくんだな」
「はい。それも徐々にしていくので、従来の購読者は離れないようにします」
「よし」と言うや、尾津が膝を叩いた。
「やってみろ。何事もやってみなければ分からん」
 尾津が蒼天に向かって高らかに笑った。

夢燈籠 狼を野に放て

Synopsisあらすじ

戦争が終わり、命からがら大陸からの引揚船に乗船した坂田留吉。しかし、焦土と化した日本に戻ってみると、戦後の混乱で親しい人々の安否もわからない。ひとり途方に暮れる留吉の前に現れたのは、あの男だった――。明治から平成へと駆け抜けた男の一代記「夢燈籠」。戦後復興、そして高度成長の日本を舞台に第2部スタート!

Profile著者紹介

1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学卒業。『黒南風の海――加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で第1回本屋が選ぶ時代小説大賞を、『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞と第1回高校生直木賞を、『峠越え』で第20回中山義秀文学賞を、『義烈千秋 天狗党西へ』で第2回歴史時代作家クラブ賞(作品賞)を受賞。

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