夢燈籠 狼を野に放て第48回
十六
年が明けて昭和三十四年(一九五九)となった。
正月も一段落した八日、尾津喜之助から電話が入り、遊びに来ないかと言ってきた。当然何か話があると察した留吉は、次の休みとなる十一日、越谷の尾津邸を訪れた。
新年の挨拶を交わした後、尾津がゆっくりと切り出した。
「実はね、今度、収監される可能性が高くなっちまってね」
「えっ、収監ですか」
闇の世界にも通じている留吉だが、さすがに収監という言葉には驚きを隠せなかった。
「ああ、実は三年にわたって長引いている裁判があって、一審では無罪判決が出たので高をくくっていたんだが、控訴審判決でそいつを破棄され、一年半の実刑判決を言い渡されたんだ」
「上告しなかったんですか」
「すぐにしたが、見通しは暗い」
尾津も今年六十二歳なのだ。この年で一年半の懲役刑は辛いだろう。
「どうしてですか。いったん無罪判決が出たものなら、可能性はあるのでは」
「いや、実は資金が続かなくて、弁護士を雇えないんだ。いやー、長い裁判というのはきついものだ」
「そうだったんですか。まさか、横田に金を貸してほしいということではありませんよね」
「ははは」と尾津が笑う。
「いくらなんでも、俺もそこまでは落ちていないよ。だが、実は相談があってね」
「は、はい」
さすがの留吉も身構えた。これまで無理を聞いてくれた経緯もあり、何かを頼まれてれば断りにくい相手だからだ。
「話はほかでもない。実は、俺は恐喝容疑で訴えられたんだ」
「恐喝ですか」
留吉の脳裏に岩井の顔が浮かんだが、恐喝は岩井の専門外の上、岩井に何かを頼むのも億劫になってきていた。
「そうだ。全く恐喝には当てはまらないと思うんだが、法の解釈は裁判官によって異なるので仕方がない」
尾津が言うには、昭和二十八年、「萬朝報(よろずちょうほう)」という新聞社を二千万円も出して買い取った。「萬朝報」といえば、明治二十五年(一八九二)、黒岩涙香という文筆家によって創刊され、内村鑑三や幸徳秋水を執筆者として大衆紙として急速に発展した。だが、その得意はゴシップ報道と翻訳・翻案小説で、次第に飽きられていった。そのため太平洋戦争前には休眠状態となり、戦後に復活したものの旬間紙となっていた。こうしたことから資金難に陥り、尾津を頼ってきたのだ。
この頃、尾津は山の手新聞(全東京新聞の前身)から尾津の新マーケット建設を批判され、それに対抗するために、名のある新聞を探していた。そのため売りに出ている新聞社を探していたところ、「萬朝報」に行き当たったのだ。
しかし尾津は様々な社会悪を暴いていくうちに、それを基に融資という名目の恐喝まがいのことを始めたので、警察から目を付けられたのだ。
結局、尾津は常盤相互銀行恐喝の罪で逮捕されたが、余罪も次々と明るみに出てきた。結局、尾津が融資という名目で恐喝した金額の累計は、実に千三百万円近くに上っていた。
「という次第だ」
平然と経緯を述べると、尾津は煙管(キセル)に煙草を詰め始めた。
「で、私に何をしてほしいのですか」
「君は新聞記者をやっていたんだろう」
「ええ、まあ」
「俺が収監されれば『萬朝報』はおしまいだ。しかし二千万円も出して買ったんだ。それを廃刊にするのは惜しいし、社員たちも可哀想だ。そこでだ――」
尾津がポンと灰を落とすと言った。
「君に面倒を見てほしいんだがね」
「新聞社の経営をですか」
「そうだよ。伝統ある新聞社なので、記者や執筆者には凄腕をそろえている。だから、やり方次第では蘇ると思うんだ」
「しかし私は記者をやったことがあるだけです。新聞社の経営など全く分かりません」
「経営と言っても社員はせいぜい二十人、記者や執筆陣はフリーだから心配は要らん」
――これはチャンスなのか。
留吉にとって、この話が自分を苦海から救ってくれる神の手のように思えてきた。
「とてもありがたい話ですが――」
「やはり、すぐには無理なのかい」
「はい。今、横田は入院中で、私がいなくなれば、五島慶太氏とのパイプがなくなるんです」
「そうか。残念だが仕方がない。『萬朝報』の買い手は探すが、おそらく出てこないだろう。しばらく旬刊にでもしておくか。だから君の都合のいい時に連絡してくれよ」
「せっかくのお話、申し訳ありません」
留吉は正座して深く謝罪した。
尾津の申し出は魅力的なものだった。だが、ここですべてを捨てて転身するわけにはいかない。だが、乗り掛かった船から下りれないでは、いつまでも経っても状況は変わらない。
――このまま区切りがつけられなければ、俺はどうなる。
そうなれば、生涯を横田の側近として終わるということになる。
「何を考えている」
尾津が慈悲深い顔で問うてきた。
「この決断が正しいかどうか、私も迷っています」
「だろうね。その顔にそう書いてある。だが、人は責任を果たさねばならない。ここで投げ出すことができないのも分かる。いつか『これが区切りだ』と分かる時が来る」
「ありがとうございます」
留吉は泣く泣く横田との関係を継続させることにした。
四月、この一件を早々に手仕舞いしたい五島は、秋山一族にさらなる譲歩を求めた。それは五島側の人間を取締役会長に据え、社長の秋山利郎と同等の代表権を持つこと、さらに取締役経理部長にも五島側の人間を据えるというもので、その代わりに、利郎の退任を求めず、五島側もこれ以上の株の買い集めは行わないという条件だった。
これにより八月四日、臨時取締役会が開かれることになった
五島としては、秋山一族を追放できないことは不満だったが、ステップを踏んでいくためには、この辺りで妥協せねばならなかった。
ところが秋山陣営も、このままではいつか追放されることは間違いないと見越し、大きな一手を打ってきた。
なんと児玉誉士夫に泣きついたのだ。児玉は言うまでもなく政財界のドンであり、右翼の大立者だ。闇社会で五島の上に位置するとしたら、児玉以外いなかった。
この頃の秋山陣営の弁護士の一人に、後に作家になる佐賀潜がいて、彼が児玉と親しかったのが縁だった。
児玉の介入を知った五島は怒り心頭に発し、秋山一族と児玉に対し、全面戦争に踏み切る決断を下した。まさに昭和の巨魁が、東洋精糖をめぐって衝突する機会が訪れたのだ。
自宅療養中の横田は、これを聞いて狂喜乱舞した。すぐに五島に電話すると、「五島さん、やりましょう」と背を押した。これにより五島と横田は一蓮托生(いちれんたくしょう)となり、天下分け目の戦いに臨むことになる。
児玉が最初に打った手は、関東一円から暴力団や右翼団体を集め、本社の社屋や工場を守らせることだった。五島が強硬手段に打って出て、社屋と工場の占拠に及ぶと思ったのだ。
さらに児玉は五島側の役員を脅したり、餌で釣ったりして味方に引き入れようとした。東急から派遣された者は釣らなかったが、安田火災海上や第一生命から派遣された役員は、児玉を恐れて鞍替えする可能性も出てきた。
しかし東急陣営も必死で根回しを行い、安田火災海上や第一生命から派遣された役員二人から「寝返らない」という確約を取った。しかもそれを書面でもらったので間違いのないものだった。この時、十五人の役員のうち、東急側となったのは前記の二人を含めて八人で、多数決で確実に勝てるはずだった。
この戦いを傍観者のような立場で見ていた留吉だったが、臨時株主総会の前日、突然、五島から呼び出しがあり、一つの依頼を受けた。それは留吉にしかできない仕事ではなかったが、かつて白木屋の件で成功させたことがあり、引き受けることにした。
そして八月四日、天王山となる取締役会が、有楽町の交通会館大会議室で、朝の十時から始まった。
秋山側が児玉を雇ったことで、東急側の出した条件は反故にされたも同然なので、東急側の役員たちは秋山側の不正をなじり、健全な経営体制を敷くために秋山利郎の退陣を要求した。そして最後に東急側八人の署名が入った退陣要求を提出しようとしたが、その直前、議長の秋山利郎は、秋山側の全役員がそろっていないことを理由に署名を受け取らず、「閉会!」と叫んだ。そのまま秋山陣営が引き揚げたことで、東急側は株主総会を継続し、東急側の新社長を選任した。
そして議事録に役員たちの印鑑を捺した。これで登記所にいち早く持っていけば、秋山体制は終焉を迎える。
東急側の弁護士がそれを図面入れのような大型の鞄に収め、車に乗って交通会館から出ようとした時だった。児玉の息のかかった右翼と思しき連中が、弁護士の乗った車の行く手を阻んだ。クラクションが激しく鳴らされ、交通会館の周辺は騒然としてきた。
「さあて、相手は罠に掛かったようです」
留吉はそれを尻目に、白木屋の文書課長と一緒に交通会館の裏手に回ると、待たせてあったハイヤーに乗り込んだ。
「日本橋の法務局登記所へお願いします」
ハイヤーの行く手を阻むものはなかった。
「さすが横田さんの子飼いの方だ。抜け目がないですね」
「こうしたことには慣れていますからね。今頃、弁護士さんは車から引きずり降ろされてたいへんでしょう」
「それで児玉の手の者たちは、鞄の中に議事録がないことに気づくという寸法ですね」
「その通り。これで五島さんの完勝です」
車は登記所に着いたが、怪しげな者たちが正面玄関前にいた。だが、留吉と白木屋の文書課長の面は割れていないので、誰にも邪魔されることなく法務局のビルへと入ることができた。ここは法務局なので、出入りしている全員が登記に来ているわけではないからだ。二人は法務局の役人然とした態度で、談笑しながらエレベーターに乗り、迅速に登記を済ませた。
これで留吉の役割は終わった。まさにこれで完勝のはずだった。
Synopsisあらすじ
戦争が終わり、命からがら大陸からの引揚船に乗船した坂田留吉。しかし、焦土と化した日本に戻ってみると、戦後の混乱で親しい人々の安否もわからない。ひとり途方に暮れる留吉の前に現れたのは、あの男だった――。明治から平成へと駆け抜けた男の一代記「夢燈籠」。戦後復興、そして高度成長の日本を舞台に第2部スタート!
Profile著者紹介
1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学卒業。『黒南風の海――加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で第1回本屋が選ぶ時代小説大賞を、『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞と第1回高校生直木賞を、『峠越え』で第20回中山義秀文学賞を、『義烈千秋 天狗党西へ』で第2回歴史時代作家クラブ賞(作品賞)を受賞。
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