夢燈籠 狼を野に放て第53回

 六月になり、留吉は『萬朝報』の社長の座に就いた。そして出社初日、契約記者や社員を前にして新たな方針を発表した。
「という次第です。この方針に従い、徐々に紙面を変えていくつもりです」
 一人の記者が手を上げる。
「これからは、もっと読者に身近な情報を伝えていくのですね」
「そうです。情報こそ新聞の命です。それを地域に特化して伝えていきたいのです」
「それでは、大手のやっている地方欄や地域面と同じでは」
「大手の地方欄はせいぜい一面しか取っておらず、詳しい情報を掲載しているとは言えません。だからこそ意義があると思います」
 別の一人が発言する。
「だったら、高校野球予選の詳しい情報も載せたらいかがでしょう」
「それはいい。野球だけでなく地元で開かれたスポーツ大会や別の地方で開催されたものでも、地元の学校や選手が活躍したものを掲載しましょう」
 最初は及び腰だった記者たちも、留吉のやる気に影響されたのか、活発な議論が展開されるようになった。それを留吉が黒板に書いていく。二時間もすると、新たな方針が決まった。
 その時、何の前触れもなく、パナマ帽に羽織(はおり)姿の尾津が姿を現した。
「やっているな」
 誰もが立ち上がり、背筋を伸ばして挨拶する。
「突然どうしたんですか」
「急な用件で立ち寄った」
 それを聞いた留吉は、皆に議論を続けるように言うと、尾津を社長室に通した。
「では、お茶でも――」
「そんな余裕はない。まずは聞いてくれ」
「はい。何なりと」
「実はな、安保条約の批准(ひじゅん)を記念し、アイゼンハワー大統領が六月十九日にやってくるのを知っているだろう」
「もちろん知っています」
 仕事柄、大手新聞にはすべて目を通しているので、留吉は当然知っていた。
「大統領は羽田から皇居までの十八・七キロメートルを、天皇とオープンカーに同乗する。これに対し、左翼勢力が沿道で抗議行動を起こす公算が高いという」
「そう報道されていましたね」
「うむ。警察は、このコース上に二メートル間隔で警官を配置するということだ。これだけで一万八千七百名になる。警視庁は二万四千名いるが、ほかの仕事もあるので、これで出払うことになる。しかし十万人規模の左翼勢力が動員されると予想され、とても抑えきれない」
「機動隊は動員されないのですか」
「もちろん一万五千人の大半が動員されるが、機動隊は騒ぎを鎮圧するための兵力だ。と、なるとだ」
 尾津は思い出したように煙草に火をつけると続けた。
「そこで自民党安保委員会は、極秘裏に児玉誉士夫さんに人手を出してもらえるよう頼んだんだ」
「ちょっと待って下さい。児玉さんと言えば右翼の大立者です。それだけで足りるのですか」
「もちろん足りない。だからヤクザ、博徒、テキヤにも声がかかった。わしは児玉さんに大恩があるので、人手を集めねばならない」
 それがどんな大恩か留吉は知らないが、尾津はそんなことを気にも留めず続けた。
「つまり暴力沙汰(ざた)も辞さないということですね」
「そうではない。抑止力だ。危ない連中が肩を怒らせて歩いていれば、左翼連中は騒げないだろう」
「それは尤(もっと)もですが、それと新聞がどう関係してくるんですか」
「アイゼンハワー大統領の来日まで、もう十日もない。わしはわしで関東の親分衆に電話をかけまくったが、それでも集められる人数には限りがある」
「電報はどうです」
「そんなものは短くて趣旨が伝わらない」
 ようやく留吉にも依頼の筋が分かってきた。
「それで新聞を使って集合をかけるのですね」
「そうだ。末端の若い衆も新聞なら読む。わしはテキヤだけで一万人は集めたい」
 字が読める者は、誰もが新聞を読む時代なのだ。
「極秘の招集ではないのですか」
「そうだ。大っぴらにはできない。そこでだ――」
 尾津は「大日本神農会」というテキヤ連合を結成するという趣旨で招集をかけるという。
「それで集まりますか」
「集まる。そのくらいの恩は売ってきている。今は、二の足を踏んでいる時ではない。すぐにやれ」
 こうした時の尾津には迫力がある。とても拒否などできない。
 ――社長といっても、しょせん社主の要請を断れないのだ。
 それが雇われ社長の宿命でもあった。
「分かりました。すぐに原稿を書きます」
「わしは、ここで原稿をチェックする」
 その後、すぐに作業が始まり、発行できる態勢が整った。
 翌日、新聞が発行されるや、関東や東北各地から続々とテキヤが集まってきて、最終的な動員数は一万五千人を超えた。
 しかし十五日、大事件が起こる。
 左翼の一つ、共産主義者同盟(通称ブント)が改定安保条約とアイゼンハワー来日反対を唱え、衆議院南通用門から国会構内に乱入した際、警官隊と衝突し、東大生の樺(かんば)美智子が死亡したのだ。
これによりアイゼンハワーの来日は急遽中止になり、十九日、新安保条約は自然成立した。そして二十三日、首相の岸信介は辞意を表明する。
 これにより尾津の動員も無駄に終わった。尾津は一万五千人の宿泊や飲食で二億円を消費したというが、児玉の覚はめでたく、先々、様々な利権が転がり込んでくると言っていた。
 一方の留吉は、新聞の威力をまざまざと思い知り、これを使って大きなことができると確信した。

 安保闘争が激しさを増していったこの年、新宿駅前では区画整理が始まっていた。かつて関東尾津組の「新宿マーケット」として闇市が広範囲に広がっていたこの地域に、最後まで残っていた「ハモニカ横丁」や「竜宮マート」も消滅し、新宿は生まれ変わった。
 だが、立ち退きに際して尾津は多額の金を都から得ており、それをテキヤや店主たちに配布したので、尾津の人望は騰(あ)がりに騰がった。
 だが、昭和三十六年(一九六一)三月、六十二歳になった尾津は裁判に敗訴し、一年半のお勤めとなった。これ以降、尾津はひっそりと表舞台から身を引いていく。
 尾津の時代の終焉は、戦後昭和の終わりを告げる鐘のようなものだった。
 尾津は昭和五十二年(一九七七)、七十九歳の生涯を閉じる。死亡時、尾津の資産は二十四億円もあったという。

夢燈籠 狼を野に放て

Synopsisあらすじ

戦争が終わり、命からがら大陸からの引揚船に乗船した坂田留吉。しかし、焦土と化した日本に戻ってみると、戦後の混乱で親しい人々の安否もわからない。ひとり途方に暮れる留吉の前に現れたのは、あの男だった――。明治から平成へと駆け抜けた男の一代記「夢燈籠」。戦後復興、そして高度成長の日本を舞台に第2部スタート!

Profile著者紹介

1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学卒業。『黒南風の海――加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で第1回本屋が選ぶ時代小説大賞を、『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞と第1回高校生直木賞を、『峠越え』で第20回中山義秀文学賞を、『義烈千秋 天狗党西へ』で第2回歴史時代作家クラブ賞(作品賞)を受賞。

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