夢燈籠 狼を野に放て第47回

十五

 東洋精糖社長の秋山利郎は新聞各紙に談話を発表した。
「横田氏のことはたいへんお気の毒でしたが、これを機に、私たちは五島慶太氏と円満解決のための話し合いを進めることになりました。五島氏と横田氏の関係を、われわれはよく知りませんが、横田氏とは関係のない線で、五島氏と交渉を進めていきます」
 横田の負傷を機に、膠着(こうちゃく)状態が動き出した。しかもそれは、横田の意思を無視して進められることになった。
 まず横田関連株の暴落を防ぎ、東洋精糖株買い占め事件を終息させるべく、東京証券取引所が調停に乗り出してきた。その素案の骨子は、東洋精糖を秋山派と五島派の共同経営にするというものだった。具体的には、「東急側の四人の役員の受け入れ」と「公募する予定の新株二百万株分の引き受け権を東急側に渡す」という条件だった。
むろん背後で、五島が東京証券取引所を動かしたのは明らかだった。というのも自分から調停案を出したのでは、五島のメンツが潰れるからだ。
 実はこの頃、五島にも大きな変化が起こっていた。それは糖尿病の悪化だった。そのため五島も、この件を早急にまとめようと思っていた。
 その結果、六月二十八日、双方は東京証券取引所の調停案に同意した。ところが事態は一転する。
 七月五日、東京地方検察庁特捜部の捜査を受けた東洋精糖は、砂糖消費税法違反並びに背任横領の疑いで、利太郎・利郎父子が逮捕されたのだ。
これにより東京証券取引所の調停案を、小菅拘置所にいる利郎がどう判断するかが今後の焦点となった。しかし獄中では意思疎通もままならず、時間がかかるのは明らかだった。かくして東洋精糖買収の一件は、まだ一波乱ありそうだった。

 横田が入院している銀座菊地病院を留吉が初めて訪問できたのは、面会謝絶が解けて間もない七月中旬だった。
 横田は美人秘書に何事か口頭で伝えていたが、横田も秘書も笑顔だったので、たいしたことではなさそうだ。
 留吉が来たことで秘書を帰らせた横田は、早速尋ねてきた。
「おい、蜂須賀夫人に三千万円も支払ったんだってな」
「当然のことです」
「なぜ当然なんだ。安藤は逮捕されて懲役八年と新聞に書いてあったぞ。それなら出てくるまでに夫人が亡くなるかもしれないじゃないか」
 生死の境をさまようことで考えが変わるかと思いきや、横田は横田のままだった。
「亡くなったら返さないつもりでいたのですか」
「それは、まあ、そういうことだ」
 横田の歯切れが悪くなる。
「もし夫人が亡くなったとしても、相続人は債権も引き継ぎます。つまり法律がある限り、ごまかしは利かないんです」
「それは分かっているが、裁判所などというものに強制力はない」
「待って下さい。それでは社長も横田産業も信用が失われ、財界から弾き出されます」
「そ、そんなことはない」
 突然、留吉の口調が強気に変わったためか、横田が戸惑っているのが分かる。
「いいですか。この件は、もう五島さんに任せているんです」
「君は何を企んでいる。まさか五島さんと組んで役員たちを丸め込み、私の会社を乗っ取ろうとしているのではないか」
 留吉は情けなくなってきた。
「そんなことは考えていません。社長が動けない間、誰かが東洋精糖の件を片づけねばならないでしょう。この件に詳しいのは私です。それで役員たちから委任されたのです。そして社長の株も含めて五島さんに委任したんです。それ以上、いい手がありますか」
「ふん」と言って横田が横を向く。
「では、状況を報告します」
 留吉が経緯を報告したが、横田は聞いているのかいないのか、横を向いたままだ。
「ということで、現在、小菅拘置所内にいる秋山利郎社長が、東京証券取引所の調停案に合意するかどうかとなっています」
「分かった。つまり五島さんに任せておけば、秋山一族を追い出せるんだな」
「まだ、そこまでは煮詰まっていません」
「追い出せなければ意味はないだろう」
「物事には順番があります。ただし、秋山一族の包囲網は徐々に狭まってきています」
「そうか」と言うや、横田が元気なさそうに言った。
「こうしていると退屈で仕方がない。仕事をしていないと、私は死んだも同じだ」
「こればかりは仕方ありません。十月頃には退院できるでしょう」
「そんなにかかるのか」
 横田がため息をついた。

 退院できたものの、横田がまだ完全に回復していない十月十七日、小菅拘置所の中で、秋山利郎は東京証券取引所の調停案に基づく和解契約に調印した。それは秋山側に不利なものだったが、この調停案を受け容れたところで、東洋精糖から秋山一族が駆逐されるわけではないので同意したのだ。これを受けて、五島は次の一手を打つことにする。だが、そこにはさらなる混乱が待ち受けていた。

夢燈籠 狼を野に放て

Synopsisあらすじ

戦争が終わり、命からがら大陸からの引揚船に乗船した坂田留吉。しかし、焦土と化した日本に戻ってみると、戦後の混乱で親しい人々の安否もわからない。ひとり途方に暮れる留吉の前に現れたのは、あの男だった――。明治から平成へと駆け抜けた男の一代記「夢燈籠」。戦後復興、そして高度成長の日本を舞台に第2部スタート!

Profile著者紹介

1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学卒業。『黒南風の海――加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で第1回本屋が選ぶ時代小説大賞を、『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞と第1回高校生直木賞を、『峠越え』で第20回中山義秀文学賞を、『義烈千秋 天狗党西へ』で第2回歴史時代作家クラブ賞(作品賞)を受賞。

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