夢燈籠 狼を野に放て第44回

十二

 留吉は夢を見ていた。かつて住んでいた江ノ島の実家で、幼い留吉のめんどうをみていた老婆のぬいと一緒に、庭の石燈籠を眺めている夢だ。
 ぬいは無言で、何をするでもなく後方に佇(たたず)んでいた。窓から身を乗り出した留吉は、その妖しい灯(あか)りを放つ灯籠をじっと見つめていた。
 その後、覚醒するにつれ、逆に燈籠の姿がはっきりしてきた。その石面のゴツゴツした感触やそこから漏れる紅色の灯りまでもが、見事に脳裏で再現される。
 燈籠が突然問うてきた。
 ――俺と話したいのか。
 ――ああ、そうだ。
 ――では、泣き言を聞いてやる。お前の泣き言を聞いてやる人間は、もうこの世に一人もいないからな。
 ――口惜しいがその通りだ。そこまで分かっているなら、俺の話を聞かずとも分かるな。
 ――もちろんだ。齢(よわい)五十まで何者にもなれなかった男が、これから何者かになれるかどうかだな。
 ――うむ。先のことは君にも分からないだろうが。
 ――その通りだ。人生は自分で切り開くものだと、お前は分かっているだろう。
 ――分かっている。そろそろ潮時だとも思っている。
 ――潮時というと、横田と別れるのか。
 ――そうだ。このままでは人生で最もよい時期を横田のために使いきってしまう。
 ――そうだな。六十を過ぎれば体力もなくなり、気力も失せる。だがな、一つだけ忘れてはいけないことがある。
 ――それは何だ。
 ――年齢が人生を終わらせるのではなく、自分が人生を終わらせるんだ。
 ――自分がだと。
 ――そうだ。自分が人生をあきらめた時、人生は静かにおわっていく。
――そういうものか。
――そうだ。だが俺は、お前にあきらめるなとは言わない。しかし母さんやぬい婆さんは、お前がこのまま終わるとは思っていないはずだ。
 ――そうだったな。ありがとう。
 ――俺に礼は要らない。
 それで燈籠は黙ってしまった。そしてその姿は次第におぼろになり、脳裏から消えていった。
 江ノ島にあった家や土地は、すでに借金のカタに取られてしまったので、今、石燈籠がどうなっているかは分からない。次の持ち主によって破棄されているかもしれない。もしかすると、江ノ島の浜辺か岩場に投げ捨てられたかもしれない。しかし留吉の思い出の中の燈籠は、今でもあの庭で淡い光を放っているのだ。
 留吉にとって、燈籠は自らの思考が袋小路に入りかけている時に、大局に戻してくれる役割を果たしてくれた。これまでの人生で、どれだけ燈籠に助けられたか分からない。
 ――このまま俺の人生は終わるのか。いや、そういうわけにはいかない。
 だが、どうすればこの状態から脱せられるかは分からない。今の留吉は、横田のところを飛び出したところで何のあてもないからだ。
 
 四月某日、出社するとメモが置いてあった。
 ――万年東一からか。
 留吉はすぐに万年に電話したが、お話し中で通じない。この頃は留守電などなく、また小さな事務所では一回線か二回線しか引いておらず、都合よくお目当ての相手にコンタクトするのは困難だった。そこで留吉は、タクシーで万年の中目黒の事務所に駆けつけることにした。
 そこは、玩具製造会社とタクシー会社を兼ねた事務所だった。
 この頃の万年は二つの会社を立ち上げて実業家に転身していた。幸いにして万年はいて、留吉を応接室に通してくれた。
 今年五十歳になる万年は年相応の貫禄を身に付けており、悠揚迫らざる態度でソファーに座った。
「昨夜、お電話いただいていたようで申し訳ありません」
「横田さんの右腕の坂田さんだ。夜の付き合いも多いのでしょう」
 万年が応接セットに備えられたマールボロを留吉に勧めながら言う。
「いやいや、例の件が一段落したので、少し早く帰宅しただけです」
 例の件とは、言うまでもなく東洋精糖の株買い占めの件だ。
「そこまでは横田さんの得意の舞台だ。勝手にやればよい。だが、慣れない舞台を踏むのはよした方がよかったね」
「安藤さんのことですね。それで首尾はいかがでしたか」
 留吉は、万年を通じて安藤に話をつけてもらおうとしていた。
「それがね。ようやく会えたんだが、本人が頑なになってしまっていてね」
「頑なというと――」
「人というのは難しいんだよ。とくにわれわれのような世界で生きてきた者たちは、何よりもメンツを大切にする。それを安藤は潰されたんだ。怒るのは当たり前だろう」
「もちろんです。でも、そこを曲げて何とかしてもらいたいんですよ」
「気持ちは分かりますがね。世の中には金で解決できることと解決できないことがあるんですよ」
 万年が渋い顔で煙草を吹かす。その度に大きな銀の指輪が光る。
「安藤さんは、やはり金では動きませんか」
「金だけではね。安藤の条件は、まず蜂須賀夫人に金利分と詫び金を含めて三千万円を支払う。その後、横田氏が直接安藤に詫びるという手順を踏んでほしいとのことです」
 万年が言いにくそうにしたので、留吉が補足した。
「やはり三千万円、耳をそろえて払わねば収まりませんか」
「もちろんです。横田さんが出せる金は五百万と聞きましたが、それでは私の口利き料にもならないでしょう」
「では、安藤さんが納得する金額はいくらくらいなので」
「二千万円なら説き伏せられます」
「いや、それはちょっと――」
 横田は一千万さえ出し渋ったのだ。
「それは安藤の取り分だからね。私の口利き代は別です」
「それはいかほどで」
「人が生きるか死ぬかの話をまとめるんですよ。安藤の半分はいただきます」
「つまり蜂須賀夫人への返済分を含めて六千万と――」
 それは金額を横田が払うはずがない。
「そうなりますね。それなら奴を押さえ込めますよ」
 蜂須賀夫人に返済する額のうち一千万から一千五百万は、安藤の取り立て手数料となるので、安藤の取り分だけで三千万円から三千五百万円になる。
「横田を説得してみます」
「無理でしょう」
 万年が鼻で笑う。
「そうですね。少し譲歩していただけませんか」
「私の立場も分かってもらいたいですね。横田氏は安藤のメンツを潰したんだ。金で解決できる問題ではない。それを何とか黙らせようとしているんだ。安藤の怒りを鎮め、この条件を引き出すまでは、私でもたいへんだったんですよ」
「すみません。横田の意向を確かめます」
「それから、こうしたことは期限が大切です。とくに横田氏を相手にする場合はね。しかし六千万円を集めるたいへんさは分かります。それで五月いっぱいを期限としましょう」
「それが無理だったら――」
「この話は破談です。私は手を引きます。そうなればどうなるかは分かりますよね」
「もちろんです。横田には、そこをはっきり告げます」
 用が済んだので、「失礼します」と言って留吉が出ていこうとすると、万年が意外な顔をした。
「あなたは、いくらまでなら金を出せるとか、そういった条件を、横田からもらってきていないんですか」
「私もそれを確かめました。しかし横田は、いただいた条件を聞いてから、私に答えを持たせると言いました」
「そうですか」と言って万年が気の毒そうに言った。
「あなたも相当の年でしょう。それでは子供の使いですよ」
 その言葉が留吉の胸を抉る。
 ――そうか。俺は子供の使いなんだな。
「あなたがいるから、横田氏は信用されていると聞いています。安藤もあなたを信用しています。そんなあんたが、いつまでも横田ごときに使われていていいんですか」
「私もいつかは独立したいのですが、これも乗り掛かった船で――」
「人には時間が限られているんですよ。一廉(ひとかど)の者になるには、それなりに時間がかかる。私はそれに気づき、渡世から足を洗い、実業家になったんです。うまくいくかどうかは分かりませんがね」
 万年が高笑いした。その笑い声は留吉を嘲笑っているかのように聞こえた。
 ――もはや猶予はない。
 横田の身の安全が図れ、東洋精糖の件が片付いたら、留吉は本気で横田から離れようと思った。
 会社に戻った留吉が、このことを横田に告げると、横田は「分かった」とだけ答えた。それで、いつまでに金を用意するか問うたところ、「一度では無理なので、まずは蜂須賀夫人の三千万円を工面するので待て」という指示だった。それでは万年に返事できないので、五月いっぱいで用意できるかどうか問うたところ、横田は「大丈夫だ」と答えたので、留吉はその旨を万年に告げた。

 六月一日の朝、出勤すると万年から電話があった。
「坂田さん、昨日までに入金はありませんでした」
「ええっ、今確認しますので、後でコールバックします」
 留吉は前日、つまり五月三十一日の朝、経理課に行って、銀行で三千万円を安藤の指定する口座に振り込む確認していた。経理課の課長もそれに同意していたはずだ。
 経理課に飛び込むと、課長は震え声で「社長から止められました」と答えた。
 早速、社長室に行くと、横田は誰かと歓談中だった。
「社長、緊急のお話があります」
「君、今は来客中だ。後にしてもらえないかね」
「できません。社長の命が懸かっているのです」
 それを聞いた来客が「出直してきます」と言って立ち上がる。「待って下さい」と横田は引き留めたが、来客は「午後一に来ます」と言って帰っていった。
「坂田君、あの方は某信用金庫の支店長だよ。融資の件で来ていただいたんだ」
「それどころじゃないですよ。経理課長に何を言ったのですか」
 留吉が詰め寄ると、横田がきまり悪そうに答えた。
「私が手続きを止めるように言ったんだ」
「経理課長から、私への連絡も口止めしたはずです」
「まあね」
「どうして、そんなことをしたのですか」
「坂田君、会社というのは資金繰りなんだよ」
「そんなことは分かっています!」
 留吉が机を叩いたので、横田も怒りのスイッチが入った。
「おい、この会社は誰のものか分かっているのか。生意気なことを言うな!」
「いいですか。この件は私が託され、私の信用で話をつけてきたのです。しかも社長は合意したじゃないですか。それを反故(ほご)にしたら相手も怒ります。しかも相手は、何を仕出かすか分からない連中ですよ」
 横田がため息をついた。
「ああいう連中は金に弱いんだ。一ヶ月待ってくれと言えば、待ってくれる」
「それは違います。安藤は金よりもメンツを重んじます」
「そんなことはない。だったら仲介役の万年に確認してみろ」
「これは、今までのビジネス上の駆け引きとは違います。下手をすると、社長の命を取られるんですよ」
 横田がうんざりしたように言う。
「君は、あの連中の本質が分かっていないんだ。メンツを重んじるといったところで、しょせん金に転ぶ。それが闇の世界で生きる者たちなんだ」
「その考えは間違っています。とくに安藤君は若いんです。ここで舐められたまま何もしなかったら、彼はこの世界で生きていけません。それを何とか万年さんが話をつけてくれたんです。それを足蹴にしたらたいへんなことになります」
「しかし君、六千万円なんて大金を出せるわけがないだろう。それなら大沢のところの若い衆をボディガードでつけてもらえば、十分の一以下で済む」
 大沢とは渡世人の大沢武三郎のことで、ここのところ横田と親しくしていた。すでに横田は夜の送り迎えに人を出してもらっている。
「社長の言い分は分かりました。その旨を万年さんに伝えてもよろしいですね」
「うむ。だが六月末に三千万円を払うと言うんだぞ」
 横田の前を辞した留吉は、万年に電話して「一ヶ月待ってくれ」と言ったところ、万年は笑って「また、その手か」とだけ言って電話を切った。
 その後に何が起こるかは、推して知るべしだった。

夢燈籠 狼を野に放て

Synopsisあらすじ

戦争が終わり、命からがら大陸からの引揚船に乗船した坂田留吉。しかし、焦土と化した日本に戻ってみると、戦後の混乱で親しい人々の安否もわからない。ひとり途方に暮れる留吉の前に現れたのは、あの男だった――。明治から平成へと駆け抜けた男の一代記「夢燈籠」。戦後復興、そして高度成長の日本を舞台に第2部スタート!

Profile著者紹介

1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学卒業。『黒南風の海――加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で第1回本屋が選ぶ時代小説大賞を、『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞と第1回高校生直木賞を、『峠越え』で第20回中山義秀文学賞を、『義烈千秋 天狗党西へ』で第2回歴史時代作家クラブ賞(作品賞)を受賞。

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